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2015年8月

2015年8月31日 (月)

不思議な八月

会津だけではないと思うが、お盆ごろから夏がどこかに行ってしまった。

雨・曇りが多く、カンカン照りが恋しくさえある。

猛暑日、熱中症、熱帯夜など、夏の定番商品は今期はもう売り切れました、と言わんばかりだ。

朝晩は寒いくらいで、何度か長袖のTシャツを着た。

通勤時にかぶっていた帽子もなんとなく場違いな感じになってしまい、かぶるのをやめた。

こんな八月を今まで経験した事があっただろうか?

冷夏と言われる夏はあったが、こんな風に山の頂上まで猛烈な暑さで登りつめ、一気に谷底の底まで下り落ちるような夏は記憶にない。

稲は出花の時期の気温が最も重要だと聞いたが、それは充分にクリアしたからおそらくは大丈夫なのだろうと思う。

が、このところのぐずついた天候続きで、野菜が収穫期をうまく迎えられないという。

お天道様にはなんとも逆らえない。

社会の方もなんとなくぐずついた感じだ。

中国に発した株安の嵐は、実のところどうなる事か先は全く不透明だ。五輪関係のゴチャゴチャも、これが日本か?私の国なのか?!と言う体たらくだ。これだけ大勢が憲法違反だと言っても安保法案は歩みをまったくゆるめない。

誰もが変だなぁ、変だなぁ、と思いながら過ごす夏・・・・。

2015年、不思議な八月が過ぎて行きます。

2015年8月28日 (金)

肩が痛い

前にも書いたが、60過ぎたのに五十肩が来た。

もう、出始めてから3ヶ月ぐらいになるだろうか?初めは腕を伸ばすと二の腕に虚血状態のような痛みが走った。変だなぁ、と思っている内に右肩が痛くなってきた。

それでも、一般に聞いている五十肩の症状とは違って腕は上に上がるし、振り回しても大丈夫だ。従ってゴルフは出来る。

右肩を下にして寝ると痛くて目が醒める。後ろには全然行かない。後ろに手を回し、腰のところから上にあげろ、と言われると痛くてぜんぜん上がらない。「ふざけてるの?」と言われるほど上がらない。

今一番不便なのは、後ろのポケットに入れた財布を取り出すのが一苦労なのだ。

私は長財布と言うものは使わず、二つ折りの財布を右のお尻のポケットに入れている。もう何十年もずっとこれで来た。

その財布を取ろうとすると肩がすごく痛いのだ。お金を払おうとすると、まるで財布を取り出すのが嫌かの様に「痛て、て、てて」となる。

売店のレジでお金を払おうとすると、痛い。じっと我慢で取り出せばいいのだが、思わず「痛て、て」と顔がゆがむ。

それを見て店員さんがびっくりしたような顔をする。「いやー、肩が痛くて」と言うが、きっと変なおじさんだと思っているんだろう。

暑い盛りから、マッサージの光縁堂さんと言うところに3度ほど通った。しっかり揉んでくれて、なかなかに良心的で値段もリーズナブルだ。

筋を延ばしてもらうと少しはいい。しかし、これは稼働域の問題だから根本的に直ると言う事はない。

揉んで痛みを和らげ、なんとか時間をかけて痛い時期を乗り切ればある日自然に痛くなくなると言うやつだ。それは分かっているので、次回の予約はしていないが、また行こうかな。

揉んでもらうのはやはり気持が良いし、少しは楽だし・・・。

この痛みが両方の肩に来るのかと言うと、それは人それぞれの様だ。

先輩諸氏に取材したが、片方だけだったという人、両方だったと言う人、様々だ。

が、どちらかと言うと片方が治ったなと思ってしばらくして反対側が来たと言う人が多く、一度に両方と言う人は聞かない。

これで両方来たら、どっちを下にしても寝られなくなってしまう。天井見て寝るか、うつぶせで寝るかしかない。

後ろで手を組むこともできなくなる。

ま、男で良かったと思っている。これでブラジャーをしなさい、などと言われたら大騒ぎになってしまう事だろう・・・女性は一体五十肩をどのようにして乗り越えているのだろうか・・・?

やはり、何事にも忍耐強いのかなぁ。

それにしても盆過ぎの涼しさは一体どうした事だ!青空も見えず日照不足も懸念されている。シトシトと雨が降り続き朝歩きも出来ない。

こんなに涼しい(寒いほどの)8月の会津は、初めてのような気がする。

2015年8月23日 (日)

里帰り

お盆には父親の実家へ里帰りをした孫が、今度は母親の実家に里帰りをする。

ママが仕事をしていないからこそできる贅沢だが、嫁が実家に帰るとなるとどうしても長くなるものらしい。

今回は二週間の予定で会津に帰って来た。

子育てを卒業した職員から借りたベビーシートを再び、クルマに取り付ける。

小雨の中、ジジ・ババは郡山までいそいそと孫を迎えに行く。

新幹線を降りてトイレに行き、オシメを取り替えて、ベビーカーに乗りゆっくりと登場だ。

懸命にあやしてみるが、警戒の色が濃い。抱き上げると少し嫌そうに身体をそりかえらせて、ベビーカーに乗せると、気に入ったのか笑った。

郡山から会津へ。

車中、大声で「おー、ほっほっほ!」と美輪明宏さんの様に変な声で笑う。笑っているのか奇声を発しているのか、よく分からないが本人は楽しそうだ。

これが最近覚えた芸らしく、誰が教えたわけでもないがある日突然やり出したらしい。

これを突然に繰り出す。

買い物のベビーカーの上から太ったおばさんを見ると「おー、ほっほっほ!」なんか、小馬鹿にしているようでバツが悪い。

「止めなさい!」と言うのも、この子はあなたの事を笑っているのですよ、と決定付けるようでこれまた変だ。

出す場所によっては、なかなか困った芸当なのだ。

産まれて、病院から実家に戻り、ベビーバスを卒業してからは、ずっとこの私(ジイジ)がお風呂に入れてきた。

それだけに風呂入れは自信があったのだが、今回は震えて大泣きをされた。

次の日もチャレンジしたがまたも大泣き、自信喪失。

しかし、次の日にママが入れてみても初めは泣いたという。

これは、どうやら私に原因があるのではなく、風呂場自体が怖いのと、入れ方=イスに座って洗うと高さがあって怖いのだ、と結論付ける。

和ませるようなお風呂用のおもちゃを準備し、床に直座りで三度目の挑戦を行う。すると初めは「うー」とひと声うなったが、すぐに泣きやみ平気で入れるようになった。

やっぱりな!

この私が嫌なのではなく、風呂場になじまなかっただけなのだ。マンションのお風呂よりもずっと広いだけに怖かったのだろう。

小さい時に入っていたのに覚えてはいなかったんだ・・・。

泣かさずに風呂に入れただけで、ハンパない達成感がある。勝利の美酒にも似たビールの美味い事、美味い事!

天気予報は今一つだが、笑いの絶えない賑やかな日々が二週間続く。

2015年8月20日 (木)

ジヌよさらば

映画「ジヌよさらば~かもろば村へ~」は、会津柳津町で全編ロケを行った映画だ。

松尾スズキ監督・脚本・出演、松田龍平主演、脇を阿部サダヲ、松たか子、西田敏行ら名優が固めるなかなかの秀作だ。(2014年作品)

ジヌ(お金)アレルギーになってしまった青年が超過疎の村にやってきてお金を使わない暮らしを目指す、というマンガが原作のコメディ。様々な人間模様が柳津の山村風景の中で描かれる。

この映画は、地元が舞台という事もあり様々な形で上映会が開催されてきた。(会津には映画館が無くなってしまったのだから仕方がない。)

先だっても会津大学講堂で二日にわたり上映会が行なわれ超満員だったそうだ。

私も春には往復ハガキで申し込んだのだが、ハズレた。

その映画を突然だが「竹田ホール」で上映することになった。

昨年8月、創立記念の祝いも兼ねて、広々とした工事現場の更地で花火大会を行った。

それが好評で、今年はやらないのですか?との声も聞かれたが、現在は工事の真っ最中で出来るはずもない。

そこでせめてもの代替にと、開発部長が映画の上映を思い立ったらしい。

「出来るでしょうか?」と尋ねてきたので、すぐに、もう映画館はないけれど興業権を持っている知人に連絡。配給会社に当たってもらった。

で、OK。

話はとんとん拍子に進んだ。8月17日、そして29日と二回の上映会が決定したのである。

無料だが、財団職員とその家族、または関係者に限られる。ごめんなさい。

早速、17日の上映を家人と共に楽しんだ。

ちょっと途中プロジェクターの調子が(今は大体DVD上映)良くなかったのが残念だったが映画そのものは結構楽しめた。

少々えぐい暴力シーンやエッチなシーンもあったのは計算外だったが、まぁ、あんなものかもしれない。

不思議な老人・神様役の西田敏行さんが実にいい味を出していた。郡山出身なだけにズーズー弁はお手のもの、会津弁が一番しっくりいっていた。(当たり前です)

その老人が、どことなく教訓的な台詞を吐く・・・。

「なにもしねってもいいと言わっちゃも、何がしらしねでいらんにぇのが人間だべ」とか、「ここ(かむろば村)では、たいがいの事がなんとかなるんだ。ただ、おめの思う通りになっとはかぎんねげんじょな」

ちょっときくと含蓄のあるような言葉に聞こえるが、よく考えるといたって当たり前の事を言っているにすぎない。そこが、笑える。

人間何もしないではいられない。どこにいようが生きていればなんとかなるもんだ、思い通りにはならないけれど・・・。みんな、当ったり前です。

なじょしても頑張って生きなさい、とこれに尽きるということ。生きていればなんとかなる。生きてるだけで丸儲けと言うことだ。

最後の松田龍平さんの台詞がまた良い。

不良のなんちゃって女子高生の二階堂ふみさんと暮らし始め「なんだ、おめだぢヨリを戻したのが?」とからかわれると、「いあやー、セックスがハンパなくいいもんですから・・・」と、あっけらかんと笑う。

それを聞いた村人たちも青空の下、カッカと大笑いし、それを見てこども達も笑い転げる。

なんとかなる暮らし、ハンパなくいいセックス、そして底抜けに明るい村人たち。

現実問題は「ジヌよさらば」で暮らしてはいけないけれど、ジヌに縛られ続ける暮らしのなんと窮屈でつまらない事か・・・!

常識の衣を脱ぎ捨てて、一度かもろば村へ来てみれば分かる、ってことですな。

(笑い)(笑い)(笑い)

29日、17時半から2回目の上映をします。

2015年8月18日 (火)

トムになる。

先日、久しぶりに映画館で映画を見た。

会津に映画館が無くなって、本当に映画を見る機会は減った。新潟か郡山、それでも年に10回ぐらいは行くだろうから、まだ映画を観る方だろう。

「ミッション・インポッシブル~ローグ・ネイション~」トムクルーズの当たり役、スパイ大作戦の5作目だ。

イーサン・ハント役のトム・クルーズも53歳だそうだ。それでもアクションのキレは全く衰えない。

ノンスタント(スタントマン無し)でやっているというから驚き、本当にどこまでノンスタントなんだろうと思ってしまうが、バイクシーンも飛行機に掴まったまま飛び上がると言う破茶滅茶なシーンも顔出しだから、確かにスタントマンは使っていないのだろう。

本当に命がけのアクションだが、そのキレもテンポもよく、一気に画面に引き込まれる。

さすが世界に冠たる人気シリーズだけの事はある。大作の風格さえ漂う超娯楽映画だ。

一気に引き込まれハラハラドキドキ、スゲー!と心の中で叫びつつ、ああ、おもしぇがった!で終わる。

この予定調和がまず崩れることがないのが、このミッションイン・ポッシブルシリーズと007シリーズだ。

いい歳してなに言ってんの?と言われそうだが、文句無しに面白い映画は、やっぱりいい。

心に沁みる、涙が止まらない、深く考えさせられる・・・それも良いが、文句無しに楽しめるのも映画の大切な要素だ。

猛暑で全身ぐだーっとした感じが続いていたが、久しぶりにっスカっとして、辛い刀削坦々麺を食べて大汗をかいた。

次は12月の007が楽しみだ。

会津へ戻る高速道路、心なしかアクセルを踏み込みがちになる。

「ねぇ、トム・クルーズじゃないんだからあんまり飛ばさないでください。反応が遅くなってるんだから・・・」「うるせぃ!」

2015年8月17日 (月)

消えた記憶

今年もお盆に同級会を開いた。会津若松市立第一中学校の3年3組の同級会、ここ3年続けて行っている。

我らの恩師T先生は85歳を迎えられてお元気、特に印象深いクラスだっただけに生徒の顔を見たい、みんなに会いたい、と先生自らがおっしゃると言う珍しいケースで続いている。

病院勤めという性格上、どうしても私がT先生と顔を合わすことが多い。先生も何かにつけて私を頼ってくれる。

四つ年上のご主人も合わせ、二人がかりで何かと体調変化が起こるので、救急室や病棟で顔を合わせる事など割と頻繁。

ドクターによろしくとお願いするだけで、何をするでもないがその都度、先生に感謝されている。身に余る光栄というやつだろうか。

そんなこんなで、結局は私が幹事役のような事になり声掛けをする。(今年はSくんが手伝ってくれて大変お世話になった。ありがとう!)

3年目ともなると、顔触れもそれほど大きな変化はなく、今年は10名が集まった。

T先生が我々のクラスを特に印象深く覚えておられるのは、先生ご自身のご病気と重なったこともある。

卒業を前にご自身が新潟で手術を受けることになり、断腸の思いで新潟に向かわれた。

クラスの生徒全員が先生の無事を祈り、会津若松駅に集まり磐越西線に乗り込むT先生を見送った。

先生は涙ながらに別れに「出船」を歌い、生徒がみんな泣き出した・・・・と、言う劇的な思い出話しがあるのだが、実のところ私一人だけがよく覚えていないのだ。

なぜ覚えていないのか?そんな謎が今回の同級会で少し解けたような気がした。

中学三年生の春に私の母が倒れた。いきなり大出血をし、福島医大へ運ばれて子宮がんの緊急手術を受け、その後、長期にわたる放射線治療を受けた。

受験生だった息子を心配し、父はT先生と校長にお願いに行ったのだと言う。

病状は決して明かさない事、なんとか平穏に受験させてやりたい事などなど。

しかし、母の大出血を目の当たりにしてしまった私は、長く母のいない生活の中で母が死んでしまう・・・と言う事をどこかで覚悟し、恐れてていたように思う。

結局は母その後、20年にわたって生きてくれた(63歳没)のだが、幼心には母の大出血と死が重なってしまっていた。

そこに大好きだったT先生までもが、がんになった。そのショックがよほど大きかったのだろう。

その中学三年の強烈な思い出話しを同級生とするのだが、やはり、私だけがよく覚えていないのだ。

「こうだったべしたー!あの時の事は忘れられないよね~」「う、うん、そうだね・・・」と、これまでは適当にごまかしてきたのだが、今回つくづく思ったのは、あの辛い一年間の記憶を無意識の内に消していたのは自分自身だったという事だ。

短い期間の記憶喪失。

「正直言うと、僕は覚えていないんだ」というと「ええーっ!」と驚きの声が上がった。

「先頭に立って、あんなに大声で騒いでいたのに・・・・」

イガグリ頭の中学生にとって、母と恩師の「死」の香りはあまりにも重すぎた。

きっと自分で心の中から消し去っていたのだ。あの頃の一連の「死」まつわるような強烈な思い出を・・・きっとそうだ。

お盆の十五日、40数年前の少年に改めて出会えたような気がした。

T先生はすっかり涙もろくなられた。

それも嬉し泣きで涙を流す。二次会では「南国土佐をあとにして」を踊り入りで歌い、アカペラで「出船」を歌った。みんなで泣いた。

悲しいからではない。懐かしくて、あの頃があまりにも愛しくて、今こうしていられる事が嬉しくてだ・・・。

帰りのタクシーの中でもT先生は涙が止まらなかったという。

それを見た運転手さんがもらい泣きをして、二人で泣きながら高田まで帰られたそうだ。

また来年、元気でお会いできる事願っています。

どうぞお元気で!

2015年8月16日 (日)

節原発

タバコをやめたい時に、誰もが一度は試みるのが「節煙」というやつだ。

私もやった。一日一箱強吸っていたのを5本から10本にすると言ってみた。同じように禁煙を望む友は、「俺は3本か5本だ」と言った。

せいぜい4,5日は頑張ってみるが、節煙率が20%から40%、70%となし崩しに戻ってしまい、気が付けば元の木阿弥というやつだ。

何度、節煙を試みても上手くはいかなかった。で、すっぱり禁煙した。

要は吸うか吸わないかなのだ。少し吸っても一杯吸っても吸っている事に変わりはないから、「どうせ!」という気持ちが先に立つ。

なんだかあの時と同じ様な気持ちになるのが、川内原発1号機再稼働のニュースだ。

あの震災以来、否、原発事故以来、全てが止まっていた原子力発電が動き出した。

初めの稼働については大きく報じられ、反対運動、反対意見も報じられる。しかし、動いてしまえばやがてそれらのニュースも減り、知らぬ間にいつしか2号機、3号機と動いてしまっているはずだ。

節煙と同じにはできないが、気が付けば元の木阿弥、という事も充分に考えられる。

何のために動かすのか、を誰も明確に言わない。世界一厳しい安全基準を満たしているから稼働するのだと言うばかりだ。

「国民生活を守るために?日本経済を守るために?」そんな何のために?を話し出すと、そもそも原発が要るのかどうか?をいちから議論しなくてはならなくなる。

そこは当たり前のこととして、安全基準を満たしているから動かすのです。という事にどうもなってしまっているようだ。

福島をフクシマに変えられたふくしま・・・会津。

遥かかなたの九州で動き出す原発に一体何を思い、何を言葉にすればいいのだろう・・・。

『消せぬ火が安全基準を満たす怪』

2015年8月15日 (土)

あやついた

会津では、物事にケチがつくことを「あやがつく」という。

「なんだって今回の選挙はあやついちまったな」とか「いい気持ちでプレイしていたのに、あやつけられっちまった」という感じで使う。

そんな「あやがついたなぁ!」と感じさせられるのが、例のオリンピックエンブレム騒動だ。

例のデザイナーさんが、トートバックのデザインでやらかしてしまった。30種類あるデザインの内、何点も盗作と思われるものが出てきた。

サントリーというナショナルブランドのキャンペーンだ。1点が問題となったとしても大きな問題なのに何点もとなると誰もが「どういう人なの?」と思ってしまうのは仕方のない事だ。

絵を重ねるとそのままのフランスパンや、まったく同じ様に見える木の矢印などは論外だろうが、実はあれらはまだ良い様な気もする。

ネット上には著作権を問わないフリーの素材や安価で買えるものが無尽蔵にある。

若いアシスタント達が、甘い認識で安易にそれらを使うという事は充分に考えられる。悪いと知らずにやってしまった、という事もある意味通用する言い訳だ。

もっと深刻な問題だと思うのは、泳いでいる女性の図案などだ。

泳ぐ女性と水底に映るその影を平面的に表している。

泳ぐ女性の水着は全く違うが、デザインのアイデアそのものがまったく同じ。これぞコピーではなくて、本物のパクリだ。

前者は誤った認識による結果的な盗用、とも言えるが、後者は盗んだ、と言われて言い訳ができない。

あれを見て本当に「あやがついたなぁ・・・」と思った。

オリンピックエンブレムという歴史に残るデザインだ。

製作過程に問題がなかったとしても、争って仮に法的に使えるとしても、これじゃなんとなく気持ち悪さが残ってしまう。たとえ白でも、本当は黒なんだ、というイメージをぬぐい切れないのが、あやがつくという状態。

テレビではコメンテーターがいろんなことを言っている。取り下げた方がいいんじゃないか、という人もいるけれど、今となっては本人が取り下げると言っても簡単なことではないだろう。

権利はIOCに移っているのだろうし、誰がどの時点で、どう判断するのか難しいところだ。

私としては日本的で良いデザインだと思っていたのだが、残念だ。

泳ぐ女性のデザインがどうにも気にかかる。アイデアそのものをパクリ、異なったものを私のものだとして作った・・・。

まだ5年ある。出来るもんなら、あやついたままにしないでもう一度やり直した方がいいんじゃないの??

そんな気になる、楽しくないニュースだ。

2015年8月14日 (金)

連くん

我々の会津高校同窓生に北海道議員の遠藤連君がいる。(どうせ分かるので実名で行きます)

会津坂下町出身、苫小牧を地元とし道議4期目の彼はこの春、北海道議会の議長に就任した。

このお盆の帰省時に、同窓生で祝いの席を設けようじゃないかと、Tくんが発案。

昼に磐梯カントリーでコンペを開き、夜は萬花楼で祝賀会を開くという企画が13日に行われた。

ゴルフコンペは10人、夜の祝賀会には30人ほどが参加した。

私は両方参加、一組目で連くん、Kくんと三人で楽しく回った。

連君のゴルフの腕前は確か、政治家であれだけ上手いのも珍しい。議長に就任してめっきりラウンドも減ったというが、立派なシングル。一人だけ図抜けていた。

朝方雨が少し降ったものの、寒いくらいの涼しさの中でゴルフを楽しむことができた。

狙ったわけではないが、祝賀コンペのご当人である連くんが見事優勝、私が準優勝に食い込んだ。

夕方からの祝賀会は5時半からと少し早い。というのは芸者衆のご都合、今日から東山の盆踊りが開かれるため、20時前には東山に戻らなければならないという、で、5時半。

幹事あいさつ、本人のご挨拶(政治家だけに上手い)、祝舞、乾杯!

高校の同窓生の祝宴だ、遠慮も何もあったものではない。祝儀の一升瓶三本もあっという間に空いた。

応援団長のN君が幹事、校歌、応援歌、学而会歌と大声で放吟すればアルコールも良く回る。

まったく縁もゆかりもない北海道の地で連くんが政治家を志した理由は、女性を追っ駆けてきたから、とは本人の弁。

その奥様とは死別され、口には尽くせない程の苦労を乗り越えて今があるのだろう・・・。

立派に成人した三人のお子さんと三人の孫がいるという。

翌日も、ここ萬花楼で遠藤家の祝宴が行われ、その家族全員が集うそうだ。

ご両親の米寿の祝い、なんとご両親揃って米寿を迎えられる。お父上もご母堂も至って元気、矍鑠としておられるという。

これまた、なんともお目出度い話だ。

北の大地で政治家として立った遠藤連くん、心から「おめでとう」の言葉を贈ります。

2015年8月 6日 (木)

死の香り

青い空、青い海、きらめく太陽、夏は生命が躍動する季節・・・その一方で死の香りが強く漂う季節だ。

サトウキビ畑がゆれる沖縄、8月6日ヒロシマ、9日長崎、12日御巣鷹、15日終戦、そして夏の夜に徘徊するうらめしやの幽霊たち。

死者の行軍、「無念」が土砂降りの夕立の様に降り注ぐ。

70年、もう絶対に戦争はしてはならないと誰もが思い知った夏。誰もが誓った夏、時の流れは事情も都合も変えてゆく。

「戦争をしないために戦う」「同盟国を救わないなどという事は許されない」いかにも説得力はあるが、どんな形でも戦ったらそこから戦争であることは間違いない。

最新式の兵器で、最強の空軍が空爆を続けている。

それでも国家さえ持たないテロリスト集団をせん滅する事は出来ない。

戦えばどうにかできる・・・それこそが幻想ではないのだろうか。

先日、新聞で天皇陛下の玉音放送の全文と、その現代語訳というのを見た。

幼いころから何度となく玉音放送の音声を聞いた事はあるが、実際に全部を聞いた事は無い。

正直、何を言っているのか分からず、現代語訳を読み、恥ずかしながらこの歳にして初めて全文の意味を知った。

そこには日本という国を守り、日本民族をなんとしても残すというギリギリの願いが述べられている。

そのために全面降伏をし、そこから民族の誇りを取り戻そうと訴えている。

そして、同じ過ちを繰り返してはならないという断腸の思いが底辺に流れている。

玉音放送の全文を授業で取り上げてもいいのではないだろうか。

70年、平和ボケの中、戦わない事によって行きつくかもしれない地獄について声高に叫ぶ人あり。

そんな来るか来ないか分からない地獄に備えるよりも、徹底して女々しく、ずるく、小賢しく、のらりくらりを決め込む方が良いような、そんな気にさせる夏の香り。

♪青くなって尻ごみなさい、逃げなさい、隠れなさい~♪

一枚~、二枚~、恨みの薄皮を剥がすように、少しずつ涼しくなってきたような、そんな会津の今日この頃です。

2015年8月 3日 (月)

観客の力

同じ芝居を三回続けて観た。市民参加の手作り舞台「浮かれ勧進帳~米騒動悲恋道行~」だ。

7月31日夜に前日の通し稽古。8月1日、本番前の午後からゲネプロ、そして、当日夜の本番。

当たり前だがどんどん良くなる。

ゲネプロと言うのは全く本番と同じに行う(舞台も衣装も場内アナウンスなども)仮想本番の事だが、どんなに気合を入れてもやはり本番とは違う。

そこに「観客」と言う芝居を決定付ける最大の要素が欠けているからだ。

芝居は観客があって初めて成立する。観客の笑いや驚き、感動や涙、そういうものが役者の演技に降り掛かって初めて芝居というものが成立するのだと言う事を、改めて強く感じた。

會津風雅堂に予ベルが鳴り、ざわめく場内。やがて話し声も小さくなって人々の視線がステージに集まって来る。

本ベルが鳴り響く。

幕が開く。初めのセリフが響く、舞台の上と下の息遣い、観客の視線を浴びて役者のスウィッチは、ONのもう少し上の段階まで上がっていく。熱がこもる。

笑いや歓声が沸いて初めて成立するシーンがあった事にも初めて気付かされる。

この舞台は佐藤雅通先生の力作、本当に難しい舞台だ。

プロでも演じるのが大変と思われる難役が多く、台詞も、話し言葉や歌舞伎の台詞、またそれをまねた台詞と演じ分けも複雑だ。

大好評の二回公演を無事に終えた2日の夜に行われた打ち上げの席。私は雅通先生の弟さんに当たる三遊亭兼好師匠(尾上菊五郎役にて特別出演)の隣になった。

「正直、難しい芝居だったですよね」と私。「そうですよね~」と師匠。師匠はさらに「こういう市民劇って、始まる時に、こんな難しい芝居はダメだ!とか駄目出しはないんですか?」と聞いた。

駄目出しなんて出来る立場にはない。ま、運営委員の一人として勝手な感想を言わせていただいて、参考にされたり、されなかったり、という程度だ。

それにしても今回の芝居は難しい、との想いはずっと心の片隅にあった。

7上旬に初めて通し稽古を見た時にその心の片隅の風船は大きく膨らみ、31日には少し縮んだ。

ゲネプロでは、「それにしてもまぁ、みんな本当によく頑張ってここまで来たもんだ!」との感心の想いに変わり、本番を観て「ああ、やっぱりこの芝居で良かったんだ!」との想いに至った。

難しいけどやり遂げた!

館内一杯の拍手は温かかったし、ステージに並んだ役者達の顔は達成感の笑みで溢れていたように思う。

打ち上げの席での佐藤雅通先生の言葉は秀逸だった。

多くの関係者に心からの感謝を述べた上で、様々なお誘いもあるが、こうして地方で活動していくことこそが「自分の場所」であると、ご自身の想いを語られた。

そして、この芝居に出てきた「彦二郎一座」(芝居の中に登場する市民劇団)こそがみなさんなのだ、と言う。

上手い人もいれば下手な人間もいる。様々なぶつかり合いを経て、大きな困難を力を合わせて乗り越えて行く。そして主人公の千代はそんな仲間とこの会津で生きて行く事を選ぶ・・・。

そんな劇中の劇団の活躍に、一人一人の想いを重ねてきた、と優しい笑顔に渋い低音の美声が響く。

思わず「いよっ!彦ちゃん!!」と叫びたい気持ちで、拍手を贈った。

本当に皆さんお疲れさまでした。

また明日から、普通の日々が戻って来ます。何だか魂が抜けてしまったような、そんな気持ちになってしまうかもしれないけれど、また何時か会えますよ、きっと。

打ち上げの席上、以前私がこんな面白い話がある、と雅通先生に伝えていた話。

「あれは面白いですよね、次(三年後)があるなら、あれで行こうと思っているんですよ」と雅通先生。

「良いね、良いですねぇ。早速私、資料を集めてみますよ。どうなるか分からないけれど、とりあえずね」

・・・・三年後、ひょっとすると第8回の市民てづくり舞台には今回よりも、もっともっと深く関わることになるかもしれない・・・・。

この続きはまだまだ先、今から三度目の夏に。

2015年8月 1日 (土)

帽子のある暮らし

太平洋高気圧とチベット高気圧が二段重ねになって、まるで厚い布団を二枚掛けで我慢大会をやっているような天気だ。

連日の灼熱の真夏日、普通にしていてもふうっと、アゴが前に突き出てしまう。

この夏からは通勤時にも帽子をかぶることにした。

帽子は必需品と言えば必需品なのだが、朝夕の通勤時には冬場以外は、あまりかぶらずに通してきた。

しかし、朝からカンカン照りの中、髪のない頭で歩いてくる時に、本人は気にせずとも周りの方々から「頭焼けないの??」という視線を強く感じるようになったので、かぶることにした。

行きつけの新潟の帽子屋さんで買った麦藁のハット。パナマ帽と言うのがどういう定義なのか分からないのでハットとしておこう。

初めの内は会津弁で言うところの「大した気している(カッコつけてる)」ような感じがして少々恥ずかしかったが、このところ大分慣れた。

先日の東京出張の時もかぶって行った。

カンカン照りのホームで帽子がないのは悲惨とも言える。自分が気にするほど周りは誰も見てはいない。

こんな風に帽子をかぶり慣れると、夏が終わり、秋が来ても麦藁のハットを脱いだだけでは終わらずに、何か秋の帽子をかぶるようになる気がする。

冬の帽子は一応ツイードのハンチングがお気に入りなので決まっているから、今度は秋・春バージョンを求めなくてはいけないという気になってきている。

一昔前まで、男性は外出の時に必ず帽子を身につけたものだ。その帽子で職業や社会的地位、人品までも垣間見えたものだ。

古い映画や芝居ではかぶる帽子でその役柄を表しているようなところがある。

そう思うと自分にぴったりの帽子選びと言うのは、なかなか気を遣うし、難しい。

私と似たようなヘアの量を誇る友人のAくんも近年帽子に凝っている。彼は大体がハットをかぶる。

東京出張の際にデパートで勧められたり、大好きなアメ横で見つけたりして、色んな柄の一風変わったハットをかぶっている。

仲間でゴルフや旅行に行ったりする時には、実はAくんの事を少々気にする。

Aくん自慢のハットとかぶらないように(帽子なのに・・・)ハンチングに変えたりして、気を使っているのだ。

朝歩きの時は使い古しのくたくたのキャップ、ゴルフの時は白いキャップかハンチング、そして通勤や外出のハット、遊びの時はキャスケット、帽子のある暮らしもなかなか楽しい。

髪型を変える事は出来ないのだから、その分、多少は帽子につぎ込んでも罰は当たらないだろう。

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