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2015年3月

2015年3月31日 (火)

チーム61

この春、K先生と看護師でがん相談室のNさんが退職することになった。一旦、仕事を離れ、様々な事をリセットするのだという。

K先生と私、そしてH先生は同い年だ。そしてNさんは、同じ中学校の同窓生なので、やはり同い年だ。

そこで退職前に一度飯でも食べましょうという事になり、私が幹事をつとめた。

その際、案内に使ったのが「チーム61」という名称というわけだ。チームというからには何かしそうだが、プランは特にない。

まずは美酒美肴を、という事で先輩の「天竹」に「普段あまり食えないようなものをよろしく」とお願いした。

まだ会津は雪の中の2月の事だ。

ノドグロを中心に、たっぷり美味しいものを作ってくれた。特に米から炊き上げた鯛飯ならぬノドグロ飯が絶品だった。

酒は持ち込みで栄川の「立春初しぼり」を2本用意した。3時間を越えて大いに飲んで食べ語り合った・・・しかし、あんまり覚えていないところが「チーム61」の61たるゆえんでもある。

二次会はBARへ・・・穏やかな時間が流れた。

好むと好まざるとに関わらず、我々の人生は秋から冬へと向かう。

来し方を思い、行く先に思いをはせる、そんなところへ差しかかっている。

K先生もNさんも思うところあって一旦・・・との決断だ。

どうか健康にだけは気を付けて、当たり前だがまだまだ頑張りましょう!

「チーム61、62,63,64・・・」と続く事を約束し、何度も握手を交わし別れた。

そんな一夜の出来事でありました。

2015年3月30日 (月)

笑み

「若い人が一生懸命に頑張っているのを見るのは気持ちが良いなぁ・・・・」と、自分で言って何と年寄りくさい言葉なんだ!と驚く。

初めて入ったカレー屋さんだった。若い男性が3人、きびきびと立ち働き、格別のイケメンでもないが笑顔一杯に接客をしている。いかにも自分たちの店を成功させよう!という心意気が伺える。

先日の日曜日、今日しかないと福島県立美術館で行われている「円空展」に出かけた。会津から約1時間半。福島市は初夏を思わせるような陽気だった。

およそ300体の円空仏が飛騨から運ばれてきた。木目も、ノミ後も荒々しいが優しさに満ち溢れた円空仏。どの仏さまを見ても口元に穏やかなアルカイックスマイルを浮かべている。

何万人、何百万人の人々が手を合わせた仏さま、どれほど多くの人々を慰め救ってきたことだろう。

まさに時空を超えた芸術品だ。

朝早めに出たので、ゆっくり鑑賞してちょうど昼時となった。

なんとなくカレーが食べたくなり、スマフォで食べログを見てみる。COCO壱番屋でも仕方がないと思い、「笑夢」という街中のお店をカーナビに入れた。

時間規制のある道でも、ちゃんと時間を確認して案内してくれる。便利なものだ。

そのカレー屋さんが冒頭の気持ちのいいお店だった。

店内は昼少し前なのにすでに一杯、それも圧倒的に若い女性が多い。我々が最年長である事は間違いない。

バターライスにハーフ&ハーフ(チキンカレーとキーマカレー)、家人はオーソドックスな欧風カレーライスを頼んだ。ドリンクとサラダをプラスして1000円ちょっと。

カウンターの中で手際よくカレーが作られる。いくつもの鍋が並び、その奥の方にもずん胴が見えたので色々なルーのカレーが楽しめるのが分かる。どうやら夜は飲めるらしい。

お客さんは次から次とやってくる。あっという間に3組待ちになった。

カレーは本格的で美味しい。食器や盛り付けにも若さが溢れている。ボリュウムたっぷリ。

スパイスに反応して、暑いわけではないのに頭部から汗が吹き出る。辛口ではなかったのでこれくらいですんだ。

カウンターのお客さんとにこやかに言葉を交わしながらも、店内への目配りはひと時も怠らない。そして、笑顔も忘れない彼ら。

まるで円空の仏さまのように、常ににこやかな笑みを浮かべているのだ。

やはり客商売とはこうあらねばならない。

味も大事、雰囲気も大事だが、それを一層引き立てるのは笑顔あふれる店内の空気感なのだ、といたく納得した。

気分良く食べれば美味しいに決まっている。

円空仏の笑み、カレー屋さんの笑みを満喫し、帰り道は久しぶりに土湯峠を通って会津へ。

猪苗代辺りは、まだまだ雪が残っていた。

2015年3月26日 (木)

大人

この時期になると、とっても楽しみなパーティがある。

それは初期研修医の卒業を祝うパーティだ。2年間、当院での初期研修を終えた研修医の卒業式が、午後の仕事も落ち着いた時間に行われ、その夜にパーティが開かれるのだ。

今年で9回目になる。

誰が言い出してそうなったのか分からないのだが、このパーティはいつもレストランで行われるのが恒例となった。

居酒屋とか料亭などは無しで、ちょっと小洒落たレストランを探して続いてきた。

思い出すままにざっと挙げると「ポテロン」「AC倶楽部」「ラシーン」「ビーンズ」「ウノ」などなど、今はもうなくなったお店もある。

今年は6人の卒業生を送り出すことになった。(内1名は当院に残る。)

今年のパーティは大町四つ角の「ルーチェ」で行われた。場所が良かったのか、希望者が例年より多く50名近くになった。

二階のホールは一杯で立ち席も生じたが、楽しく和やかなパーティとなった。

今年はこの制度が始まって10期生という節目、そしてこの制度の立ち上がりから責任者として運営全体を支えてきた研修医の父とも言えるK先生が退任されると言う事で、少々、趣の変わった会となった。

ビール、ワイン、若干のカクテル、ソフトドリンクが飲み放題。料理はスペース上、ビュッフェ形式にしないととても無理なので、1年目の研修医たちがウェイターさながらこまめに立ち働いてくれた。

H先生の乾杯!の発声で一気に空気が和む。各自、自由に歩き回ってそれぞれに会話が弾み、ワインも赤白、赤白と、次々空いていく。

やがて恒例となった特注名入りの起き上がり小法師が一人一人に贈られると、花束、記念品と続き一人一人が少々声を潤ませながらお礼の言葉を述べた。

続いてサプライズでK先生への感謝のセレモニーが行われた。

これには1期生、2期生の代表も駆けつけてくれた。思わぬプレゼントに、鬼の目にも涙のK先生、初めて見ました眼鏡をはずして涙をぬぐうお姿を。

K先生のあいさつもとても良かった。

そして、この研修医の先輩にあたる昨年の卒業生からのひと言。

・・・これがいただけなかった。

I先生はマイクを持たせると止まらないという悪習持ちで有名だが、案の定長引いた。

これを「もう、やめろ!」と先輩が叱ると場の雰囲気がすっかり悪くなってしまう・・・誰もが言い出しかねていると、2期のM先生が見事な大人の対応を見せた。

「先生~」と、さっとマイクを奪うと「ボクもう膀胱破裂寸前ですから、その辺でよろしくお願いしますよ~」と終始笑顔、そしてきりっと「あなたのパーティじゃないですから!」と、けだし名言でたしなめた。

見事な大人の対応だ。今や中堅としてバリバリ活躍、将来は福島県の小児医療を背負って立つ人物だ。

巻き起こったみんなの拍手にI先生は顔を赤らめて、引かざるをえない。こちらは、もうすこ~し、大人にならないといけないね。

最後に研修医の母・U子さんのあいさつ。今年は時間が押した事もあってか、涙にくれる事もなく、きりりとした強い母の言葉で終えた。

宴のはねた帰り道、H先生と一杯だけ、という事で止まり木に。

「いやー、M先生は見事だね。我々いい歳してるけど、あんなに冷静に興奮もせずに、場の雰囲気も壊すこともなく、人をたしなめることが出来るかね???」「出来ねえなぁ~」

・・・ずっと大人だと認めざるを得ない。

若い頃なら「スゴイ!僕はああいうカッコイイ大人になりたい!」と、叫ぶところだが、そうなれないままにジイサンの域にまで達している事は疑いようもない事実なのである。

研修医諸君、会津を離れる人も残る人も、どうかハッピーな人生を送ってください。そして一人でも多くの悩める人々を癒してあげてください!

そして、M先生の様なカッコいい大人になってください!

ご卒業おめでとうございます。

2015年3月24日 (火)

家族

私より1歳年上のOさんが昨年11月に亡くなった事を知らずにいた。

暮れに福島民報新聞の読者投稿欄に、Oさんの業績を讃える投稿が載った。それで、これってひょっとして・・・?と、知人に尋ね知ったのである。

結婚前の一時期のことだから遠い昔だ。

Oさんは私の取引先のデザイン事務所に勤務しており、およそ3年ほど非常に親しくお付き合いをさせてもらった。

細身で長身、非常にダンディ、いつも三つ揃えの黒のスーツを着ていた。事務所では上着を脱ぎ、黒いベストで、『太陽にほえろ』のマカロニ刑事のショーケンを思わせた。

初めは「なにそんなにカッコつけてんだよ!」と思ったが、そのスタイルが全くぶれないので、それはそれで大したもんだと思ったし、話してみると陽気でなかなか楽しい人だった。

私と同じようにOさんの死を知らずにお葬式にも出られなかった、Sくんと連絡を取り合い。

この彼岸にお線香を上げに行こうと言う事になった。

日曜の午後、ようやく調べた住所を頼りにOさん宅へ二人で向かった。

会津坂下町と山都町(今は喜多方市)を結ぶ道、遠方に磐梯山を眺める広々とした田園地帯の集落にOさんの家はあった。

まだ新築の様な大きな家があり、その周りに立派な蔵がある。なかなかの富農だった事が伺える。Oさんのあの品の良さは、こんな恵まれた環境にもよるものだったのだろう。

突然の珍客に家の方は驚いたようすだったが、事情を話すとすぐに招き入れてくれた。

Sくんは線香を、私は菓子を、とちょっとした手持ちを準備して行ったのだが、Oさんの家は神道だった。お線香はちょっと違っていたが仕方がない、その無礼、またお葬式に伺えなかった無礼を詫びて忍び手を打った。

迎えてくれたのは二人の息子さん、もう立派な成人で31歳と27歳という。そして奥様。

Oさんは我々の世代としては晩婚だった。

私は勝手に相当に遅い結婚だと思い込んでいたので、こんなに大きな息子さんがいるとは意外だった。

長男の方はオペラ歌手で2年間のイタリア留学を終え近々会津若松市で帰国コンサートを開くと言う。二男の方は父親の死後、東京での仕事を終え実家に戻られたという。

実にたくましく見える二人の息子さん、そして長く教師をつとめられたという明るそうな奥様だ。

しばし、遠い日の思い出話をしてO家を後にした。Sくん共々、これでなんとなく胸のつかえが下りたような気がした。

快晴の会津平を眺めながらの車中にて。

「Oさんも立派な息子さんがいたんだなぁ・・・」「そうだなぁ、結婚式には出たけどその後は、たまに顔合わすぐらいで俺も知らなかったよ」

「しかし、なんだな。ああいう家族の姿を見るとOさんもこの世を去ったけれど、立派な遺伝子を残して命をつないでいった、って思うよなぁ」「んだなぁ、人間も突き詰めれば動物と一緒、究極は遺伝子をつなげるために必死に生きているんだって・・・そんな事思うなぁ」

昨年、二人の共通の友人が、やはり若くしてこの世を去った。彼は生涯独身だった。なんとなく二人はその彼の事を思ってしまっていた。

彼が、がんの末期と宣告された時に真っ先に何を考えたかと聞いた事がある。

その時、彼はこう言った。

「死ぬとかいう恐怖よりも、真っ先に思ったのは、なんで俺は家族を持たなかったのだろう・・・?という事だった。あの時は身が震えるほど後悔した。失敗したと思った。」

たとえ遺伝子は残せなくても家族は持てる・・・。

その後、彼は自分の病状を隠さずに結婚相談所に登録をした。残念ながら夢は叶わなかったが、一人、会ってもいいという女性からの返事が来たと、とても喜んでいたっけ。

「家族になろう、家族を持とう、と、ホント若いやつらに言いたいですよ。俺の後悔を伝えたい・・・」と彼は言っていたので、これを書くことも許されると思って書いている。

たとえどんな形であっても「家族」と呼べる人間関係を持たなければ、人生という荒波はあまりにも過酷だ。

そして、「家族」という最小の最強の共同体が築かれなくなれば、社会全体が少しずつ壊れて行ってしまうような気がする。

そんな事を考えながら、背中に早春の夕陽を感じる・・・弔問の午後であった。

2015年3月22日 (日)

お彼岸に

週末、東京に出かけた。

会津学生寮「至善寮」の理事会に出席するために金曜の午後から出かけた。

文京区千石という東大にほど近い一等地に、35名の学生が暮らせる寮がある。個室で朝晩の食事が付き、月7万円という超格安な学生寮だ。

この寮の始まりは今からおよそ百年前にさかのぼる。会津出身の優秀な学生たちを支援するために先人達がこの地に寮を建てた。

以来、何千名もの会津の若者たちが青春のもっとも熱い時期をこの寮で過ごしたのである。

私は寮の出身者でもないのだが、先年、請われて理事の一人に就任した。

多くの理事、監事の方々は東京周辺にお住まいだが、地元・会津からも5,6名ほどが名前を連ねている。

山手線の巣鴨駅で降りて、寮まで徒歩およそ15分。閑静な住宅街の中に「至善寮」はある。

昨年までは27名の若者が暮らしてきた。この春からは34名が暮らすことになる。

一時は入寮生が減少したが、ここ数年増え、これから先は毎年の空きがほんの数名ほどしかないという狭き門になる見込みだ。

風呂や洗濯などは共同だが、個室にエアコンも付き、食道の賄いはプロの料理人が当たる。米は地元からの会津米で食べ放題ときている。

こんなに格安な東京暮らしは、他ではちょっと考えられない。

理事会を終え、百周年に向けた話し合いも若干白熱し終了。近くの和風レストランで懇親会が準備されている。

お酒も入り宴も盛り上がり、話している内に、何と私が最年少であることが判明。若く見える寮長さんでさえ、私のひとつ上だった。(驚き、急に態度が小さくなったような、ならないような)

先輩方との話が盛り上がり、大分いい気分になり、上野のホテルへチェックイン。無理すれば帰れない事もないのだが、折角ここまで来たのだから、明朝、孫の顔を見て帰る事にする。

明朝、秋葉原から亀戸へ。10時前に娘夫婦のマンションを訪ねる。孫ちゃんは、手を広げてお休み中だ。実に気持よさそうな顔をして寝ている。

コーヒーを飲んでしばらくすると目を開けた。目を開けたと思ったとたんクルッとうつぶせになり、私の顔をじっと見て、しばし固まっている。

かなり長い間固まっていたが、声や顔に見覚えはあるようだ。泣いたりはしない。抱き上げるとひげを触り、顔を叩くようになった。そして時折、奇声を発する。たまらん!

1時間ほど遊んで、錦糸町でシャツを買い、急ぎ上野から新幹線へ。郡山からは快速電車。

会津ライナーが無くなったので、指定席車両がない。たった2両の電車は満員の人だ。座われて良かった。

3時少し過ぎに自宅到着すると家人が「ああ、良かった。これから彼岸獅子が来るって。今、更科さんあたりに居るらしいよ。前触れの人が今来ていったとこ。また今年も一人で彼岸獅子を見なきゃいけないのかと思ったよ・・・・」との事。

今年は、ご祝儀に初孫の分ももう一つ乗せて、家内安全と健やかな成長を願い舞ってもらう事にした。

10分ほどすると、チャイムを鳴らして彼岸獅子がやってきた。滝沢の獅子団、総勢20名ぐらいはいるだろうか。近所の人々も集まって、春を告げる彼岸獅子の舞いが始まった。

仏間の戸は少し開けてある。

父も、そしてもうすでにいない叔父さん、叔母さん達も、この彼岸獅子が大好きだった。

父が死に、仏壇を七日町の生家から移して以来、毎年家で舞ってもらう事にしているのだ。

三匹の獅子が舞うその横で、三人の小学生が野球帽をかぶってお囃子に合わせて舞いのおさらいをしている。その姿が実に可愛く、微笑ましい。きっと3,4年もしたら彼らも一人前の獅子になる事だろう。

孫の分まで念入りに舞ってもらい無事終了。「ありがとうございました!」

これで確かに会津にも、我が家にも春が来ました。

2015年3月21日 (土)

スクリーンと本人

21日夜に会津鶴ヶ城天守閣で行われているプロジェクションマッピング「はるか」というのを、初めて観た。

一晩に4回公演、1回に2,3千人は入りそうだから大変な人出だ。イベントによる経済効果も大きいだろう。

確か今年で3回目になるはずだ。初めての年も観に来たのだが、もの凄い人で本丸に入れなかったのを覚えている。北出丸から西出丸まで並ばされて、結局あきらめて飲みに行った。

そうしたノウハウが蓄積されて、1日4回の公演、インターネットによる申し込みや発券、警備手法も確立され人の出入りも大きな混乱はなく、極めてスムースだ。

北出丸側に並び、前回の上演が終了すると人々がどっと出てくる。その最後尾を追いかけるように次回の観覧者がぞろぞろと入城する。

初めに多くのこどもたちがデザインした絵がメッセージと共に映天守閣に映し出される。(これは動きがない)

どんな色でも描き出せるし、建物の壁面を計算して映し出す技術は見事なものだ。

続いて昨年の作品、小原庄助さんをテーマにした作品。そして今年の赤べこをテーマにした作品と続き、全体でおよそ30分ほどの公演だ。

動画は自由自在に動き回るし、白壁はどんな色も構図も映し出す。時に宇宙を想わせ、時に巧みなアニメーションの動きを操る。

コンピュータと巨大プロジェクターの組み合わせで、いかなる映像でも創り出す事が可能になった。

しかし、「やっぱり、こんなもんか!」というだけで、申し訳ないがちっとも面白くなかった。

夜空に浮かび上がるきれいな映像も、初めは歓声に包まれるが、次から次と続けられてもすぐに飽きてしまう。感嘆符が疑問符に変わっていく。正直、つまらない。

何でもできると言う事は、よほどの想像力&創造力がなければ結局、大したことが出来ないというのと大差がない。

もう20数年前になるが、この鶴ヶ城をライトアップして「城の語る一夜」という野外劇(音と光のページェント)を行った事がある。

私が脚本・演出をした。(本当です。)

漆黒の闇の中から浮かび上がる天守閣、目覚めた城の魂が六百年の歴史を語り始める。

当時はもちろんプロジェクションマッピングなどというIT技術はない。

音響・照明は仙台から東北随一のプロ達が集まってくれた。城の語りには、友人でもあった、銀色テント主宰の怪優・山川三太氏を招いた。

城は様々な色に姿を変え、味わい深い声、せりふ回しで激動の会津史を語り続ける。

戊辰の炎上シーンでは真っ赤に染まった城の中の広場でJCメンバーが実際に発煙筒を焚き、天守閣が煙に包まれた。

今、思えば超アナログな世界だ。

マッピングとの最大の違いは、マッピングでは天守閣はスクリーンにすぎないが、ページェントでは天守閣がお城本人だということ。

今、日本国中でプロジェクションマッピングが大流行りだ。

至る所で行われているわけだが、その規模や完成度はTDLなど資本力の大きなところには絶対にかなわない。

地方でやるならお城や神社仏閣など、その土地を代表する建物は最適と言えるだろう。そこに地方独自のオリジナリティ加わればなおのこと良い。

確かにモチーフは小原庄助さんであり、赤べこであり、いかにも会津らしい。しかし、プロジェクションマッピングという先端技術を活かしたオリジナリティは感じられない。

昔やったページェントは半ば手づくりで低予算だった。しかし、他では絶対に出来ないものを、という気概だけは充分にあった。

当時の何倍ものお金をかけて作成されているにしては「なんだかなぁ・・・」というのが正直な印象だった。

「あんな風に何でもできるんだったらなぁ・・・俺にやらせりゃもっといいのが出来るのに!」などと、まったく誰からも相手にされない憎まれ口が思わず口をついて出た。

それにしても、昼の暖かさで調子に乗って少し薄着で出かけ過ぎた。

心底冷えてしまい、酒場に飛び込みきゅうーっと呷った熱燗に「おーっ!」と、この日一番の感嘆符が出てしまったのでありました。

2015年3月19日 (木)

そんなに悪いのか?

大相撲の横綱白鵬がマスコミに対して沈黙を続けているという。勝ちっ放しで他を寄せ付けない強さを誇っているのに、何となくバッシングを受けている感じだ。

相撲界の歴史を次々と塗り替える大記録を打ち立ててきた大横綱なのにどうして?と思う。

『無事これ名馬』のことわざ通り、白鵬は極端に怪我が少なく休場もない。それだからこそ大記録を打ち立ててこられた。

朝青龍の去った後、相撲界を一人で支えてきたと言っても過言ではない。八百長問題で前代未聞の春場所中止となり、相撲人気も地に堕ちた中、土俵を守り続けたのは白鵬だ。

東日本大震災の後も、何度も何度も四股を踏み地を鎮め、人々を励ましてきたのも白鵬だ

一人横綱の期間も長く、メチャクチャに大きな責任を背負わされながら孤独な戦いを彼は耐え忍んできた。

怪我もせずにここまで来ているのは間違いなく、人一倍の稽古を続けているからだ。解説者も白鵬は備えに、人の倍以上の時間をかけていると褒め称えている。

人知れず、人一倍の努力をし続けてきた大横綱なのだ。

それなのに白鵬は、ここに来て半ばヒールの様な扱いを受けている。

事の起こりは(実はものすごく根深いのかもしれないが・・・)先場所優勝祝賀会明けの朝の優勝インタビューで、取り直しとなった一番の判定にケチを付けた事だ。

「こどもでも分かる」と勝負審判、すなわち相撲協会の顔に泥を塗った発言だ。

白鵬が言い過ぎで、言い方も悪かった事は確かだ。

しかし、前夜から痛飲してまだ酒が残っていたのも事実。だから許されるというものでもない、と言うのももっともだが、忘れてならないのは彼が外国人だと言う事だ。

ペラペラと日本語を話し、日本人よりも日本人らしい心を持った横綱、というイメージが定着している。

しかし、彼は外国人だ。どんなに日本の心を学んだとしても、本質的な部分で民族の感覚の違いが出るのは、これは仕方のない事だ。

あれほど賢い彼も、たった一言でここまで反発を買うとは思わなかったに違いない。

スロービデオを見て、白鵬の足が裏返っていたと主張する審判団の主張もごもっとも。

だが、それをどっちが正しい、どっちが良い悪いにして、白鵬一人を叩くのはあまりに酷じゃないだろうか?

このぐらい言ってもいいか、と思った感覚のズレが生んだ大軋轢だ。そこには民族性の違いもあったかもしれない。

これまで相撲界に貢献してきた大横綱に対して多少なりとも恩義を感じるのであれば、そのズレたところを修正し、いち早く事態の収拾に努めるのが、横綱の貢献に感謝しなければならない日本側の正しい対応ではないのだろうか?

白鵬は外国人の大横綱なのだ。一生懸命に日本の社会に適応しようとして努力を続ける努力の人だ。

それを寄ってたかっていじめているように思えてしまうのは一人私だけだろうか?

北の湖理事長も、双方を呼んでちゃんこでも食べて「あんな言い方したら元も子もないからダメなんだよ白鵬くん。審判団もこういうわけだと説明して、あの話は無し、ケリがつきましたにしてくれればいいのに・・・。折角盛り返した相撲人気に水を差したらつまらんだろう、諸君!」ぐらいな事言ってくれればいいのにと思う。

見方を変えれば、次次と記録を塗り替えてしまう外国人横綱に、日本人がそねみ、やっかみですねているようにしか見えない。

マスコミも各社横並びで、白鵬を擁護する姿勢も見せない。あれだけ世話になっておきながらそれはないんじゃないですか、と代弁したくもなる。

ひたすら無言を続け、文句があるなら俺を倒せ!とばかりに立ちはだかる白鵬、どいつもこいつも手も足も出ないどころか、怪我ばっかりして休場続出ときている。

一人気を吐く白鵬は、そんなに悪いのだろうか?

私は、頑張れ―!と声援を贈りたい。

・・・会津はすっかり雪が消えた、と書いたその後のドカ雪、すっかり気を沈ませた3月の雪もようやくまた消えた。

事は良い悪いではなく、感覚のズレによる大軋轢だ。

2015年3月16日 (月)

音楽のある週末

土・日と続けて會津風雅堂でのコンサートに行った。

土曜日は会津芸文センター50周年記念の「財津和夫トーク&ライブ」、あのチューリップの財津さんだ。

2階席まで満員の人。このコンサートを企画した専務理事は友人、相当に頑張って動員に努めたのが伺える。

財津和夫さんは今年67か68歳、会場の年齢層もかなり高い。平均年齢は60を越えていたのではないだろうか?見渡す限り20代と思しき人は、私には一人も見えなかった。

財津さんも、これだけの大ホール満員というコンサートは久しぶりだったのではないのだろうか(失礼かな?)かなり上機嫌だった。

「スマイル」で始まったコンサートは懐かしい曲が目白押し。

「夕陽を追いかけて」「青春の影」「虹とスニーカーの頃」「サボテンの花」・・・「切手のない贈り物」「心の旅」は会場全体での大合唱となった。

そしてエンディングは「この素晴らしき世界」

正直なところ、学生時代にはチューリップがあまり好きではなく、よく聞いた事がない。

家人の方がずっと詳しい。ただ、「心の旅」はチューリップで初めていい曲だな、と思った一曲だ。

あまり聞かなかったとはいえ、不思議な事にどれもこれも聞いたことがある曲ばかり。思わず大きな声で歌ってしまった。

懐かしく楽しい時間、その晩は久しぶりに外食を愉しみたっぷり飲んだ。

翌・日曜は「森山直太郎コンサート」、日曜日だけに夕方5時と開演も早い。

朝から一生懸命掃除をし、用事を済ませ、買い物、ラーメン、昼寝を済ませて、おっとり刀で出かけて行った。

こちらも超満員、駐車場を見つけるのが一苦労だ。同じく二階席まで一杯だが、平均年齢は30歳ぐらい若返った感じだ。そして、女性が圧倒的に多い。

素晴らしい歌声、歌のうまさは天下一品だった。

しかし、良い曲と、ピンとこない曲の落差が激しく感じた。

「生きとし生けるもの」から「さくら独唱」への流れは圧巻、会場全体に鳥肌が立った感じ。

会場には昨日よりも知り合いの姿が多い。当院の職員、看護師さんも一杯いた。

最後の最後、アンコールのおまけの「太陽」。会場全体で手を振るが、若干の六十肩には少々堪えた。

コンサート終了後、余韻を楽しみ、買い出しをして自宅へ。

風呂に入り簡単に夕食を済ませると、いつもよりよく酒が回るような気がして、瞼がどんどん重くなる・・・。

音楽漬けだった週末、来週は早、春彼岸だ。

お囃子と共に、会津彼岸獅子が春を街につれて来る。

2015年3月14日 (土)

男の世界

マラソンの代表選考に増田明美さんが、噛み付いたと話題だ。

選考対象レースのひとつに優勝しても代表になれないのはおかしい。主観が入り過ぎている。という増田さんの主張はもっとものように聞こえる。

第一、優勝してもダメなら選考対象のレースにしなければいい、とは素人でも思う。

ま、この内容に関して、どちらが良いとか悪いとかいうつもりはない。

日本陸連の判断があまりにも「男の世界的」と感じる、という事を言ってみたかったのだ。

壇上の陸連の方々が男ばかりというのもあるが、選考過程の理屈の付け方がいかにも男的だ。

それだけに私も(男であるから)理解できない事はない。

我々はプロだ!陸上はあくまでもタイムだ!レース運びに難があった!出場者のレベルが低かった!

もっともらしい理屈を付けて、要は最終的に勝てる選手を選びたい。一番勝てる可能性のある選手を選びたい、そのために理屈は後付けでも構わない。いかにも男的な強引手法だ。結果ありき、なのである

以前、五輪のマラソン選考で最高タイム松野明美さんを外して有森裕子さんを選んだ事がある。結果、有森さんは大健闘して銀メダルを獲得した。

ああいう成功体験が忘れられない人が陸連の役員の中におそらく沢山いるのだ。

一度の成功体験が未来の挑戦を縛る。

本当に成功だったかなんて、本当は誰にも分からないのだ。だって、もし松野明美さん出場していたら金メダルだったかもしれない。

スポーツ界は、どうやらまだまだ男の世界のようだ。

もっともっと女性の進出を加速させた方が良いのではないだろうか。女性が活躍した競技の連盟や協会の理事の半分は女性がいいと思う。

陸連の役員の中に女性が半分いたなら、あんな結果にはならないのではないかと思った。

女性の社会進出を促そうと政府も本腰を入れている。いきなり企業に義務づける事は出来ないだろうが、営利を伴わないような団体役員の構成比には手を付けられるのではないだろうか?

会津でもいろいろな場面で、各種団体の当て職なんてのが山ほどある。

その大半が(ほとんど)がオッサンだ。

これから各種団体や企業の総会時期になるが、ほとんどが男の世界『む~、マンダム!』的、加齢臭ワールードだ。

女性を起用すればそれで済む、という単純な話でもないだろう。

だが、男には理解できても女には理解できない事が山ほどあるのは事実。その時には相容れない感覚をぶつけ合う事で社会はより良い方向に開かれていくのだろう・・・。

日本陸連も発表する前に、もう少し男女で揉んだ方が、よろしかったのではないでしょうか?

2015年3月11日 (水)

どんな顔していたんだろう。

四年目の3・11、会津はとんでもない雪になってしまった。

昨夕から降りだした雪、一晩経ったら真冬に逆戻りしたような銀世界になってしまった。除雪車出動、早く起きて雪かたしをしないと出かけられませんよ!というレベルまで積もった。

参った。本当に参った。40センチは優に超えてますかね。

コーヒーを飲んで意を決して雪かたし、半時間ほどの激闘で汗まみれになる。その間も雪は一向に弱まる気配がない。

寒気もきつく、会津野の春は、完全に再び粉雪に覆い尽くされてしまった。

そんな中、あの3・11が巡って来た。

あの日たった一人でフロアで揺れを感じた。

次第に大きく長く、広い部屋の中でパーテイションがバタバタと倒れる音、ロッカーが倒れ、落ちる音。これは!と机の下に身を隠した。

長い、長いよー・・・・そして沈黙。

「地震だ!それもこれは半端じゃない大きさだ」人のいるフロアへと走り降りた。余震が続き、逃げようとする人々、情報が欲しい~!!!!

と、それからの1週間はまるで雲の上を歩いていたような感じがする。

あの時・・・「こんな時こそ笑顔が大事だ。病院に来る人はだれもが不安で不安で、押しつぶされそうになっている。そんな時に我々が笑顔を絶やしてはいけない」こんな気の利いた事が言えたのだろうか?

どんな顔をして、どんな顔を職員に見せて日々を過ごしていたのだろう?

押し寄せる避難の人々、物資やガソリンが不足し、スーパーから物が消えた。

吹きとんだ原子炉建屋!!!

すぐに死ぬ事はないだろうが、この地での暮らしは崩壊するだろうことは覚悟した。本当に誰もが一度は覚悟した。

だが逃げ出しはしなかった。

災害対策本部、朝と夜の報告会、鳴り続ける電話、館内への安心放送、出来るだけ院内の見周りを続け、みんなの顔を見て、声を聞いた。

あの時、ちゃんと笑っていたのだろうか?

四年が過ぎてそんな小さな事が思い起こされる。

地震三日目の日曜の夜、通った真っ暗な繁華街。すると信じられない事に「新ちゃん寿司」の灯りだけが煌煌と灯っていた。

思わず車を止めて暖簾の中を覗いた。

「なんだべ?やってんの!」「あら、いらっしゃい。休んでウチさ居たってしょうがねえもの。寿司でも食ってみっかと思う人もいるんじゃねぇかと思ってな」と、新ちゃん。いつもと変わらぬ満面の笑みだ。

「そっかー、じゃあ鉄火とね、いいところを少し握って折にしてくれる?びっくりすっから女房に持って行ってやんべ」「はいよ!」

そして寿司折を持って静かな我が家に帰った。

「えー!お寿司なんてあるの???」と、家人は飛び上がって驚いた。そして、寿司を見て地震以来初めてと思える、満面の笑みを見せた。そして、少し涙ぐんだ。

あの時、誰もが一日も早く取り戻したかったのは、間違いなくそんな当たり前の日常だったのだ。

今、会津はとんでもない雪におおわれているが、震災後、故郷を失うほど、とんでもない事にはならずに済んだ。(会津の人全てではないだろうけれども・・・)

しかし、四年たってもなお、当たり前の日常を取り戻せない人々があまたいる。

それを想うと、思わず涙腺が緩んでしまう・・・そんな一日が巡って来た。

2015年3月 8日 (日)

教育旅行を望むなら

福島県、特に会津地方を訪れる教育旅行(修学旅行やスキー体験旅行など中高生が教育の一環として訪れる旅行)は、震災前の3割程度しか戻っていないと言う。

一番の原因は、放射能を気にしての敬遠気分だ。特にPTAの反対というか、賛同を得られないというのが一番大きな理由だろう。

『ダメというわけではないけれども、そこしかないわけではないのに、何も選んで福島にこどもを連れていくことはないでしょう・・・』総論賛成各論反対、人の子の親なら理解できる。

そこに行く事で、特別に学べるものがあるのでなければ行く意味はない。

その学べるものを提示できなければいくら営業をかけてもこどもたちを呼び戻す事は難しいのではないだろうか?

風評被害というもの、また全国からの応援、そしてそこに生まれた人と人とのつながり、復興への道筋などなど、他所にはない学びの場が福島にはあるはずだ。

そして何よりも安全。

飯盛山という有名観光地のすぐ近くに住んでいるので、震災前は春・秋になると大勢の修学旅行生の姿を見かけた。

ぞろぞろ街を歩き、コンビニの前では地べたに座って食事をしたりしていた。また、食堂では有名な会津のそばやラーメン、ソースかつ丼を食べる姿も多く見られた。

そんな自由散策のこどもたちの安全を守るために地域としての取り組みも必要なのではないだろうか?

コンビニの前はクルマで危ない。こどもたちが食べられる場の提供を考えてもいいだろう。

食堂はどうだろう?現在、会津の食堂の多くは喫煙フリーだ。禁煙、分煙を心掛けている店は本当に少ない。

受動喫煙の危険度は、低レベル放射線の比ではない。それなのに放置しているというのでは、地元の本気度も他所には伝わらないのではないだろうか?

せめて分煙。一階二階で分けるもよし、ワンフロアなら外で吸ってもらうもいいだろう。

ま、これはこどもたちの為というよりも、正直タバコを吸わない人間にとってはぜひそうして欲しいお願いでもある。

出来ていないところ、不足なところを一斉に改めてPRすれば、地域の本気度というものも少しは伝わるのではないかと思うのだが、どうだろう。

鶴ヶ城址も域内禁煙で問題無い様に思うのだが、どうなのだろう。

教育旅行の復活を望むなら、会津はこどもたちをタバコの煙から守ります!ぐらいの事は言ってもいいのではないだろうか?

・・・・教育旅行にかこつけたみたいな話だが、この際、教育旅行を抜きにしてもお願いしたい、というのが本音である.

蛇足:

土曜に久しぶりに家人と外で飲んだ。評判の店に行ってみた。人気で一杯、カウンターの席だった。

店内はゆったりとした造りではなく、少々狭い。料理はなかなか、ネタもいいし味もいい。これは人気が出るわ、と感心。

だが、肩を寄せ合うようなカウンターの隣席でブカブカとタバコを吸われたのは、さすがにきつかった。

全く気にしない人と、辛いと思う人。この差は埋まらない。

「美味しかったね。でも近くであれだけ吸われるとちょっときついねあの店は・・・」という事になってしまう。

2015年3月 7日 (土)

33名

今年の竹田看護専門学校の卒業生は33名、内およそ8割が病院に就職する。

5日に卒業式が行われた。恒例となったH院長の今年の贈る言葉。毎年半紙に自らの筆で墨痕鮮やかに書く。なかなかの達筆だ。

今年は『利他心』と書いた半紙を卒業生の一人が掲げた。

まず人を思いやる心、利己ではなく利他を優先させる医道の精神を記した。

そして吉例の回れ右!学生全員が父兄席に向かってそれぞれのご両親や身内の顔を探す。そして心をこめて「ありがとうございました!」のお礼の言葉を述べる。

大きな声が会場に響き渡ると父兄席のお父さんお母さんの瞳が潤む。

この卒業式の模様は毎年新聞の会津版に載るが、今年の福島民報の紙面には全員が回れ右をして、御礼の言葉を述べるこの瞬間がカラーで掲載された。

一風変わった卒業式の風景、とても良かった。

巣立つ33名が主催する謝恩会は、夕刻、ワシントンホテルで開かれた。

奇しくも、もう一つの看護学校の謝恩会も同じホテルで行われていた。危うく会場を間違えそうになる。

謝恩の宴は和やかなうちに進む。今年の卒業生たちは例年に比べて若干地味な服装の子が多かったように思う。

昼の卒業式は羽織はかま姿、夜ともなると『黒革の手帳』よろしく、艶やかに変身する。例年かなり盛って華やかなのだが、今年は気持ち大人しい。

清楚・・・と言うべきだろう。

余興も地味目、わさび入りののケーキ当てクイズなどで和やかに盛り上がった。

今年は静かだな・・・と思っていたらいきなりのエグザイルでフラッシュモブが始まり、学生全員が踊り出した。

続く教師一同の「妖怪体操」では来賓の先生方もみんな駆り出される。

みんなで踊らされたが、体操だけに結構きつい。ぴょんぴょん跳ねるだけで汗がにじんでくる、息切れがした。

そして、今年も中締めが私に回ってくる。

今年はアインシュタインの言葉を贈った。『人生には二通りの生き方しかない。ひとつは奇蹟など何も起こらないと思って生きる事。そしてもう一つはあらゆるものが奇蹟だと思って生きる事』

生まれた奇蹟、看護の道を志した奇蹟、そして44回生の仲間と巡り合った奇蹟、そんなみなさんに、これから幾千、幾万の素晴らしい奇蹟が起こる事を祈って万歳三唱をした。

酔いも手伝い、かなり気合いが入った!

若さはまぶしく、美しい。どの笑顔も瑞々しく希望に溢れている。

これから先、その笑顔を曇らす事も山ほど味合わなければならないだろう・・・・でも、この素晴らしい仲間がいる事を絶対に忘れないで、奇蹟の海の航海を楽しんでください!

心から卒業おめでとう!

2015年3月 2日 (月)

上書きとフォルダー

夫婦げんかは犬も食わないと言われるが、人の不幸は蜜の味、なので別れた切れたの芸能ネタは尽きない。手軽に視聴率も取れて、制作側はなかなか美味しいという事になる。

ベストカップル賞などをとった、年の差おしどり夫婦、奥さんが突然三行半を叩きつけて話題になっている。

モラハラだとか、あまりに拘束し過ぎだとか、いずれどっちもどっちなのだろう。

ので、裁判所の判断に任せるしかないわけだが、いい歳をした旦那の方が、もう一度やり直したいと、未練たらたらなのには「本気なの?」と突っ込みを入れたくなってしまう。

二人でコメンテーターのまねごとや、お悩み相談みたいな事もやっていたような気がする。そんな物知り顔の旦那が、女心に疎いはずがなかろう。

女性は、物事を決めるまではすごく悩むが、いったん決めたら、ハイそれまでよ、だ。

別れると決めたなら決して後ろなど振り返らない。何時までも女々しく、過去ばかり振り返るのは、女々しくないはずの男の方だ。

一度離婚してまた再婚するなどというレアケースもあるにはあるが、そんなのは百万に一つだ。

別れた相手の事をいつまでも忘れられずに、あわよくば焼けぼっくいに再び火が付くことを夢想するのは男ばかりだ。

例えれば、男は焚火を放置したままの自然消火型。女はブシューッ!と一気に消火器で息の根を止める完全消火型だ。

また何かで、こんなうまい事を言っているのを聞いたことがある。

男は思い出をフォルダーをつくって保存する。一方、女は常に上書き保存なのだという。上書きしたら、その下のメモリーは消えてしまう。だから・・・女は振り向かない。

なかなかうまい。

「女はいったん腹を決めたら迷わないからねぇ・・・」などとテレビに向かってつぶやくと「あらそうなの?良く分かってるんですねぇ、女心が」と家人が横目でジロリ。

くわばらくわばら!

ま、どんなにあがいても、覆水盆に帰らず、ロードがリロードする事はないと思いますよ、って話だ。

お互いに出来るだけ傷を少なく、出来うるのであればまた再生が効くように、お子さんのためにも早めに折り合いを付けるのが正解なのではないですか。

と、犬も食わない話に余計なお世話。

雨も続いて会津は一気に雪が消えた。道路とその周辺にすっかり雪が無くなり、ポンポンに乾いた路面が続いている。

3月1日は

福島県立高校の卒業式が一斉に行われた。

会津高等学校同窓会副会長の一人として母校の卒業式に参加した。

卒業式が日曜日にあたるのは7年に一度(でいいのかな?)、休日だけに父兄の姿が多かった。

寒い朝、学校へ行く道すがら、肩を寄せて歩くお父さん、お母さんの姿が目立った。

卒業生には当院の職員の子弟も多く、平日では絶対に出席できないドクターの姿もちらほらと見られる。

卒業生278名。一人一人名前が呼びあげられるが、その返事は様々だ。

消え入るような声、元気な声、体育館一杯に響き渡るような声、その大小が将来を決めるわけでもないだろうが、それぞれに個性豊かだ。

時間に沿って厳粛な空気の中、式典は進められる。

生の吹奏楽団、混声合唱団の歌声、そして毎年の事だが、送辞や答辞、近頃の高校生は、まったく声が震える事もなく落ち着き払って挨拶の文を読む。

むしろ、祝辞を送る大人たちの方が緊張しているぐらいだ。

ガタガタ震えて緊張の極に達する高校生の姿など、初々しく見てみたいものだが、そういうこどもは近頃とんと見かけない。

最後に父兄代表の謝辞があった・・・あのお父さんが一番緊張していたかなぁ。

ともあれ我が後輩たちよ、18の春だ。ここからそれぞれに素晴らしい青春を、そして光溢れる人生を歩まれん事を、心から祈念いたします。おめでとう!

式典終了後、学而会館で同窓会の簡単な作業と打ち合わせが行なわれる。5月に行われるゴルフ、将棋、囲碁大会の準備だ。

終了後、急ぎ帰宅。

途中、家人の分と合わせ「ほっともっと」で弁当を買う。食事を済ませ少し休んだ後は、午後2時から會津風雅堂において倉本聰氏脚本・演出の芝居「ノクターン」が行なわれる。

福島の原発事故以後、度々福島を訪れ、福島への思いを新作として書き下ろした演劇が「ノクターン」。福島民友新聞社の全面的な協力で会津での初公演が行なわれる。

会場はほぼ満席の人。

原発事故後の廃屋の中で繰り広げられる芝居、富良野の演劇集団の役者達の実力は確かだ。声も良く通り、台詞も流れない。

芝居を見ながら4年前のあの日に心は引き戻されていく。双葉町、大熊町、葛尾村・・・次々と出る実際の地名、語られるあの日のエピソードに脈が早まる。

正直、あまり冷静に鑑賞できなかったので芝居の出来はなんともコメントし難い。

中には半減期が数億年という放射性物質もある。そこに人が住み、町があり、国があった事さえ消えてしまう程の気の遠くなるような歳月。そんな瑕疵を人間が作ってしまった恐ろしい事実。

カーテンコールの拍手は、感動と感謝が入り混じった不思議な響きで、長い長い時間続いた。

倉本聰さんも自ら舞台に姿を見せ、また、ステージがはねた後はホールで観客の拍手に応えてくれた。

何はともあれこうして福島を忘れず、福島のために創作を続けられるそのパワーと情熱に心から感謝を申し上げたい。

ありがとうございました!

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