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2016年9月

2016年9月30日 (金)

責任者はいない。

会津のニュースが全国版でも取り上げられている。

それもとても褒められたお話ではない。

市議会議員が、フィリピン人の妻に生活保護費を不正受給させていたというのだ。それも2年半に渡り6百数十万円と高額で悪質だ。

2,3か月前に不正受給で妻が逮捕され、市議会議員は全く関与していない、知らないと申し開きをしていたが、結局は逮捕された。

それはそうだろう。難しい生活保護の申請書類を日本語もたどたどしい方が書けるはずもない。

生活保護の不正受給は全国的な大問題だが、その片棒を市民の代表である市議会議員が担いでいたという事で全国的にも話題になっているわけだ。

ひどい話だが、これがまかり通った事にも疑問が湧く。

生活保護の申請は簡単なものではない。

一時期、何千万円もの収入がある芸能人の親が生活保護を受けていて問題になった。あれ以来というわけでもないだろが、現在、審査は大変に厳しいはずだ。

そうしなければ自治体の財布もパンクしてしまう。

市役所の体制はどうなっていたのだろうか?

その奥さんは、生活保護を受けながらフィリピンパブで働いて収入を得ていたという。その旦那だって市議会議員に立候補して当選したのだから文無しだったわけではあるまい。

周囲の噂、評判もあったに違いない。

でも、役所的には書類の不備はなかったのだろう。

あやしいし、???、でも書類的に不備が無ければまかり通るのが役所だ。

これは地方でも東京でも同じことだ。

役人はややこしい事に巻き込まれるのを極端に嫌う。仕事に加点はないが、減点はあるからだ。

何事もなく無事に時間が過ぎれば、給料は着実に上がって行く。

仕事にヒットもホームランもいらない。エラーやボーンヘッドさえなければ、誰だって上がるのだ。

それが事なかれ主義を生むし、責任の所在を包み隠す摩訶不思議な書類の山を築く。

ろくでもない人を議員にした有権者も悪い。当のろくでもない人はもちろん悪い。

しかし、それを許した(放置した?)側には責任を取る人は全くいない。

それがお役所という伏魔殿だ。これは地方でも東京でも同じことだ。

2016年9月26日 (月)

歳をとる

当たり前の話だが人は毎年歳をとる。

「歳をとる」という言い方が自然に馴染むのは何歳くらいからだろうか?

二十、三十では「歳をとる」とは言わないだろう。

やっぱり五十坂を越えたあたりだろうか?

近頃は、自分の事は当然だが、人は歳を取るものなのだなぁ・・・とつくづく思う。

若い社員も係長になり、課長になり、やがて役職定年などという歳が見えてくる。ついこの間までバリバリだと思っていたが、その人の後の事を考えなければならない、そんな時があっという間にやってくる。

万全の態勢だと思っていても、それがいつまでも続く事はない。(続けることはできない)

人はひとつひとつ歳をとり、一年一年情勢は変わってくるのだ。

漫然と過ごしてしまったら、あっという間に様々な所で経年疲労が起きてボロが出てくる。

トップに立つ人間は、「今」はもちろん大事だが「明日」を考える事の方がもっと大事だ。

あの時、ああしておけば・・・と後悔しても時は絶対に戻らない。

会津の酒屋さんの大手が相次いで別会社に譲渡される。かつてはトップと二位の造り酒屋だ。

もちろん懸命に闘ってこられたのだろうが、どこかで明日を見誤ってしまったのだろう。

どんどん作る大型の設備投資が大きくのしかかり、地酒ブームを支えているのはそうした酒とは違う、手作りの純米酒だ。

この歳になり、いろいろな仕事をしてきただけに、この町の産業の栄枯盛衰をいろいろと見て来た。

まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの会社が、いくつも姿を消した。

「この先三代、何があろうと屋台骨は盤石、潤沢な資産が枯れる事はない」と聞かされた会社もあえなく消えた。

歴史を重ねると言う事はそれだけで価値ある事なのだ。続いて行くという事はそれだけで素晴らしい事なのだ。

大丈夫か明日?決して他人事ではない。

『六十三 あと二つで 高齢者』

2016年9月23日 (金)

よくもまあ!

と、呆れかえるのが連日テレビを賑わす豊洲市場の問題だ。

築地から豊洲へ。都知事が小池さんに変わらなければ今頃、何事もなく移転準備が進んでいたのだろうか・・・?

それを思えば、自民党側も、東京都連の議員さんたちも相当に本気だったわけだ。

だからこそ、相手を応援したら一族郎党にまで類が及ぶという戦国時代の様な御触れまで出したのだろう。

ドンと呼ばれた人も、元知事のお坊ちゃまも、みんなテレビで見た以上に相当に必死で、完全におしりに火が付いていたのだと今になって分かる。

それにしてもわずか5,6年前の事なのに、誰がいつどこで何を決定したのかも、なかなか出てこない(分からない)というのだから伏魔殿である事は、間違いない。

何百億円も予算が膨らんで、どうしてこうなったの?と言われて答えられないというのがまかり通る(まだ通ってはいないけど)のだから、驚く。

比べるのも変だが、我々の酔っ払い旅行でも幹事さんは百円単位までぴったり合わせて報告する。

庶民は皆、そんな風に身の周りと比べてしまう。

1%でも数億円、1%いただき!でも大変な額だ。

増えたお金はどこに行ったのか・・・?確たる答えが無い。

ま、最初っから地下にスペースを造って、重機の入り口まで造って、後で工事ができるようにしたわけだから、豊洲に移転したとしても、いずれどこかで汚染水の問題は火を噴く・・・そのための対策をあらかじめ講じた、としか考えられない。

という事は、豊洲の汚染や地下水の問題など、科学者達はある程度先を見越して忠告をしていたということだろう。

その忠告が、「盛り土をしなさいよ!」だけだったのか?「盛り土をしても、多少の汚染物質は出ちゃうかもよ」だったのか?そこが問題だ。

いずれにしても、科学者、専門家、研究者と呼ばれる人たちの信頼度がどんどん下がっていくようで悲しい。

科学に答えは一つ、科学者は嘘をつかない。という子ども染みた先入観がある。

日本の権威が科学的にこうです!と結論付けてくれたなら皆がそれに従う。それぐらいアトムの時代はシンプルだった。

それが科学者の意見がいくつにも分かれ、真理というものがいくつも語られ、あろうことか損得で数値も判断も動くと言うのでは何を信じて良いのかまるでわからない。

とにかく、国を背負うようなひとつの科学者集団にお任せして、あんまり周りでガタガタ言わないで欲しいものだ。

マスコミもあんまり面白そうにあおらないでいただきたい。

環境基準値の数十分の一、という数値はどういう意味を持つのか?それでもあれが出た!これが出た!と騒ぐことに意味があるのだろうか?

確かに危険な物質かもしれない。それが微量でも検出される事の意味は・・・?

「出てはいけないけども利根川の水もこんなもんです」なんてことを平気で言っている。

一体、何が本当に危険なのか?まるでわからない。

放射能が0.00マイクロシーベルトだろうが、出る事が悪い!とヒステリックになる。

被災地の木に放射能はないが、燃やせばあるかもしれない、悪いところから来たものを何も使う必要はない。

そんなひどい風評被害が生まれたのも、ちょうど5,6年前だ。

あんな愚かな事態を引き起こしながら、ヒ素だ!ベンゼンだ!とまるで鬼の首を獲ったかのように(半分嬉しそうにも見える)言っている人たちにもまた呆れる。

冷静で、真実を見つめるお茶の水博士の様な科学者が出てきてくれないだろうか。

ハッキリ言ってバカが集まってワイワイ言っても何も解決はしない。事態はきっと悪くなるだけだ。

秋雨前線すごく活発、会津は連日の雨。

2016年9月19日 (月)

初めての雨

♪あなたと会って七回目の秋、初めての雨が髪を濡らした~♪(そんな唄ありませんが)

そうです。当院の大運動会も今年で七回目を数えるが、初めて雨に当たった。

このところの連続の台風、秋雨前線の活発化で会津も雨続きだ。

一週間前の天気予報では、前日までのびしょびしょ傘マークも当日には雲マークに変わってなんとか行けるんではないかと実行委員たちを喜ばせた。

が、台風16号の発生もあり、日に日に天気予報は変わった。それも悪い方に。

前日予報では完全に雨、それも前日夕からかなりまとまった雨になる見込み。そのまま運動会当日へとなだれ込みそうだ。

前日に早々と体育館での開催と切り替えた。

快く対応していただいた謹教小学校さんには心から感謝だ。

出店の料理はすでに発注済みなので体育館の外にテントを並べて予定通りに作ることとなる。

出来る競技は限られるので、超短縮バージョンだ。

8時半集合、9時開始。

小学校の体育館ってこんなに小さいんだ、と思うくらい人が大勢入ると狭い。

それも当り前だ。大の大人が(子どもたちも沢山いましたが)数百人集うのだから仕方がない。

中央の競技スペースはバスケットボール一面がやっとできるくらいだ。

いよいよ開始。今年も研修医諸君が仮装で雰囲気を盛り上げ、進行役を務める。

ズーズー弁のラジオ体操で体をほぐし、協議開始。

借り物競走では二回も呼び出され、おまけに最後の借りる方にも駆り出された。

玉入れは籠の方が逃げ回るという変則系。まとめてアンダースローで投げたら結構入った。

綱引きは一回で負けた。軍手の中をするすると綱が滑って行く。本気で握っても止まらない。あんまり本気出すと腰がバキッと行きそうな気がしてそこそこで止めておく。

お子様とのじゃんけんではポケモンのサトシに仮装させられじゃんけん係。

これを一発で負けるのがなかなか難しい。

大体はグーかパーだ。チョキを出して3連続一発負けをしたが、パーが来ると勝ってしまう。チョキで勝ったりすると次が分からなくなる。微妙な後出しで負ける。負けたらお菓子の入って袋をあげるのだ。

今年は80~100人ぐらいはいただろうか。

プログラムが早く進み過ぎるので、ドッジボールでもやれば?と提言。ソフトなボールがあったので急きょ導入、これが結構盛り上がった。

決勝戦では一人残った小学生の女の子に、大人げなくボールぶっつけて青組だったか黄色組だったかが優勝。

その女の子が泣き出して、みんなに非難のブーイングを浴びた。

途中、M市長さんが応援に駆け付け激励の言葉を贈ってくれた。

最後には余った賞品大盤振る舞いのビンゴゲームまでやり、お昼過ぎになんとか全競技終了。

私担当の「美味しかったで賞」はみんなに上げたいところだったが、この寒空に一番売れなくて苦労した「かき氷」にあげた。

講評では「これだけ準備してなんで雨降るかなぁ!と思うがこればっかりは仕方がない。世の中、思い通りにならない事の方が多い。問題は思い通りにならない時の振る舞いだ。その点実行委員会の判断も切り替えも素晴らしかった。そして参加した皆さんも大いに盛り上げて素晴らしかった。拍手!!」で、また来年の成功を期した。

とにかく午前中は雨脚がハッキリ見えるくらいの土砂降り、テントの中の調理は本当に大変でした。ご苦労さま、美味しかったです。

あのぐらい降ると判断に迷う事もなく、気持ち良いぐらいでもある。

で、天気予報通り、昼過ぎには小降りとなり空も明るくなってきた。

これを皮肉なもんだ!とはとらえずに「初めての雨の運動会、嗚呼~楽しかった!」と笑い飛ばそうではありませんか。

2016年9月15日 (木)

秘すれば花

こんな事を書くとピントのずれたオヤジだ!と糾弾されるかもしれないが、今朝の芸能ニュースには驚いた。

歌舞伎の人気役者と京の芸妓が密会、浮気がばれたというのだ。

歌舞伎役者と芸妓で浮気っていうの?というのが第一印象だが、どうやらお遊びが過ぎた、では許されない世の中になっているようだ。

第一、花柳界というところは浮いた噂も、遊びの無礼講も、別世界の出来事であり、一切表には出ない事を前提に成り立っているものだと思っていた。

そうした花柳界と繋がっていると言ってもいい芸能界、その芸能界のネタで食っている芸能ジャーナリズムというやつが、役者と芸妓の密会まで張り込み暴くなんて・・・。

掟破りの様な気もするし、半ば自らを否定しているような気になるのは私だけなのだろうか?

自分がそれほど世の中とズレてきてしまっているのかなぁ、と思うと一陣の寂しい風が吹く。

書かれてしまえば顔をさらして世間に詫びなければならない。

「不徳の致すところ」の連発。私が属する世間では、どうでもいいことなんですけどね・・・そうはいかない。

世間というものが「人の噂も七十五日」などと言っていた昔はまだ良かった。

世間がネットの力を持ち始めた頃から、凶暴さを増してきた。

学校で起こるいじめ事件、不幸にも自殺してしまった生徒、いじめたとされる生徒、あっという間に噂は拡散し、こいつがやった、死んだのはこいつだ、と顔写真までが流れ出る。

一度流失した情報は驚異的スピードで拡散して止めることなど不可能だ。

一旦、何か事を起こせばその人の氏素性、若気の至りから、不徳の致すところまですべてさらされて容赦ない。

「放っておかれる権利」=プライバシー権は瞬時に消滅する。怖い。

時にはこうしたネットパワーが人民を開放したり、巨悪を暴いたり、良い方に働く事もあるのだろうが、とにかく凶暴な感じがする。

こうしたネット上の情報の伝播の仕方、それによる民意の操作方法などを、砂漠の砂を数えつくすようにコンピュータが学習し尽くして、やがてそれをある種の意図をもって操るようになってしまったら、どういうことになるのだろう?

話題のAIは自分で学び、自分で考える。

あるところから「ヒットラーは善だ!」などと言い出すような分かりやすい暴走ならまだ良いが、世界トップの頭脳も気付かない様に、隠れて深く潜行し暴走し出したら一体どうなっちゃうの?

もはやSFの世界とは言えない恐ろしさがある。

世の中もう少しゆるくて良いんじゃない。

芸妓やホステスさんと浮名を流しても、それが男の甲斐性だとか、芸の肥やしであるとか、英雄色を好むであるとか、そんなのは一切無し!というあんたは一体誰?どれだけ偉いんですか?って見えぬ世間に向かって憎まれ口のひとつも叩きたくなる。

何でもかんでも知ってしまうことが本当に良いのだろうか?(知りたい野次馬根性は理解できるけれど)

「秘すれば花・・・」なんて言葉はもはや死語に近いですね。

会津東山温泉の芸妓とあのオッサン!なんて掲示板に書かれない様に注意した方がいいですよホント・・・。

「そんな心配してる人いませんから~!残念!!」

2016年9月11日 (日)

凹む

ヤフーオークションを結構利用する。ほとんどがゴルフ用品だが、いろいろ安く変えて便利だ。

これまで数十回落札し、取引を行ってきたがトラブル経験は一度もない。私自身の評価もすべて「良い」で「とても良い落札者です。」との評価をいただいている。

この秋、吉田拓郎が二年ぶりにコンサートツアーを行う。彼の年齢、病気の事なども考えて、めったに見られるものじゃない、と評判も上々。人気でとてもチケットが手に入らない。

友人に先行販売や、優先販売などのつてをお願いしたもののすべてダメ、後はネット上で高額なチケットを手に入れるしか方法はない。(おそらく)

そんなこんなで、ヤフーオークションでチケットを見てみたら、何件か出品されていた。どれも結構な高額。定価の4、5倍の値段が付いている。

そんな中、良さそうな席のチケットが見つかった。

まぁ、おそらくダメだろうけれども、このぐらいまでは仕方がないか?というところまで思い切って入れてみた。

「あなたが最高金額の入札者です」と言われて、週末を迎えた。

で、月曜日の朝一番。PCを開けると「落札おめでとうございます!」のメールが来ていたのだ。一応やったー!

手順に従い掲示板を開けると、「おめでとうございます。送り先をお願いします」と言ういつものメールが届いていた。そのメールが土曜日発信。

次いでもう一通メールが来ていた。

それを開くと「今だ連絡がありません。今日中に連絡をいただけない場合はキャンセルとさせていただきます。悪しからず」と日曜日発信のメールがあった。

なんだべ?ダメだべした!

オークションに参加する人は携帯に転送したりしてすぐに対応できるようにしてるんだろうなぁ、それにしてもせっかちだ!週末の一、二日ぐらい返事が無くてもおかしな話ではない。(我々の年代にとっては)

まぁ、賞味期限の限られたチケットだから仕方がないのかなあ?とあきらめざるを得なかった。

そこで「大変申し訳ない。月曜の朝見ました。連絡が取れずキャンセルになってしまい済みませんでした」という内容の、実に丁重なお詫びのメールを送って、詫びた。

すると月曜夜遅くに先方からまたメールが入っていた。

「まだ間に合う。今日の夜までに返事をもらえれば取引が続けられます」とのメールだった。

しばし長考・・・買っても良いが勝手に期限を切ってキャンセルと言ってきたのは先方だ。それを今さら間に合うと言われてもしっくりこない。

もう予定を変更してしまったので今回はキャンセルでとの返事を、出来るだけ丁重に相手に失礼にならない様に書いて送った。

すると翌日ヤフーオークションから一通のメールが。

曰く「あなたは非常に悪い落札者ですと評価されました」というのだ。

私の返事を見て、先方が頭に来て一方的にキャンセルした非常に悪い落札者だと評価を書いたのだ。

何だそれ?と思った。キャンセルだと言ってきたのは先方であり、私は落札したなら速やかに金額を払い込んだ。それを断ったのは先方なのだ。

まだ間に合う、に応じればよかったかもしれないが、先方の物言いがあまりにも横柄に響き、今回はご縁が無かった事にしようとしただけだ。

一連のやり取りから、最低の評価を下すその姿勢に腹が立った。が、どうする事も出来ない。オークションの評価は変えられないし、頭に来てこっちも悪い評価をしたりすればトラブルになりかねない。

そんな事はご免だし、仕方なく口をつむいで甘んじてその仕打ちを受けるしかない。

ところがその後、いろいろと見てみると、「非常に悪い」という評価を一度でも受けるとオークションの世界ではなかなか辛いものがあるという事が分かってきた。

特にキャンセルした、という事での評価は最悪で、一度でもキャンセル歴のある人の応札自体を自動的にはじいてしまうというオークションも結構あるのだ。

まるで凶状持ちになったような暗ーい思いにさせられた。

ヤフーオークションの仲介裁判所みたいなのがあって、一連のやり取りからこれは一方的なキャンセルの事案とは違うので、この「非常に悪い」は取り消します。みたいなのがあってくれれば助かるのだが、そうもいかない。

ネットの世界で評価されることの恐ろしさというやつだ。

なんとなく凹んだ一週間となってしまった。

早く連絡を取らなかった私が悪かったのかなぁ・・・どうしようもないんだべなぁー。

会津の空も少々ぐずつき気味だ。

2016年9月 8日 (木)

それも性。

このところ、亡くなる人が多い。正確には知り合いに亡くなられる方が多い、ということだ。

従ってお葬式に出る機会も多い。

80代、90代とそれなりにご高齢の方も多いが、50代で家族を残し旅立つ方もいる。さぞかし無念な事だろう。

誰も自分が何歳で亡くなるかは分からない。結局は亡くなった時がその人の寿命という事だ。

この寿命が落語に出てくる蝋燭の長さみたいに、眼に見えて分かれば日々の過ごし方も幾分変わってくるのだろうが、紅顔の美少年も夕べには白骨と化すかもしれない、何時何どきどうなるかは分かったものではない。

もっとも、終末期は別として、事故や突然死の寿命が分かったりしたら世の中は乱れに乱れるだろう。

後1週間で元気なあなたがポックリ逝きます。なんて分かったら、とてもまともには生きられないだろう・・・無茶苦茶する人で溢れてしまうに違いない。

従って何時死んでもいい様に日々を大切に生きるしかない。

とはいうものの自分だけはそんなことにはならないと思ってなんとなく生きてしまうのも人間の性だ。

世はまさに多死社会へと向かっている。残念ながら生よりも死が溢れる社会が来る。

自らの死に尊厳を持たせるのは、自分の責任ということになって来るだろう。

介護と医療の充実は、一面でどうやって死ねばいいのか?を自分で考えなければいけないんですよ、とも言っているのだ。

こうなってまでは生きたくない。こういう状態になったならば延命は拒否したい。という事を考えて置くことは大切だ。

とはいうものの自分だけは遠い先の事、と思ってしまうのもやはり人間の性なのだ。

様々なお経を聞いて、神主さんの奏上を聞いて、そんな事を堂々巡りの様に考えてしまう今日この頃である。

会津は残暑厳しく、日中はなかなか30度を切らない。

台風はそれて、被害が出るほどの雨にならない事は本当にありがたいことである。

2016年9月 5日 (月)

犬伏の別れ

人生いろいろな場面に立ち、どうすれば良いか考えるわけだが、私の場合(以前にも書いたかもしれないが)どうも時間がかかる方なのだ。

パパッという判断がどうも苦手なのだ。

案外、そうは思っていない人が多いかもしれないが、瞬時に判断がつかない事柄については人一倍、かなり時間がかかる方だと思っている。

ここ一番、どうすべきか?どちらの選択が正しいのか?

人間というもの最初はどうしても易きに流れる判断をしてしまいがちだ。

しかし、しばし時間が積み重なると、待てよ?そうばかりも言ってはいられまい。

一番に考えなければならないのは自分の好みや思惑ではなく、ご本人様の思いだろう・・・と言うように、考えの幅が広がり、広角的に物事を判断しようとする余裕のようなものが生まれる。

時間をかけると落ち着くと言うのか、一定のクールダウンが出来るのだ。

そこで、初めはこう思っていたがやっぱりこうしよう!と考えを改め、後で後悔せずに済んだという様な事が、これまでの人生においても少なからずある。

一休さんのように頭に指で念を入れ、しばし座禅で長考す。という一歩下がって考える時間がやっぱり頭の回りの遅い人間には必要なのだ。

大河ドラマ「真田丸」。当時の武将たちは非常に限られた情報と、起こった事象から様々な事を判断し、命をかけて生きる道を探った。

まぁ、どんだけ考えるんだ!というくらい考えたことだろう。

そこには、(情報量が少ないだけに)「読み」という想像力+洞察力+大局観+そして山カン=正解ですか?みたいな判断基準があったのだろう。

そういう時にもの凄く重要視したのが、どちらの策が後で後悔しないか?ということだったのではあるまいか?

今はものすごく嫌でも、ここでやっておかなければ後でものすごく後悔することになる・・・。

あの史上有名な「犬伏の別れ」真田の親兄弟が敵味方に分かれる苦渋の選択。

あの場面はネット上でかなり評判が良い様だ。泣けた!という声がかなりある。

私は、午後の会津から暑い東京へのとんぼ返りで半分寝て眺めていた。

あれほどの葛藤ではないものの、やっぱり思い切って出かけて良かったと安堵の居眠り・・・涙ではなくよだれが大分こぼれた。

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