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2017年2月 7日 (火)

だから斗南

先日、市民手づくり舞台の脚本演出を手掛け、高校演劇では大沼高校を全国区に押し上げてきたS先生と会食をした。

ご一緒したのは会津出身で、会津の船乗りたちの歴史を調べておられるHさん。東京からわざわざ帰郷、その弟さんご夫婦も加わり、5人での楽しい宴となった。

この宴を、そもそも繋いだのは私と言う事になるのだろう。

Hさんは自らも商船大学を出られ、世界の海を駆け回った海の男である。

退職後、日本の商船史になぜか会津出身の船乗りたち(それも一級の)が数多くいる事を知り、その歴史を調べ始めたという。

その研究の成果を母校・会津高等学校の同窓会の特別講演会で話されたのが三年前になる。

それはまさに目からうろこのような内容だった。

会津藩は沿岸警備の任についてきたことから早くから海に目を向けていた。海運の重要性に気付き自らの港を持ちたいと新潟港を譲り受けるべく幕府に強く働きかけて来た。

当然ながら船(帆船だけにとどまらず西洋の近代船)を操船できる人材の育成も目指していたのだと言う。

もっとも強烈に印象深かったのが斗南への移藩を決めたその理由への考察だ。

あの時、会津には二つの道があったとされる。猪苗代の地か?下北の最北の地か?だ。

多くの書物には、会津藩の再興を願い、新政府の覚えがめでたい様に敢えて困難な下北の道を選んだと記されている。

「挙藩流罪」ともいえる過酷な道を選ぶことで会津藩の再興を願ったという、なんとも悲劇的なお話だ。

だが、当時の若き藩の指導者たちはそんな悲壮な思いだけで斗南を選んだわけではない、というのがHさんの説だ。

斗南には海がある。会津藩が港を持つ事が出来る。

海運の振興によって藩の再興はもとより、他の雄藩をも凌ぐほどの発展を手にする事も決して夢ではない・・・・・!

だからこそ斗南だったのだ!事実、会津藩は尾張藩から五千両の借金をし二艘の船を買い入れていたと言う。

単に戊辰戦争の悲劇の上塗りのような話ではなく、本当は前向きだったんですねぇ・・・と、目からうろこの想いを味わった。

「これは面白い!」と思った私は、2018年に行われる市民手づくり舞台の脚本・演出を担当することが決まっていたS先生に、芝居のネタとしてこんな面白い話があると紹介したという訳である。

S先生もそれは面白い、という事になり改めてHさんと連絡を取り、様々な資料を送っていただいた。

のが、もうだいぶ前になる。

あれからもう一年ぐらいたつだろうか、S先生も私も胸の中に悶々とアイデア的なものがあり、来年の舞台へ向けて昨秋ごろから運営委員会も動き出した。

そこで今回、一度みんなで会いましょう、という事になったという訳なのだ。

席上、乾杯もそこそこにHさんは様々な資料のコピーを準備して会津の船乗りたちの話を熱く語り出す。

なぜ会津に優秀な船乗りが育ったか?誰が岩崎弥太郎と彼らを繋いだか?会津の船乗りたちは戦争(第二次世界大戦)にのめり込む日本をどう見ていたか?などなど、など。

話は尽きる事が無い。

S先生は面白い、面白い、と興味津津。このテーマで次の芝居を書く気持ちは充分に固まったようだ。

一体どんな話になるのか、今のところ雲をつかむような話ではあるが、私も微力ではあるが、なんでもお手伝いしたいと思っている。

もちろんHさんも会津の船乗りたちが芝居になるのならどんな苦労もいとわない!と協力的だ。

奇しくも来年は戊辰150年という記念の年だ。

戊辰と言えば会津落城の悲劇、だが会津は負けて泣いてばかりいたわけではない。

七つの海をまたにかけて世界勇躍の大志を抱いていたのだ、と思えば胸を壮快な風が吹き抜ける思いだ。

亀山社中の龍馬だけが海を目指したのではなかったというわけだ。

「北斗以南皆帝州」(北極星より南はすべからく天子様の地である)から取ったと言われる斗南藩の名前。

だからどこに住んでも我慢できる・・・じゃなくて、だからどこからでも飛躍出来る!

だから斗南だったのだ、とするこの一説。

ここから飛び立ち素晴らしい芝居ができる事を祈りたい。

まだ影も形もありませんが、市民手づくり舞台は来年の7月の公演予定です。

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