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2014年7月

2014年7月29日 (火)

ウソをつく

こんなことを書くと大ブーイングを浴びるかもしれないが、W杯を見ていてつくづく感じたのは、サッカーってウソをつくスポーツだなぁ・・・ってことだ。

後ろから当たられたり、ボールに向かって交差したりすると、もの凄く大げさに転ぶ。ファールをもらいに行くというやつだ。

本当に痛い場合も、ひどいファールももちろんあるが、スローモーションでみると大体の場合、おおげさにウソをつく。

ペナルティエリア内などではPKになって1点取れるかどうかが、かかっているんだから上手にウソをつくのも大切なことだ。

もちろん、シュミレーションなどウソを罰するファールもあるが、審判の目をいかに欺くかが腕と言えば腕なのだ。

少年サッカーの頃から、上手な転び方、ファールに見える転び方など、やはり学ぶのだろう。

サッカーだけに限らない、一般的に審判がいるスポーツはどんなものでも大体はウソをつく。

バレーボールが指先に触れたかどうかなど、本人は絶対に分かっているわけだが、審判が触っていないと言えば触っていないことになるのだから、「触ってなんかいませんよ」と触った本人が主張する。

ウソをつくわけだ。

「なんで正直にそんなこと言うんだ、黙ってれば分からないんだから・・・」ぐらいのことは指導者も言ってしまう、と元・先生だった友人もそう言っていた。

そこが武道や審判の居ないゴルフなどとは全く違うところだ。

相撲は物言いがついても、じっと待っているだけだ。柔道や剣道にしても本人はなんのアピールもしない。

ゴルフはセルフジャッジだが、ウソがバレたら競技失格だ。

いやいや、悪いとかどうとか言おうというわけじゃない。

審判が居ることで成立しているスポーツは、時にはスポーツマンシップに則ってウソをつくということだ。だから面白いという一面もある。

ま、ウソと言ってはいけないのか?シラを切るでも変だし、ばっくれる、でも品がない。

いずれウソはいけないと教わるのだけれども、人間、時にはつかなければならないウソもあるということ・・・そんな大層な話でもないか?

ウソなしで会津も梅雨が明けたようです。

2014年7月27日 (日)

Y塾

私の同級生で友人にYくんという男がいる。

同じ京都で学生時代を過ごしたが、京都に居る時は一度も会ったことはない。

彼は天下の京大生で、私は京都大学・神山分校(と言うと京都に住む人ならだれでもが笑う大学)の学生だった。

京都大学には従兄弟もいたし、吉田山辺りのロック喫茶やジャズ喫茶、超治外法権の吉田寮、ロックや前衛演劇の巣窟だった京大西部講堂などにもよく通ったがYくんと遭遇することはなかった。

彼と一気に親しくなったのは、会津に戻ってきてからのこと。飲み屋の炉端での喧々諤々が最初だ。

なにせ博識な男で、どんな話題についても実によく語る。

確か元々は農学部だったと思うので、植物や自然などは当然だろうが、歴史、文化、民俗、政治、経済、スポーツ、とありとあらゆる方面の知識に精通しており、洞察力も鋭い。

いわゆる雑学博士というのとは全くレベルが違う。真の博識・博学なのだ。

そう、外見的にはあの「ひょっこりひょうたん島」に登場した、博士くんにそっくりだ。

しいて弱いところを上げれば、芸能、ファッション、恋愛問題辺りだろうか・・・。

若くして市役所に入り、当然のように頭角を現し、市長(当時)の懐刀としてその鋭い切れ味が注目された。

私などは「役人がそんなに舌鋒鋭く、剥き身を突き付けるような態度で大丈夫なのかよ?」と、思ったりしたものだったが、案の定、ところどころで足を引っかけられたり、敵も出来たりしたようではある。(よくは知らないが・・・)

その内に役所の枠を飛び出し、産・学・官を上手に結び付けるような仕事をし、その取り組みは極めて先進的で、全国的にも注目を浴びた。

が、モノの本質をズバリと見抜くくせに、いたずらに人を信用し過ぎることが仇となってか・・・還暦を前に下野することとなってしまった。

そんな彼の才を惜しみ教えを請う人間も少なくはなく、とても暇にはして居られなかった彼だったが、大きな不幸に襲われた。

最愛の奥様が交通事故で亡くなられたのである。

会津若松市のど真ん中に、父親から受け継いだ大きな家で、彼はポツンと一人になってしまった。植物とメダカに囲まれて悲しみを友として過ごす日々・・・。

友人として何の力にもなれないが、結局のところ彼を慰め励ましてくれたのは、やはり彼自身の知性と教養であったようだ。

特に造詣の深い中国史や中国の故事、詩、芸術などが、彼を支え、励ましてくれたであろうことは想像に難くない。

そんな彼が、私塾の様な格好で若者の指導を行うようになった。

教える内容は一応マネジメントについてだが、彼の講義がその範疇ににとどまることはないだろうと思う。(想像だが)

半年をかけて何人かの若者がY家を訪れ学んだ。

昼食を望めば先生自ら厨房に立ち、昼食をふるまう。午後の時間いっぱいを使って学ぶ。終了後には、時に酒を飲み語り合う、その酒肴も全て先生の手作りだ。

受講料は束脩(そくしゅう)と言うのだから、まさに中国の仙人の域だ。

今時、束脩などと言う言葉を聞いたこともないが、いわゆる教えを請う側の気持ち、先生宅に不足の野菜や酢・味噌などを持ち寄る、というあれだ。

およそ半年をかけての学びの場、縁あって我が愚息も参加させていただいた。

中身についてはあまり話してはくれないが、大いに楽しく、有意義な時間を過ごしたようだ。

人を教え、育むことに力を注ぎ、世間一般の俗欲からは超越したような日々を送るYくん。メルマガをはじめ様々な場所での執筆も近頃一層盛んであり、この夏は猛暑の中国にも足を運ぶという。

まさに「先生」「大人」と呼ばれるにふさわしいような生き方、惰弱な私の眼にはとてもまぶしく映る。

幕末、数多くの才を花開かせた、ひとつの奇跡「松下村塾」。Y塾も案外歴史に名を刻む、そんな梁山泊になったりして・・・。

ま、とりあえず、かの松陰さんと苗字は一緒です。

2014年7月22日 (火)

考えさせられたこと

ベネッセの個人情報流出事件は、個人情報保護の責任者をしている身としてはとても他人事とは思えない。

ましてや、新たにイベント系の情報流出も確認され、カード情報などのセンシティブな情報の流失までも危惧されるという事態になっており、事は一層深刻さを増している。

今回の事件では、ここまででも考えさせられる点がいくつかある。

ひとつは、通信教育などを手掛けるベネッセの生命線とも言える最も重要な個人情報の管理を、社内ではなく外注に託していたという点だ。

その会社にとって最も大事なものを社員が管理しないでどうするの?という訳だが、こういうケースは多い。

お金の管理を外注するなんて話は聞いたことはないが、「データ管理」などと名前を変えると、それがいかに大切なものでも業務の効率化・合理化のためには外注もありです、みたいな感じになるから不思議なものだ。

商売の肝である個人情報の管理を、自社への忠誠心も愛着もない誰かに託す。

そしてその誰かは、何の疑いもなく下請けを使い、孫請け、ひ孫請けまで、これは良い仕事!として流れていく。

その下流域では、元々どんな看板を背負った情報だったのかさえ、どうでもよくなってしまうわけだ。

気をつけよう!

もうひとつ怖いのは、スマートフォンだ。今回の事件もスマートフォンを介して盗み出された。

もはやスマートフォン=携帯電話ではない。スマートフォンという名の万能PCと言っていい。

カメラやビデオカメラ、録音機など情報記録媒体の持ち込みには神経質でも、スマフォならOK、みたいなところがある。これは今回の事件に限らず、どこにでも潜んでいるリスクだ。

もう一度よーく考え、見直そう!

そしてもう一つ考えさせられたのは、プロの経営者という存在だ。

あの高名なH氏は、マックのアップルコンピュータに続きマクドナルド、と素晴らしい業績を残したプロの経営者であり、昨今このプロの経営者と言うのがやたら脚光を浴びている。

しかし、今回の事件に対するリスクマネジメントには「?」が付く。

危機に立った時に本当の技量が試されると言っては言いすぎかもしれないが、プロの経営者と言うものの限界が示されたのかもしれない。

まず一発目で「自社の社員が起こしたことではない、センシティブ情報は漏れていない」と言い切った。まだ充分な調査を終えてもいないのに。もしそれが間違っていたら直一層の大事になるのは明白だ。

ついで「一人500円と言うような保証をしても問題の解決にはならない」と金銭的な解決を取らないと匂わせたこと。

あれはコンビニなどで行ったお詫び商品券をイメージしたのだろうけれど、ベネッセからのこどもの情報の流失、と言う事の重大さを認識できなかった、と言われても仕方がない。

そしてその先は、あれほどの人でも???と首をかしげざるを得ない言葉、「200億円を原資として保証します」だ。

どれだけの質と量の情報が流失したのか確定も出来ていないのに金額だけ決めるなんて、経営者ではなくてもおかしいと思うはずだけれど、言ってしまった。

まるで200億円払いますから許してね、とでも言うように。

大変な金額を軽く、エラそうにポンと言うところも、とても好感は持たれない。「大したもんだなし、なんだって儲かっていらんだなし」と庶民は嫌味の一つも吐きたくなる。

そして事態悪化と共に姿を見せなくなる。Hさんでさえそうなんだ!

個人情報の流出ですごく印象に残っているのはジャパネットたかた、の場合だ。

あの名物社長は、お詫びと共に即刻ジャパネットたかたの営業を停止した。個人情報保護の万全な体制がとれるまでは会社は営業をしないとしたのだ。

何でも打っている店が何も売らなくなるのだから、その損害たるやいかばかりか?でもすっぱりと売るのを止めた。

高田社長は、これで廃業も覚悟したという。

その内に、「何でも売っているジャパネットたかたがないとやっぱり不便だー」という消費者の声に押されるようにして営業を再開、謝罪だけではなく、万全の社内体制を築くことをお詫びとして、危機を乗り越えた。

ああいう判断がプロの経営者に果たしてできるのだろうか・・・?

自分の会社、俺の会社だからやりたいようにやる、という乱暴さ(?)がなければ即断即決は難しいだろう。

全てを天秤にかけて最良の道を選択すれば最良の結果が得られるかと言えば、そうは限らない。

利益を上げ、会社を大きくすることだけが経営と言うものでもないだろう。

特に、我々のような医療や介護といった業界で経営のプロが跋扈するようになれば、ろくなことにはならないような気もする。

ま、もっとも素人でもろくなことをしない人は、山ほど居るわけだけれど・・・。

会津は梅雨明け間近、なような気がします。

2014年7月19日 (土)

企業城下町

会津若松市は城下町だが、地域経済の面においては富士通という名の企業城下町であった。

富士通の主力工場の誘致に成功し、一時は四千名を越える社員を抱え、関連も含めると、まさに地域の経済の肝を握っていたと言える。

それが次第に縮小し、身売りをし、このほど富士通が半導体部門から完全撤退するのを受けて、七百人余りが働く会津工場も売却されることになったと大きく報じられた。

富士通が半導体部門から撤退ってどういうこと?と思ってしまうが、それほど時代は変わったということだ。

富士通が半導体をやめるというのはラーメン屋さんがラーメンを作らない、見たいな話に聞こえるのだが、もはや、そっちではなくIT関連のソフト開発やシステム開発で生きていく会社になっているのだということだ。

当院にも電子カルテ部門の開発、管理に富士通のSEさんが数多く出入りしている。

昨晩、タクシーに乗ったらその話題。

「昔は、富士通様様だったもなし。駅に降りるとみんなタクシーに乗って、出張員はどこまでだってタクシー、街でも毎日宴会があったべし。近頃は週末は賑やかだけど、平日はさっぱりだからし・・・」

一番良かった時のことを言っているのだろうけれど、まさに隔世の感だ。

裕福な四千人とその家族、地域経済を支えていたことは間違いない。

なんだかアベノミクスの経済効果もテレビの中だけの話の様で、地方にまではチャプチャプと寄せるさざ波も感じられないように思える。

そこに追い打ちをかけるようなこのニュース、大変だよね、会津若松!

すでに工場の一部は介護施設や野菜工場に姿を変えている。

やはり「健康・教育・環境」・・・これから人々が惜しみなくお金を使う分野はここだ。

そして大企業の傘下に安住する企業城下町ではなく、「十楽」のように自由な発想と各個のひい出た能力で、次々と起業家たちが活躍するような、そんな名鄙・会津若松を目指していかなくてはいけないということだ。

城下町というものは時が流れればいつの日か落城の時を迎え、辛酸をなめなければならないものなのですなぁ。

嗚呼、私の城下町!

2014年7月18日 (金)

即泣き

医局の納涼会は毎年、萬花楼の庭で行われる。少々天気が怪しくても、ちゃんと運動会の本部席のようなしっかりしたテントが張られるので大丈夫だ。

研修医の一期生はこの日本庭園の池に飛び込み大ひんしゅくを買ったが、そんな無茶をする若い衆は近頃めっきり減った。

その一期生の中で、I先生は現在も当院に残り、中堅として素晴らしい仕事をしてくれている。

そのI先生の嬉しいニュースを、かなり遅れて、最近聞いた。

年の初めに赤ちゃんが出来たというのだ。元気な男の子だという。

割と早く結婚したI先生、奥様もドクターで仲睦まじい夫婦だ。

すぐに赤ちゃんを授かったのだが、残念なことになったと聞いていた。

その後、あんなにこどもが好きな先生なのに赤ちゃんは難しい、というような風の噂を耳にしていたので、心を痛めていた。

あれから6,7年は経ったと思う。

そこに突然の吉報、実に嬉しかった。

先日、京都に行った折に、四条の高島屋で「京都ならではの素敵なベビー服をちょうだい!」と言ったら「そういうものはございません」と言われて、ちょっとがっかり。

会津に戻り、出来るだけ上等なのを探して心ばかりの祝いに、おめでとうのメッセージを添えて渡した。

で、昨日の納涼会の席だ。I先生がわざわざこどもの顔を見せに、奥様共々、連れて来てくれたのだ。

だっこしているRくんはもうすぐ6ヶ月、こんなにおっきいんだと感心、足もボンレスハムの様にパンパンだ。お洒落なストローハットをかぶりお父さんに甘えてる。

お二人にお祝を述べて、いざご対面!

「ほら!」とお父さんが顔を向かせる、私と眼と眼が合ったそのとたん「わーん!」と泣き出し、顔はしわくちゃ、目の周りがみるみる真っ赤になった。

「あーれ、泣かした、泣かした!悪いんだ、悪いんだ!」と、みんなに囃された。

ま、こういう経験は一般の人よりもかなり多くしているので慣れっこではあるのだが、あんな風に絵に描いたように泣かれると、さすがに少々バツが悪い。

普通は「どぉれ、だっこさせてみ?」といって手を出すと泣き出す、というパターンなのだが、Rくん、あれはちょっと早すぎだったよ・・・。

おかげで、君の泣いた顔しか見れなかったよ。ま、今後、時どきは会えるだろうからね。

本当に、私に顔を見せにだけ連れて来てくれたようで、奥様と赤ちゃんはすぐに帰って行きました。

納涼会は恒例の焼き肉、途中かなりの雨が降ったけれどテントの中、濡れずにみんな大盛り上がり。

涼しい、涼しい納涼の一夜でありました。

Rくん、元気に元気に育つんだよ。I先生、本当におめでとう!

2014年7月15日 (火)

やるかやらないか。

消費税というものが導入されようとしていた時、「3%ぐらいの消費税というのは仕方がないのかなぁ・・・」と言ったらO先輩に懇々と諭されたことがある。

3%とか5%とかいう問題ではなく、新たに消費税という徴税の仕組みを作りましょう、というのが問題なんだよ。とOさんは言った。

仕組みが出来れば3%が5%になり10%になるのは目に見えている。

ないものを作る、ダメなものを良いとする、仕組みの変更が問題であって、一度出来てしまえば、その仕組みの中がどんどん変わっていくのは当たり前のことなんだ。

なるほど、と思った。

新たな仕組みを作りたい方は、当初は出来るだけハードルを下げてくる。このくらいの負担は負わなければならないでしょう。このくらいの痛みは伴うものです、と。

消費税はまもなく10%になろうとしている。導入時の3倍だ。

国の税制が厳しければ与党はもちろん、たとえ野党が政権を取ったとしても税率を上げようとすることは、民主党政権下で実証済みだ。

問題は初めの一歩、やるかやらないかだ。

集団的自衛権もそうだろう。

こんなことはできない、あんなことまではしない、戦争に突き進むなんてありえない、とは言う。

しかし、この国の存続に甚大な影響を及ぼす事態に対してはやる!ということは言いかえればいざとなればなんだってできる、と同じことなのだ。

一度外れたタガはどんどん広がっていく、そういうものなのだ。

世界は平和を希求しながらも、うねる大波のように至る所で戦争を繰り返す。

まるで魚が海から出て生きることが出来ないように、人間は戦争のある世界から抜け出すことはできないようにさえ思える。

独裁者はミサイルを打ち、覇権主義が領土を拡大しようとする。人々を幸福に導くはずの宗教が聖戦という名で血を求め合い、二千年たっても全く衰えることのない憎しみの炎は燃え盛ったままだ。

会津の山々はどこまでも青く、盆地一杯の稲はすくすくと育っている。

このとてつもなく平和に見える日々。

これを守るためにはどんな犠牲だって払わなくてはいけない・・・・だからね。

テレビニュースのスイッチを入れると、まるで堂々巡りの迷路に立たされているような気分になってしまう。

2014年7月11日 (金)

日に日に

赤ん坊の成長も、夏場のキュウリみたいに目に見えて分かるものだ。

ベビーベッドの上で寝ている姿が一回り大きくなった。

黒い髪の毛がふさふさ、これが将来隔世遺伝して、私と似た道を辿らないことを祈るばかりだ。

近頃の粉ミルクは、粉ではない。キューブ状になっていて20cc分づつポキッと、折って哺乳瓶に入れて溶かす。粉も飛び散ることなく、計り間違いもなく簡単だ。

実によく溶ける。

それを知らずにきれいに溶かそうと、思いっきりシェイクしたらミルクが吹き出し、泡だらけになって怒られた。

時代とともにいろいろなものが変わる。そして情報が誠に豊富だ。豊富すぎて逆に、情報に振り回されなければいいがなぁ、と思っている。

この、日に日に変わりゆく姿を見ていると、改めて一日という時間がどれほど貴重で、掛け替えのないものかを教えられるような気がする。

目を覚ませば泣いて、足や手をバタバタ。

夏空を必死で蹴り上げながら、1分1秒、時々刻々と身体の中や頭の中の回線がつながって行くのだろう。

これが365日も経てば立って、ある程度の言語も理解するようになるのだからすごい高性能な生き物だ。

高性能ゆえに、どんな生き物よりも成長するまでに手間はかかる。仕方がない、お母ちゃん頑張れ!

日に日に成長していく赤ちゃんを抱く、ジジ&ババは日に日に衰えていくばかり?上り坂と下り坂の出会い、とは口が悪い。なんの、なんのまだまだそんなこと言ってらんにぇがらし!

かけがえのない時間を、垂れ流ししてはいけない!と、改めて気合いを込めて言ってみるが、どこか少し空気が抜けてるような気がするのは、私だけだろうか?

先日、義母が来て曾孫を初めて抱いた。御歳86歳、曾祖父、曾祖母では、家人のお母さんが一人残るだけだ。

ひ孫を抱くひいばあちゃん、二人足しても年齢が増えない。

会津は台風から離れていたにもかかわらず、大雨の被害が出た。磐越西線の新潟方面が崩れて不通。幸い、人命にかかわる被害は報じられていない。

被災された大勢のみなさんに心よりお見舞い申し上げます。

2014年7月 7日 (月)

涙の訳

♪教えて欲しいの涙の訳を~♪黛ジュン「夕月」 古ーっ!

涙は人の心を波立たせるものだが、どっちらけの涙というのもあるもんだ。あの号泣議員さん、どうでもいいけど基本的に犯罪でしょう。

行ってもいない出張旅費で税金をだまし取る、使ってもいない郵券代で税金をだまし取る、泣いてる場合じゃないと思いますけどね。

泣きたいのは県民、国民です。

それにしても世の中には信じられないような人がいるものです。ああいう人が県議会議員として当選してしまうのだから信じがたい。

ナントカ維新の会の名前につられて多くの人が間違って投票してしまったのだとすれば、そっからが詐欺ですね。

あれでお縄にならないのだったら、ちとおかしい。

「涙は心の汗だ!」と森田健作氏は言ったが、あれはさしずめ心の尿漏れですな。

巨大台風発生、まずいよー。

会津への影響は?いつ来るの?

今度の日曜は準備を重ねてきた「捨松杯」が行われる予定。W杯には負けるとも劣るけれど、心温まる小さなコンペ。

何といってもあの山川捨松さんの曾孫にあたる、久野明子さんがメインホステスのコンペなのです。

前日には会津稽古堂で歴史講演会も開催されます。私はいろいろと幹事役、友人のA氏が手伝ってくれます。

少し忙しい週末になりそうです。

台風の直撃で残念な悔し涙が一筋こぼれた、なんてことにならないと良いのですが・・・祈ってます。

2014年7月 6日 (日)

金毘羅ふねふね

朝一に学会発表を行った職員が放射線科と検査科の2名。そして午後の2名の発表までは大分時間が開く。

学会場を少し離れ、折角なのでH先生と金毘羅様にお参りすることにした。

二人ともに初めて。

琴平電鉄の始発駅・高松築港から終点の琴電琴平まで62分だ。「ことでん」の愛称で知られる電車は二両、途中、田園地帯を結構なスピードで走る。上下の揺れもすごく「脱線するんじゃね?」と思うほど、ちょっと怖かった。

金毘羅様の参道は、夏休みを前にまだ観光客の数もまばらだ。古びた店舗も多く、ここも適度に寂れているんだろうなぁ、と拝察された。

気温は30度手前、この時期の四国にしては至って涼しいといっていいだろう。会津と変わらない感じだ。

とはいえあの有名な石段を登らなければならない。本殿まで785段だから、会津の飯盛山を5回ぐらい登る勘定だ。どう考えても汗だくでしょう・・・。

コンビニでタオルを買ってきたが、日差しも強いので帽子が要る。

参道入り口の店にはそんな人を目当てに麦わら帽など、いろんな帽子が並んでいたが、H先生は迷わず船頭さんのかぶる三角の笠を選んだ。これがまたよく似合う。

私は浮世絵のプリントされた手拭いを1本、帽子代わりにすっぽりかぶる。手拭いかぶりは阿波踊り以来、手慣れたもんだ。

二人とも半袖のYシャツにスラックス、比較的歩き易くはあるが革靴だ。これはいたしかたない。

土産店で竹の杖を借りる。本当は1本二百円だが帰りに何か買ってくれれば無料でいい、という。いずれにせよ杖は必須アイテムのひとつ、絶対に借りた方がいい。

登り口に、よくテレビで見るカゴ屋さんがいた。横向きにかついで登ってくれる。

ちょうどよくオバさん二人が出発するところだった。片道が5300円、それでも半分までしか登れない。その先は聖域でカゴの商売はできないのだそうだ。往復で1万円ぐらいの割引料金だが、結構お高い。

二人で担ぎ上げる。ずっしりと重そうだ。時々、踊り場でぐるりと回って左右交代、かなり肩に負担がかかるのだろう。

担ぎ手はいい歳したオジサンだ。初めは面白がって眺めていたが、なんだか痛々しくなって、脇の土産物屋を冷やかして距離をあけた。

お土産物屋さんが並ぶ参道は石段もなだらか、少し登ると踊り場がある。

お土産物屋さんが途切れるといよいよ本格的な石段になる。ドーンと長く、角度もそれまでよりは急になる。

ちょうど半分の山門まで来ると、もう汗が吹き出している。

伝統の飴を売る売り子さんが3人。味見を勧めてくれる。暑い!とはいっても木陰を吹きぬける風は芯に冷たさを感じるほど、このぐらいならまだ天国、良い風が抜ける。

いよいよ佳境、ここが本殿かと思う手前に大きな拝殿がある。ここまでくればもう一息か?

思わず座ってひと休み。ふもとで買った水も、もうほとんど残っていない。

参道の両脇には寄進者の石碑がズラリと並ぶ、さすがに船会社、水運関係の会社が目立つ。

最後の直登はかなり急、785段を登り終えて、ようやく本殿だ。

見晴らし台からは讃岐富士が正面に見えた。眼下に広がる讃岐平野(?)ところどころにため池も見える。これが弘法大師が歩いた風景だ!と、勝手に感じ入る。

木陰を渡る風が涼しく、一気に汗もひいて行くような感じだ。

本殿の右手奥には、まだ登りの石段が見える。ここからさらに奥の院まで、ほぼこの倍の距離なんだそうだ。

元気の良い若者たちが笑いながら下って来た・・・それを見たH先生「ま、今日のところはここまでで勘弁してやんべ!」無論、同感だ。

お札と幸運のお守りを買い求め、例の唄を口ずさんでみる。

「金比羅ふねふね…お池にハマってさぁ大変!」じゃなくて、何だっけ???

2014年7月 4日 (金)

うどん県に来た。

京都から高松へ。なんとなく瀬戸内海を越えればすぐかな?ぐらいのイメージで居たが思いのほか遠かった。

高速バスで3時間40分、かなりひどい雨の中を走る。

「日本病院学会」への参加。いろいろ興味深い講演やWSもあるが、特に当院から発表する5名の応援に駆けつける、というわけだ。

会津を遠く離れて心細いか、羽根を伸ばしているか?

いずれにしても初日の晩にはみんなで集まり食事をして労をねぎらうのが恒例となっている。

高松と言えば学生時代に一人旅をした時以来だから、実に40年近くぶりになる。

あの時どこを歩いたのかもよく覚えていないが、なんやらバスや電車を乗り継ぎ、夏の盛りに何軒かでうどんを食べて、その安さとうまさに驚いたことだけはうっすらと覚えている。

雨の中、高松駅のバスターミナルへ到着。

昼過ぎで、腹の減り具合もちょうどいい。駅前にいかにも地元の人に愛されているという感じの、いい具合に古びたうどん屋を発見、すぐに飛びこむ。

讃岐のうどん屋はチェーン店の丸亀うどんと、こぎれいと雑然の差はあるものの、どこもシステムは同じだ。

カウンターの向こう側に店の人がいて、こっち側は注文をして、具を選び、自分なりのお好みのうどんにして、お金を払う。

で、しいて言えば、雑然とした、イスやテーブルもしょぼい店ほど、総じてうまいのだ。

運んで、食べて、片づけるのはお客さんの仕事、昔も確かにそうだった。だから安い、合理的。

奥で頑固そうな親父がうどんを打っている。大釜の前にはおばちゃんが2,3人「何にしましょ?」と言われて、すぐには答えられない。

地元の人は、二言三言でパッパとうどんが出来て、さっさと食べる。

まずうどんの玉のサイズを言い、かけにするか、ぶっかけにするか、釜上げにするか、熱いか冷たいかだ。

そこにてんぷらや油揚げや玉子などをトッピングし、どんぶり一杯の刻んだ青ネギ、おろし生姜など、これらは好きなだけお好みでだ。

冷ぶっかけに温泉卵を乗せて、イナリを添えて470円。なかなかのコシ、歯ごたえ、つゆもしっかりした味、天かすが効いて、お・い・し・い!

さすがうどん県だ。1泊2日だが3回は食べたい。

病院学会は日本各地で開かれるが、出来るだけその土地土地の名物を食べて乾杯をすることにしている。

讃岐と言えば何といってもうどんになる。一人千円もあれば腹いっぱいになるが、まさかうどん、というわけにもいかないだろう。

そこはしっかり、良い店を見つけておいたからせいぜい発表、頑張りたまえよ諸君!

びっくりがひとつ。

元気のいいおばちゃんが一人、入って来た。で、店中に響き渡るような大きな声で「ざるそばあるかー?」と言ったのだ。

何だこのおばちゃん、うどん県でケンカ売ってるのか?と思ったら、「あるでー、これで最後やわ」というではないか!

へえー、讃岐のうどん屋にあるんだ、ざるそば!ちょっとびっくり、おばちゃん平然。

2014年7月 3日 (木)

お立ち寄り京都

今年は当院の創業者・秀一先生の50回忌にあたる。父も間もなく20回忌、初孫も無事に産まれた事だし、様々な感謝の気持ちを込めて門徒として、東本願寺にお参りしよう、と高松出張の前に京都に立ち寄ることにした。

14時過ぎに京都着、7月の京都にしては涼しい。

本願寺の修復工事はまだまだ続いている。山門が大きな天蓋に覆われている。

本堂の大屋根は終わったようで天蓋が外れていた。が、西側の一帯が巨大な天蓋に覆われ、本願寺全体の威容を見ることが出来るのはまだまだ先の様だ。

平日なので人影は少ない。見かける人の半分以上が欧米人だ。

社務所でご寄進を済ませ、本堂にお参りする。

何百畳敷きなのだろう?本当に広い。ガードマンさんがたった一人、小さな子供が機関銃を持って駆け回っていた。

ゆっくりお参りを済ませると、記念のお香などをいただき、お孫さんのお祝いです、と小さな念珠までいただいた。

タクシーで移動。四条の高島屋で、ようやく赤ちゃんを授かった若い医師への祝いの品を探すが、京都ならではなどと言うのはなく、ありきたりのものしかない。

買って荷物にしてまで持ち歩くこともなかろうと、またにする。

河原町通りを北へとぶらぶら。上着を脱いでコロコロを引きずりながらでも歩けるのだから涼しい。変わっているようであまり変わらない街並みだ。

蛸薬師当たりの小路に大黒屋の赤い提灯を見つける。学生時代によく足を運んだ蕎麦屋だ。

もう夕方も近い。店内には老夫婦がひと組いるだけだ。

まずはキンと冷えたキンシ正宗の純米酒と板わさをいただく。

猛烈な勢いで音を立てて天婦羅を食べるおじいさん、目の前では物静かなおばあさんがゆっくりと箸を動かしている

「ほうら、コップを置く時はもっと静かにおいてくださいな」おばあさんの優しい声が響く。おじいさん無言でムシャムシャ、二人は会話しない。

ほんのりとした空気の中、よく冷えた酒が美味い。あっという間に一合が空き、ざるを頼む。昔のままの懐かしい味だ。

そばは会津の方がずっと上等だが、大黒屋のそばはのど越しが良い。タレはごく濃厚で甘い。

昔はざるに必ず玉子丼をつけたが、時間も時間だしやめて置く。懐かしい美味。

御池通りのホテルにチェックイン、一息つくと、18時には旧友が迎えの車を回してくれた。

祇園の「山里」でゆっくりと食事と酒を楽しみ、三条のバー「サンボア」へ。板前さんもバーテンダーさんもそれなりに歳を取った。

「もう十回ぐらいしかないんだよ、こうして飲めるのは!」と友は盛んに残り少ない人生だ、と嘆く。

こうして酒を酌み交わす機会が十回ということはないだろうと思うが、京都にもう十回来るだろうか?と問われれば、「そうだよなぁ~」という気分になる。

何事につけて、これから先の回数よりも残りの数から数えた方がリアリティがあるから困ったもんだ。あと何回・・・・。

おいおい、バカなこと言ってんじゃねぇよ!と、毒づいてみるがなんだか酒も回る。こちらも少々弱くなってきたような・・・・。

肝胆相照らす仲、大いに楽しい酒ではあったけれども、ちょっぴり淋しい風を残して、京都の夜はふけて行くのでありました。

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