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2014年9月

2014年9月26日 (金)

あれじゃ台無し

NHKの朝ドラ、あまりの人気に、一体どんなものなんだろう?と、「あまちゃん」を録画して見るようになってから、次々観るようになった。

毎朝ではなく、土曜の一週間分放送を録画して観る。なかなか、面白い。「ごちそうさん」に続いて「花子とアン」、平均視聴率で過去最高を記録したそうだ。

次々とすぐれたドラマが作られるというよりかは、中毒性が増した視聴者が増えると言う感じ・・・一度染み付いた習慣は変えにくくなる、ここにも高齢化の影響があるのかもしれない。

その「花子とアン」の最終週、敬意を表して録画ではなく毎日BSで観た。(7時半からと早い)

遂に「赤毛のアン」が出版されるという大事なクライマックスに出版社社長として出演したのが、なぜか脳科学者のM氏。

何でも赤毛のアンのファンで、赤毛のアンから学ぶというような著書があるという縁らしい。が、芝居はまったくの素人だ。

その芝居が実にひどかった。棒読みで、学芸会でももう少しマシでしょう、というレベル。あまりにひどいので、周辺の役者もウケ方が分からなくなってしまっていたようで、ボロボロだった。

最後の最後で、あれじゃ半年の苦労が台無しだ、と、少々腹が立った。

後番組の「あさイチ」に最近出ている、柳澤氏が「なんでMさんなの?棒読みでしたね・・・」というようなコメントをしたらしいが、おそらく同じように感じたのだろうと思う。

次の回も、次の回も、あんまりひどいので、あれはないよ、とメールを書いた。

かのM氏にしたって、テレビに出ていろんな芸術作品を評価したり、批判したりしているのだから自分でもわかりそうなものだ。

M氏に何の恨みもあるわけではないが、仕事だからといって、自分で望んだのではなく請われたからといって、出来ないことは、断る勇気というものが必要だということを学んだ。

周りの人に迷惑をかける。

おそらく、花子役の女優さんも、旦那役の男優さんも、本当のところは面白くなかったに違いない。「なんでこんな人と??」と、思ったことだろう。

「ごきげんようさようなら」の語りだけで人を泣かす、美輪明宏さんもおそらく・・・。

あまり調子に乗るのは良くない。門外漢が、それまでの苦労を台無しにするようなことは、やらない方がいい。

会津は秋、何事もない静かな誕生日が過ぎていく。

2014年9月24日 (水)

はるかは偉い!

会津まつりの数週間前に、NHK大河ドラマ「八重の桜」で八重さんを演じた女優の綾瀬はるかさんが、藩公行列に参加することが、でかでかと報じられた。

室井市長も自慢げで嬉しそうだった。

人気女優だけに当日の人出は、相当なものと予想された。

今年は祭りの三日間、ゴルフにも行かず、風邪気味なので家でぶらぶら、ゴロゴロと骨休めをした。三日間とも上々の天気だった。

行列当日、本丸の出発は10時35分となっている。9時半に家を出て、家人と北出丸大通りを目指して歩く。良い運動だ。

宮泉さんの前についたころにはもうすでにすごい人垣。本丸にはもう、とても入れないらしい。通りの両側も人で溢れ身動きが取れないほどだ。

そんな我々を見かけてMさんが声をかけてくれた。それも有難い事に「良かったら。薬局の二階から見っせ!」と、通りに面した薬局の、倉庫になっている二階に上げてくれた。

二階の窓からだとこれはもう、実に眺めがいい。特等席だ、ありがとうございます。

やがて大歓声の中、行列の先頭が見え、保科正之公役の室井市長の姿が見えた。二階から大きく手を振る。

容保公役の松平十四代に続いていよいよ、綾瀬はるかさんを乗せたクルマがやって来た。沿道からは大歓声が起こる。

なんと綾瀬はるかさんは、八重さんが鶴ヶ城籠城の際に来ていた戦闘の衣装で現れたではないか!私服でクルマの上から手を振るだけだ、などというガセネタがあっただけに、その姿には感動すら覚えた。

「細い~、顔が小さい~、きれい~・・・・・」驚きの歓声が飛び交った。

感動、綾瀬はるか、そこまでやってくれるあんたは偉い!

彼女を乗せた車が通り過ぎると、人垣もなんだか細る。追っかけが、どんどん後をついて行くのだろう。

そのあとの行列はもう、なんだかお粗末。手作り甲冑の隊が次から次へと続く。行列の中に一つぐらいならまだしも、紙で作った手作り甲冑隊が続いたのでは予算がありませんのでこれで、という感じになってしまう。

馬の頭数も少ないし、娘子軍、白虎隊の人数もなんだか少ない。これで綾瀬はるかさんがもし居なかったら、見られたもんじゃないんじゃないの?と、要らぬ心配をしてしまった。

とにかく二階からだから行列の良いところも、アラもよーく見えるのだった。

Mさんに丁重にお礼を述べて、本丸へとぶらぶら。例の「十楽」をやっているらしいので、顔を出して見ることに。

この春、神明通りの東邦銀行駐車場で行った規模よりもずっと店の数が増えていた。手作りにしては充分見ごたえがある。主催者の友人によると、全ての店が儲かったという。それもまた何よりだ。

会津米の味噌にぎりを買い、本丸を抜ける。東に向かって歩き出すが、ここから家まではちときつい。

花春ヨークで買い物でもしてタクシーでも呼ぼう、と少々重い足取り。結構暑かったのだ・・・。

花春の手前でちょうど空車のタクシーが来たので買い物せずに、構わず乗り込むことにする。

今日は、はるかな感動と共に、ああ少し、くたびっちゃ!の会津まつり最終日なのでありました。

2014年9月22日 (月)

秋の方程式

今年の会津まつりは(21日~23日)天候に恵まれるようだ。

21日、祭りの初日は提灯行列が行なわれる。で、昼間には、七日町通りでイベントが行われるとのチラシが折り込まれてきた。

阿弥陀寺での慰霊祭、斉藤一を偲び松平の殿様の講演会も行われるとある。また、通りでは様々なイベントも行われるという。

午前中にはS氏の告別式に出た。

昼に戻り、家人とぶらぶらと歩いて七日町へ向かうことにする。秋晴れ、20度前半の気温は歩くには最適だ。

飯盛山から七日町までは4~5㎞と、結構な距離だが一貫して下り、少しも堪えない。

バイパスではなく古い道を通って大町通りに出る。そこを南へ四つ角まで。

途中に「銀座九丁目」という新しい立ち飲み屋さん、最近評判らしい。息子も時々行くという、その店の店構えを眺める。メニュー板が出ていたがまだ準備中、続きの裏手は居酒屋になっているらしい。

昼も大分過ぎたので、お腹も相当減って来た。

坂本乙造商店で漆器のアクセサリーを眺める。来月のフォーラムで招くゲストへのお土産として一点買い求める。荷物になるのは嫌なので包装して預かっておいてくれるようにお願いした。

大町四つ角、新しくできた「ピッツェリア フェリーチェ」。ナポリからわざわざ石窯を取り寄せたというピッツアの店だ。

はす向かいの「ルーチェ」のマスターが開いた店で、案内をもらっていたがなかなか行けずにいた。

店内はお客さんで一杯だが、ちょうどいいのでここでお昼にする。

隣の席に運ばれてきたピッツアを見るとでかい。サラダとデザートまで付いたコースを各自頼んだのではもてあましそうだ。

肉か魚かの一皿が付いたコースを一人前だけ頼んでシェアすることにする。それが2000円だから決して高くない。

店内も賑わっており、大町四つ角を人々が、クルマが行き交う。なかなかいい感じだ。

「ワインを飲んでいいですか?」「どうぞ・・・」

ワインを飲み、パンをかじりピッツアを待つ。なかなかいい感じだ。

焼き上がったピッツアはまさに本格派、パン生地もしっかりしていてチーズもいい、外側がカリ、モチ、ムシャと、なかなかに「ボーノ!」だ。

一皿プラスの鶏肉のクリーム煮もいい味、やっぱり二人でひとつで充分の量だった。

ワインはなんだか店員さんがお代わりを促すので、調子にのって3杯もいただいてしまった。

途中、ルーチェのママさんが、また帰り際にマスターが姿を見かけて挨拶に来てくれた。

さて、七日町へ。

のんびりしていたら殿さまの講演会も間近になってしまった。阿弥陀寺の境内でばったり会った知人とあいさつを交わし、控室の殿様にご挨拶を。

『酒気帯びで御前に出るは不敬罪である!』と、叱られそうだったが、家人が娘の結婚式の際にいただいた祝電のお礼を言いたい、と言うのでご挨拶をさせていただいた。

「なんか一人だけリゾートチックだねぇ」と奉賛会のメンバーの前でからかわれた。

すでに阿弥陀寺の本堂は一杯の聴衆で埋まっている。

我々は七日町駅へ。

売店でY嬢にあいさつし、一杯の水をごちそうになり、ちょうどいい頃合いの周回バス「あかべえ」に乗って飯盛山へと帰ったのである。バス代はお一人210円。

ほどよい疲労感+ワインのほろ酔い+爽やかな秋晴れ=気持ちの良い午睡。という秋の方程式だ。

大人の休日の午後、こんな風に過ごすのも乙なものでありました。

2014年9月20日 (土)

すっぴん

喜多方プラザで華原朋美さんのコンサートを見た。

友人がとってくれたチケットですごくいい席、前から2番目だった。ま、華原朋美と言う顔でもないので少し浮いてた感があったが、復帰以降、以前よりもさらに歌が上手くて結構好きだ。

案の定、抜群の歌唱力で大いに楽しめるコンサートだった。

ちょっと残念だったのはレ・ミゼラブルの「夢破れて」を歌ってくれなかったこと。あの歌を生で聞きたかったなぁ。

手の届きそうなぐらい舞台に近かったので、本当に顔もよく見えたがなかなか美しい。衣装もスタイルも踊りもいい。

コンサートの終盤、ステージ上の画面でスタッフが喜多方ラーメンを食べに行った模様が映し出された。ちょっとした地域サービスで会場もまた大いに盛り上がる。

驚いたのは(私だけかもしれないが・・・)、映し出されるご本人が全くのすっぴんなのだ。

コンサート前にラーメンを食べに行ったのだから当たり前と言えば当たり前だが、ひと昔前は女性はすっぴんを人前にさらさないというのが通り相場だった。

ましてや芸能人ともなればすっぴんなど、まずあり得無いでしょうと言う感じではなかったのかなぁ・・・。

山本富士子さんや美空ひばりさんのすっぴんなど考えられないし、研ナオコさんや八代亜紀さんなど、想像するだけで少し怖い。

それが最近テレビでも、女性がすっぴんです!みたいな映像をよく見る気がする。

「どうせ化粧すればきれいになるんだから、いいのよ」と、女性が素顔に自信を持ちはじめたのだろうか?

ステージ上の朋ちゃんは確かにきれいで、一方、スクリーンに写る朋ちゃんには眉毛がない。

化粧前、化粧後が一度に見られて、ファンもお得って感じなのだろうか?

電車やバスの中で化粧をする女性が一時期話題になったが、本人にしてみればきれいにしてるんだから何がいけないのか分からない、ということなのだろうなきっと。

すっぴんで電車に乗るな、なんて言ったら完全にセクハラだし、女性が人前で化粧するのは、はしたない事だ、と一概に決めつけるのもこのご時世、ちょっとギリギリかもしれない。

圧倒的な歌唱力、すっぴんも見せちゃう飾らない魅力、そのバランスがいいのかな。

会津の朝晩は、もう寒いくらいです。

今朝、試しにストーブを5分ほど点けてみました。

ちょっとホコリをかぶってすっぴんではなかった、ウチのストーブ。

少し臭かった。

2014年9月18日 (木)

白い煙

新幹線が止まるはずのない小山の駅に止まった。

車掌さんが停止信号で臨時停車したと放送。しばらくお待ちくださいと言う。悪い予感。

しばらくすると東京駅のホームで白煙が上がったとのこと、消防隊が駆け付け調査中だという。

これはますますヤバい。消防隊まで出張ってきたらそう簡単には済まないだろう。

新幹線は臨時停車してもドアは開かない。10分経過、20分経過、そして・・・。

会津を出て10時45分ごろには上野着、11時からの幹事会の5分前にはピタリと到着の予定で来た。ピタリ過ぎたかな?もう少し早い電車にすればよかったか・・・・後の祭り。

同じ会議に出る知人からメール、一人は前日に来ており、一人は大宮で足止めという。

やがて車内放送、回復までには時間がかかる見込みなので、ドアを開くからお急ぎの方は在来線にお乗り換えください、と言う。

これはいよいよもってダメだ。

ずっと欠席続きの会津会の幹事会、今回ぐらいは出ないとまずいと万難を排して来たのにこの始末だ。

なんだか最近、こういう目に遭う。

7月だったか、東京からの帰り広田を越えたところまで来て、電車が急停車した。どうやら人が飛び込んだらしい。あの時も、パトカーがやってきて、消防車がどんどん来て、結局2時間ぐらいは止まったままだった。

広田を過ぎているので若松駅は目の前、「おろしてください歩きますから」と言いたかった。

で、新幹線。

仕方がないので在来線に乗り換えて上野に向かう。到着時間は13時と言う。会議の終了時間に近い。ダメだこりゃ。

上野駅に着くころに「もうすぐお開きです」とのメールが入る。

仕方ない、昼飯も食べてないので上野駅で立ち食いの寿司をつまむ。なかなか美味しく、2千円と安い。昼はビールを出さないというのが残念。

お菓子を買ってタクシーに乗り込み、亀戸へ向かう。

会議の後、娘の所によってひと月ぶりに孫の顔を見るのも、今日の楽しみな予定のひとつでもあったのだ。

久しぶりに見る孫は大きくなっているか?

赤ん坊と言うものは育つものだ。久しぶりに見るともうなんだか顔が違って見えた。一回り大きくなった顔がなんだか、他人の様に見えた。

眉毛が少し濃くなり、いかにも男の子らしく「ぶっ」としている。あの細かった手足もパンパンに張っている。

抱き上げると重い。ゆすって声をかけると笑った。それがこの前までの笑い方とは違う。本当に目が見えてしっかり笑っている感じだ。

そうこうしている内に、顔が見慣れた孫の顔に代わって来た。(まさにジジ馬鹿としか言いようがない)

腹の上に乗っけてみたり、うつぶせにしてみたり、ひとしきり遊んで夕方前に上野駅に戻った。新幹線がどうなっているか分からない。おそらくダイヤがメチャクチャだろう。

午前中の払い戻しをして、すぐに乗れる新幹線に飛び乗る。

夕方の磐越西線にうまく接続、なんとか8時前には会津に辿り着いた。

何しに東京に行ったのか分からない1日であった。

ま、しかし、本当は孫の顔を見る方が主で、幹事会が従だったような出張だ。

主たる目的は果たせたということになるのだろうか?

それにしても人騒がせな白い煙だ。本当に煙が上がったのか、原因は何か、さえ全く分からいと言う。

2014年9月16日 (火)

ホールインワン

を、したというわけではない。

ホールインワンをした友人の記念コンペに出たと言うだけだ。

Sくんは、名門の大洗カントリークラブでこの5月に14番ホールだったか(行った事がないので分からないが)海越えの名物ホールで見事ホールインワンをしてしまったのだそうだ。

銀行さんの遠征コンペでの出来事だったので、そのニュースは瞬く間に広がった。

ゴルフをしない人は分からないと思うが、ポーンと打って1回でコロンと入るホールインワンをやらかすと、その人が主催でホールインワンコンペというのを開催する、というルールではないが、暗黙の決まりがある。

そのコンペの規模というものは、少なくても当日同伴した人々やそのグループは招かなくてはならないが、特に決まりはない。

が、コンペを開催すると、本来は祝ってもらえるはずの本人の負担(時間と金銭)は相当なものになるので、ホールインワンをしたら何十万円かが出るゴルファー保険というものがあるわけだ。

Sくんのはとてつもない大きなコンペで驚いた。

もちろん、大洗カントリークラブまで行って開催することはできないので、会津磐梯カントリークラブで行われた。30組120名近い人が参加した一大コンペだ。

さすがSくん、著名人であり、ロータリークラブの将来のガバナー候補と言われるだけのことはある。保険だけではとても賄い切れまい。

当日は快晴、我々はキャディさんも足らないため付かず、気の置けない仲間と楽しいゴルフをワイワイと楽しんだ。で、いつものスコア。

10時半ごろの遅いスタートで表彰式が終わったのは6時を過ぎ、外はすっかり暗くなっていた。

あまりハンディキャップに恵まれず75位、御食事券五千円分をいただきました。

多くの協賛をもらったにしても、持ち出しも半端ではなかったことでしょう・・・。

Sくんおめでとう!

「でも、俺は絶対やんなくていいな!」と心に誓った一日でした。

でも、でも、入っちゃったりしたら飛びあがっちゃうんだろうなぁ・・・・やっぱり。

2014年9月15日 (月)

一周忌

友人の渡部隆巳くんの一周忌が行なわれた。快晴。

奥様とご親戚の方々、友人は私とHくんが参列した。

開け放った本堂は爽やかな秋の空気に満ちている。祭壇中央に人の良さそうな笑顔を見せる隆巳の遺影。

「メチャクチャ人のよさそうな顔しているけど、こんな良いとこばっかりのヤツじゃなかったわよねぇ・・・」と、奥さんが笑う。「そうだ、そうだ!」ともいえず私も笑う。

中学3年の時に作詞作曲した「愛の泉」という曲がトワ・エ・モアのヒット曲になり、有名人になった。

確かに少々鼻もちならないところもあったが、そんな彼と一番親しく飲んだり旅をしたりしたのが私であったことは間違いない。

大学に入った頃には当時の学生では考えられないほど大金の、印税を手にしていたはずだ。

現金でとトヨタにセリカを買いに行って、未成年者のため売ってもらえなかったなどという武勇伝を持っている割には、我々と同じように貧乏くさかったよなぁ・・・。

金の話などしたことはなかったが、すごい残高を持ちながらあんな学生生活を過ごしていたのだとしたら、それはそれで大した奴だ。一時の金に全く溺れなかったということだ。

おごってもらった記憶もないし、同じ様にバイトにも精を出していた。その一方で大学時代に2台の新品のセリカに乗っていた、確かに。

音楽と女の子には湯水のように使っていたのかなぁ・・・が、そうも思えない。

学生時代には考えたこともなかったが、彼の金銭感覚はどうなっていたのだろう?

と、お経の間につまらない事を考えた。

焼香、そしてお墓へお参りをする。

奥さんが東京からネットで探したレストランで食事会。

お母さんのあいさつ。「こどもに先立たれることほど辛い事はない。お盆の13日に片づけをしていたら『隆巳の思い出』という段ボールが突然出てきた。中から隆巳が雑誌に投稿した記事やら、昔の新聞の切り抜きが出てきた。それを読んでいて、隆巳に改めて励まされているような気がしてきました・・・」

それらの記事のコピー、そして一番後ろに8月30日に私が民友新聞の随想に書いたエッセイのコピーも添えて、簡単に製本したものを参加者全員に配ってくれた。

当時の高2コース、高3コース、という学生誌に彼が書いた記事だ。

オートバイで旅した京都、大阪、奈良。旅の相棒はもちろんこの私だ。バイクの前で子犬のようにじゃれあう二人の姿が写っている。

おまけに私が作詞し、彼が作曲した曲の譜面まで載っていた。(顔が赤くなる)

遠い遠い青春の日、イージーライダーやウッドストックに憧れて何度か破天荒な旅をした。

会津からヒッチハイクで大阪まで行った旅。バイクで会津から関西の旅。これは高校生の時だ。

大学時代には京都から長崎までヒッチハイクをしたこともあった。

よく行ったもんだが、親もよく行かせてくれたものだと思う。

「私なんか、帰ってくるまで心配で心配でお茶断ちしてたんだから」と隆巳のお母さんは言った。私の母もきっと同じだったろう・・・。

家に戻り、懐かしいコピーを読みながら一息。

まさに青春時代、あんなことをして、こんな人間になっているのだなぁ、と思うと感慨深い・・・・と思う間もなく寝入っていた。

いつになく深い眠りの午睡であった。

庭に秋風、空が高く吹きぬけて会津はいまだ快晴。

2014年9月12日 (金)

あら、無い!

リオン・ドール、会津に住んでいる人なら知らない人のいないスーパーマーケットだ。

漆器店だった小池商店から、洋品店ライオン堂へ、そして食品スパーリオン・ドールへと、120年にわたる歴史を刻み、創業者である小池家が四代にわたって築き上げてきた名門だ。

会津地方はもとより中通り地方、新潟県と50店舗近い店舗を持ち、ローカルスパーとしては東北でも有数の規模を誇っている。

縁あって先代社長の代からお付き合いをいただいている。現社長の小池氏とも親しくさせてもらっているが、何せ忙しい人なので年に数回顔を合わせる程度だ。

また小池社長には、当財団の評議員もお願いしている。

そのリオン・ドールの業者を集めて行われる「小池会」というのが毎年、秋に開催されている。

大変に大きな規模の会合で今年は600名を優に超える人が集まったそうだ。

この小池会、会場の規模や翌日のゴルフコンペなどの都合もあり、中通りや新潟県の大きなホテルで行われることもあったが、震災以降は復興の意味もあり、会津で行われている。

一日目は東山温泉の一番大きなホテルで会議、懇親会が行われ。二日目のゴルフコンペは地元のゴルフ場2か所をほぼ貸し切りにして行われる。

私もどういう訳か、お招きをいただく。

方針発表会という会議には出ないが、懇親会にはご挨拶かたがた出席させてもらうことにしている。

東山温泉・ホテル東鳳のロビーは大勢の人で溢れていた。

味の素や日清食品、キリンやサントリーなど大手の偉いさんが集っているのだろうが、門外漢なのでまるで知った人がいない。

マスコミ関係者や地元の社長さんなどに懐かしい顔を見出し、久しぶりの再会を喜んだ。

大ホールにはぎちぎちのテーブル。席は中央の2列目と比較的上席で、恐縮。すぐ前のテーブルには御歳89歳の会長さんのお元気な姿が見える。

宴は方針発表会の後ということもあってか、祝辞一名ですぐに乾杯に移った。

これだけの人数が席を立ち、あいさつ周りをし出したら動けなくなってしまうので、すぐに会長さんと奥様には、久しぶりのご挨拶をさせていただいた。喜んでいただいた。

小池社長にも、と思って見ると社長の元には何と百名近い人が長蛇の列で並んでいる。

「すごいもんだなぁ~」と感心しつつ、これはまたの機会にと、諦めた。

宴も進み、いい具合に酔いも回って来た。

多くの人に名刺交換を求められて行うが、まずあんまり縁のない食品関係の方々ばかり、そうだ!先ほど見つけた懐かしいT社長でも誘い出して抜け出そうか・・・・と思いつつ何気なく尻のポケットに手をやると「あら、無い!」

なんと財布がありません。夕方あわてて背広に着替えてきたのであの時に・・・それにしてもだ。

こんなに600人も名士が集まったなかで、1円も持っていないのはおそらく私だけでしょう。

いや、そういえば会長さんも財布を持つのが嫌いだと言っていたから持ってないかもしれない。しかし、それはお付きの人が居てのこと、私は本当にぺロパンだ。(一円もなしってこと)

これは逆に誘われたら困るかも・・・。仕方がないので、頃合いを見て抜け出し、フロントでタクシーをい呼んでもらって我が家へ。

運転手さんにちょっと待ってね、と言って財布を取りに行って無事支払いを済ませました。

中身の多寡はともかく、やっぱり財布がないと困るし、少し焦るものですな。

2014年9月10日 (水)

息子なのよ

ちょっと遅い夜にSさんの奥さんから電話がかかって来た。

もしかして旦那が具合悪くなったりしたか?と、心配したが意外と明るい声。

「まさひろさんの書いた民友新聞の随想を読んで、とても感激したんです」という。

先日、「愛の泉」という題で私の友人、W君の思い出を書いた。中学三年の時に彼は「愛の泉」という曲を作り、トワ・エモ・アというフォークデュオが歌い、スマッシュヒットを飛ばしたのである。

そんな彼の才能と、私との奇妙な友人関係、そして昨年、若くして病気で亡くなったことを書いた。

そのエッセイを読んだS奥さんが、とても印象強く思い、無尽(ご婦人方による)の席上で話題したのだそうだ。無尽仲間の大先輩、W夫人に「あの人は一体どこの方なんでしょうね?」と尋ねたらしい。

すると「あらなんだべー、あれは私の息子なんだから!」と言われてびっくりしたという顛末。

あんまり驚いたので、私に電話をしてみんべ、ということになったらしいのだ。

読んでいただき、お褒めをいただいたことにこちらも感謝、「ちょっと待ってね」と言って電話は、Wのご母堂に代わった。

「私の息子だとは思わなかったんだって。そうだわなぁ、こんなおばあちゃんになっちゃうと息子の話もあんまりしないものねぇ・・・」

割とポピュラーな苗字だったのでなおさらだったのだろう。

あっちのWさんと目の前のWさんが結び付かなかったのだ。

ま、よく一言二言しゃべってみるとみんな知り合いの知り合いで、会津は狭い!という話になるのだが、息子さん、には驚いたらしい。

ご母堂からは12日の一周忌、あの記事をコピーしてみんなに配って良いか?と聞かれた。

60歳で逝った友人の供養の意味も込めて書いた随想だ。もちろん、私に異存はない。

2014年9月 8日 (月)

海を求めて

日曜に会津高等学校の同窓会総会がワシントンホテルで開かれた。

それに先立ち午前10時30分より、母校・会津高校にある「やすらぎの碑」の前で、この一年間の物故者、恩師、生徒合わせて70名を越える方々が新たに名簿に記載され、その遺徳を偲んで献花が行なわれた。

13時30分からの総会は、事前の幹事会で慎重にもまれたこともあって順調に進み特別講演会へと次第は進んだ。

今年の特別講演は高校14回卒の平山誠一さんによる講演「近代日本を支えた山国・会津の船乗りたち」という大変に興味深いお話であった。

平山先輩は、東京商船大学を卒業後、大手船舶会社の機関士として世界の海を駆けまわられた。

退職後、日本の近代海運史を研究され、特に会津の先人達がその歴史に燦然と輝く功績を残されたことを発掘された方である。

およそ90分の講演は、まったく初めて耳にする事柄ばかり、我が身の不勉強を恥じるばかりであった。

会津には海がない、山国ゆえに独自の文化が花開いた、と言われるが、幕末の会津はそのことに甘んじて居たわけではないことを初めて知った。

北前船など海運による交易は莫大な富をもたらす。東北の雄藩で唯一港をもたない会津藩が港を持つことに力を注いだのは当然と言えば当然だったのかもしれない。

京都守護職という大役を引き受ける一方で、信濃川河口に、また新潟港そのものを領地に編入しようと様々な働きかけを行ったというのだ。

海に憧れたのはあの坂本竜馬だけではなかった。幕末の会津藩士たちも、すでに世界の潮流を知り、海を求めていたのである。

戊辰戦争の敗北により、会津藩は下北の地・斗南藩に移り藩士とその家族たちは塗炭の苦しみを味わう。挙藩流罪ともいえるような厳しい処分であった。

この時、会津藩にとって選択肢は二つあった。猪苗代の地を選ぶか、はたまた下北の地を選ぶかである。

私自身、そうだと信じて疑わなかったように、会津で発行されている数多くの書物には、次のようなことが書かれている。

『会津松平家の再興を第一とし、明治新政府の印象を良くするため敢えて最北の下北の地を選び恭順の姿勢を貫いた』と。

しかし、平山氏はそればかりではなく、山川大蔵以下、若き会津藩士たちは下北に海を求めたのだ!と話された。

猪苗代の地で細々と生きるのではなく、下北には海がある。そこに港を築き、船を求め交易によって活路を開き、会津藩の再興・再建を目指したのだという。

まさに目からうろこのお話だった。

新政府のご機嫌をうかがって自ら厳しい道を選んだ、などというのはもっともらしい話だが、考えてみれば敗者の論理でしかない。

ズタボロに負けた会津ではあったが、当時の指導者たち、若きリーダーたちは下をばかりを向いていたのではなかった。

すぐに上を向き、前を向いて会津藩の生きる道を探り続けていたのである。

現実に会津藩は船舶を発注し、下北の地で船乗りの養成に乗り出したのである。

残念ながらこの構想が実を結ぶまでには至らなかったが、こうした土壌の中から、日本の近代海運史を支えた、レジェンドと言われる優秀な船乗りたちが何人も誕生している。

彼らの経歴を記せば、元・市中二番隊や朱雀隊など、まさに戊辰戦争を戦った戦士たちだったのである。

戊辰の会津を語る時に「愚直」という言葉がよくつかわれる。愚直なまでの一途さを貫き義を守り通した会津・・・それも確かに一面である。

しかし実のところ、会津の若者たちは、進取の気性に富み、不屈の精神力を持ち、時にしたたかに、革新的に生きた!のである。

これからを生きる若い世代にはそのことこそ、語り継がなければならない教訓であり、悲劇に満ちた戊辰史の中の光なのではなかろうか?

と、この歳になって、痛く目を覚まされたような素晴らしい講演会であった。

平山先輩、ありがとうございました。

勉強の上、いずれ何かの形で私なりにこのことを表現し、残したいと思った素晴らしい、未知のネタでありました。

2014年9月 6日 (土)

で、北の旅人3

会津からの一行と会津松平家十四代ご家族を乗せたバスは、札幌市琴似から小樽を越えて余市へと向かった。

あいにくの雨である。

小樽運河付近を走り抜けるが、平日のせいもあってか観光客の姿もまばらである。

余市は斗南藩へ移った会津藩士たちの中から、さらに北を目指した人々およそ七百人の藩士とその家族が移り住んだ土地である。

北を目指したと言っても、明確な目標があったわけではない。ひたすら生きるために必死で向かった未踏の地だ。

この土地で会津の人々はリンゴの栽培を手掛ける。日本最初のリンゴ栽培が行われた土地と言われている。

そこに植えられたリンゴの品種が「緋の衣」、赤く酸っぱいリンゴの実が会津の人々の命をつないだのである。

余市と言えばもう一つ有名なのがニッカウィスキー発祥の地、余市工場だ。竹鶴政孝とその妻リタの物語は、「花子とアン」の次の朝ドラ「マッサン」で描かれることになっている。

それを受けて余市は今、大いに盛り上がっているのである。

余市町長さん、商工会議所会頭さん、県人会の方々など、多くの人がニッカの余市工場で我々を迎えてくれた。

駆け足で工場見学を済ませて、レストランで昼食を取りながらの交流会。

美味しいお弁当に、「竹鶴17年」の水割り付き、また「いくらでもどうぞ!」と出されたすり鉢にはイクラが山盛りだった。さすが余市、さすが北海道だ!

あのイクラはうまかった。箸では食べずらかったので、よっぽどスプーンを貸してください、と言おうと思ったが、皆さんお行儀が良い、十五代もいることだしさすがに遠慮した。

が、竹鶴の方は「味を確かめたいので」と方便を言ってストレートで、もう一杯いただいた。

多少慌ただしい昼食を終え、会津藩士の眠る慰霊碑へ。神式での祈りをささげ、吉田農園に残る最古の1本、「緋の衣」の原木を見学に行く。

もうすでに百年を優に超える老木、リンゴの木の寿命はほぼ人間と一緒と言われるらしいから百歳万歳だ。

太い幹は空洞になり大きな穴があいている。にもかかわらず枝が四方に伸び、青く小さなリンゴがしっかりと実を付けていた。

この木の子孫が会津に根付き、実を付けた話題は新聞でご覧になった方も少なくないだろう。

最後に、会津藩士入植の碑に向かい、その前でみんなで記念撮影をし、千歳空港へと向かった。

かなりタイトなスケジュールだったが、予定の行事をすべて無事に終了。商工会議所担当者の方々本当にご苦労様でした!

遠い遠い北の大地・・・政変、戦争によって会津の人々が塗炭の苦しみを味わった土地。

人は皆、それぞれの場所で懸命に生きるのみ。生きて生きて、その足跡が歴史となる。

なにが起こっても時の流れだけは決して止まることはない、このちっぽけな身もその流れの中の一滴、ひたすらに今を懸命に、楽しんで生きるのみだ。

北海道の雨は一層激しく、高速道路は水煙り先が見えない。

走行注意で一路会津へ。

2014年9月 5日 (金)

北の旅人2

10時過ぎに福島空港を飛び立ち、午後1時頃には札幌の地に。ジンギスカンの名店「だるま」は、夕方からの営業だ。

そこはサッポロビール園でしょう!とつ込まれるのを承知で地の利を優先し、キリンビール園でジンギスカンを食す。

飲み放題1250円、中ジョッキ3倍で元が取れる分は全員がクリア、腹も充分に膨れ、昼酒の心地よさに酔いしれる。

大通り公園などを散策。軽い観光と買い物タイム。

一休みし、夜の宴会には会津松平家十四代・保久さまご家族(奥様と十五代)、そして会議で小樽へ向かった会津若松商工会議所会頭さま以下3名と合流することになる。ここから総勢13名。

札幌駅前「かに本家」でそれなりのカニづくしコースを堪能、宴は和やかに盛り上がる。名店らしいが、あのコースで1万円は「?」な内容だった。

明朝8時半の集合を約し散会。

我々のホテルがすすきのにあるため、直帰はいささか不可能な立地条件。あっちに引っかかり、こっちに首を突っ込んだりしつつ、上がりの味噌ラーメン、人気の「けやき」に並ぼうとするが、その列の長さに仰天、敗北。

最後はラーメン横丁で大外れの味噌ラーメンを食べてしまった。

翌朝、琴似神社へ。

あいにくの小雨模様だ。屯田兵会、県人会の方々が迎えてくださる。

祭礼前に神社脇に保存されている屯田兵屋の建物を見学する。雨風はしのげるものの質素な板木の壁だ。こんな建物で本当に越冬本当に出来たのか?地獄の様につらい冬だったに違いない。

本殿での神事は実に厳かに挙行された。

宮司様と4人の禰宜、巫女、雅楽の調べも生演奏で、神聖な空気の中、霊域に神を迎える。

神殿祭奥の扉の前に宮司様がぬかずき、静かに押し開く。

「ギギ、ギギギーッ、ウグギーギ!!」と木の扉が開く際にもの凄い音がした。まるで効果音でも仕込んであるのかと思うような大きな音だ。

ご低頭を命じられていたが、思わず頭をあげて見てしまった。扉の開く音にいかにも神様がおわすような気持ちになる。供物が一杯に供えられた神殿、奥に鏡のようなものは見えなかった。

各団体からの奉納や巫女舞などが行われ、およそ1時間の神事が終了した。

最後に宮司の菅原正文氏のお言葉があった。特に会津松平家を迎え、20年前の合祀の際の思い出を語られた。

その時、全くの晴天がにわかにかき曇り豪雨となったそうだ。夜のご神霊の渡御は停電となり、暗闇の中で行われ、渡御が済んだとたんに一斉に明かりがともったことなど、大変に印象深い事であった思い出などをお話になった。

今日も雨はシトシトと本殿を濡らす。

その後の予定が詰まっていたため、社務所で慌ただしく屯田兵会、県人会の方々や宮司様とごあいさつを交わし、急ぐ失礼を詫びて一同バスに乗り込む。

この後、余市へと向かうことになっている。

前日とはうって変わった慌ただしさ・・・とはいえ、私は言われるままについて行くだけですが、なかなかの良い経験でございます。

2014年9月 4日 (木)

北の旅人

北海道札幌の琴似神社の例大祭に行ってきた。

なんだその神社?と思われる方も多いかと思うが、実のところ私も最近まであまりよく知らなかった。

琴似という場所は、明治8年に北海道開拓使によって初めて屯田兵村がつくられた地だ。

明治政府は北の守りと開拓、そして旧士族の救済を兼ねて「屯田兵」を募った。

当時は何もない広大な琴似の大地に240戸の屯田兵屋がにわかに建てられたのである。

この厳しい兵役に応募してきたのは、ほとんどが賊軍となり虐げられてきた旧士族の家族たちだった。

仙台の亘里藩、庄内藩、そして会津から斗南に移った会津藩士も50家族を越える人々がこの地に入植している。

入植の最大の動機は、飢え死にせずに済む、ことだったと言うから斗南での暮らしがいかに過酷だったか想像できるだろう。簡易な宿舎と米の支給は約束された。

その屯田兵の人々によって創建されたのが琴似神社だ。天照大神ほか各地ゆかりの霊神が祀られてきた。

当然ながら会津の神様も祀られてきたはずだったのだが正式な記録がなく、今から20年前の平成6年、琴似神社御鎮座百二十年を機に会津藩祖保科正之公・土津(はにつ)霊神が猪苗代の土津神社から分祀され、正式に合祀されたのである。

それから20年目の記念すべき年に、保科公の末裔である会津松平家十四代・松平保久さまが、お参りするということで今回の訪問が決まった。

随行の会津松平家奉賛会メンバー7名の一人として参加した、というわけだ。

ま、札幌だしうまいものも一杯ある、と軽い気持ちで参加したわけだが、機内で古い資料を読み進むうちにちょっとびっくり。

20年前の合祀の際に会津から琴似神社を訪れたのは、史談会から佐藤芳巳氏、高久浩氏、保松会から鈴木善九郎氏、林俊氏、弔霊義会から大堀三男氏、会津葵会から竹田正夫氏と記されている。もちろん、十三代の松平保定さまも東京から起こしになっている。

あらま、お父ちゃん!20年前の合祀の際には、なんと父が来ていたのである。

その息子がろくに知りもしないで北の大地へ。これも何かの縁なのでしょうか・・・ジンギスカンのお導き??

そんなことはないでしょうが、ちょっと真面目に気を引き締めて例大祭に臨まねば、という気持ちになったのでありました。

2014年9月 1日 (月)

哀しいウソ

福島県が双葉町、大熊町の中間貯蔵施設の建設を受け入れたという。

大熊町の人々の多くが会津若松市に住み、仮役場もあるのだから他人事ではない。確実に、もう30年は戻れません、というのが決まったということだ。

受け入れの条件には30年以内に県外に最終処分施設を作り、全てを福島県から持ち出すのだという。

誰がこんなことを確約できるのか知りたいものだが、国も県もその通りにします、させますと堂々とテレビカメラの前で約束をしているのだ。

福島県を遠く離れた震災がれきの焼却すら認めてくれるところが無い。

たとえ放射線量がゼロだと言っても猛烈な反対運動が起こる。それが現実。それを見てきた。

それなのに一体誰が最終処分場などを引き受けると言うのだろう・・・。

それを言っちゃあお仕舞いだよ、の政治の(大人の)世界なのだろうか・・・。

守られるはずもない確約。

『ゆびきりげんまん、ウソついた頃には、誰も生きちゃいないから平~気!』という哀しいウソだ。(と、私は思います)

地面の中の水を凍らせて地下水を閉じ込める。出来そうもないけれど出来ると言う。

会津盆地に雨が降る。こんな風に会津盆地中の地べたをチョロっとでもぬらすことなんて人間の力ではとっても出来やしない。

ヘリコプターを何百台用意して水を撒いたって、チャポンとも言わない。嗚呼、それなのに、それなのに・・・だ。

放射線量が高いのでこの地域は未来永劫入れないようにします、と希望と絶望をしっかりと分けることこそ為政者の役目ではないのだろうか。

希望色の絶望ドロップをいつまでもいつまでも舐めさせられ、ひたすら記憶が薄れていくのを待つのは、とても酷な事のように思える。

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