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2012年3月

2012年3月31日 (土)

八重さんのこと

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」に寄せる地元の期待は日に日に高まりを見せ、過熱気味だ。この大河ドラマを起爆剤として、原発事故以来の風評被害を一気に吹き飛ばそうと、観光関係者を中心に地元のマグマは沸々と、大きく成長を続けている。

これまであまりスポットライトの当たらなかった八重さんが果たしてどのように描かれるのか?綾瀬はるかさん演じる八重さんはどんなハンサムウーマンぶりを見せるのか?興味は尽きない。

盲目の兄・山本覚馬は誰がやるんだろう?新島襄はやっぱりオダギリ・ジョーかな?などとまだ発表されていない役者陣も気になる。周りをどんな役者が固めるかによってドラマの重みも、人気も変わってしまう。

NHK大河ドラマは、今の日本最高のスタッフで製作されると言っていい。それだけに多分に先進的で実験的な試みもなされている。俳優や監督だけではなく、美術や衣装、音楽など全てにおいて日本の超一流陣が取り組んでいるのだ。

龍馬の衣装にジーンズの生地を使ってみたり、カメラワークが斬新だったり、ハイビジョンのきれいな画面を映画フィルムで撮影したように加工してみたり。存分に新しく実験的な事をやっているのだ。

それをどう感じるかは見る人それぞれだが、予算の潤沢なNHKならではの試みであり、日本の若きクリエータを育成するという面でも一役買っているわけで、いい事だと思う。

「画面が汚い!」などとケチをつけられる事もあるが、全く気にする必要はないと思う。視聴率という手痛い評価も受けるが、そればかり気にして大衆に媚びるような番組だけを作っていたら、公共放送の名折れだ。

ここは思う存分、新しく斬新な八重さんを作り上げて欲しいと願う。

望むらくは・・・震災の復興を後押しするためのドラマなのだから、観た人に明るい気持ちが湧きあがるような内容に。また会津へ、そしてまた東北へと心も足も向いてくれるような魅力的な描き方であって欲しい、ということだけだ。

昨晩、漫画家の松尾しよりさんを囲んで会津清酒を飲む会があった。松尾さんは現在女性誌に「清らに たかく」というタイトルで山本八重の物語を連載中だ。

昨年話題となった「永遠のはじめ~会津酒蔵物語~」の終了後、テーマを他に移す予定だったが会津へのこだわり捨て難く、大河に先駆けて山本八重さんを取り上げることになったと聞く。

地元の有志が集い、とにかく松尾さん、頑張れー!と盛り上げた。(スミマセンまだ読んでもいないのに)

名倉山、末廣、栄川、地酒がたっぷり入って最後は駄じゃれ合戦のようになってしまったが、思いはひとつだ。

「松尾さん、会津大好きでありがとうね。これからも思う存分良い作品を描いてください!そして八重さんの漫画売れると良いなぁ」・・・だ。

2012年3月29日 (木)

身の処し方

「百歳万歳」というNHKの番組があって、時々、早朝に見たりする。(そういえば最近見ていない・・・)全国の百歳になった元気なお年寄りを紹介している番組だ。

歳のとり方、老け方は人によって大きく差がある。最近流行りのアンチエイジングだ。信じられないほど若い百歳も登場する。

これもNHKの受け売りだが、長寿遺伝子であるサーチュインという遺伝子に活性化のスウィッチが入っている人は、いつまでも若く老化が非常に遅いらしい。

そしてその遺伝子にスウィッチを入れる方法のひとつは、科学的に証明されているというのだ。(スゴイ!)

それは低カロリー食の継続だ。粗食で野菜ばっかり食べてるような食事を続ければ自然にスウィッチが入るというのだ。

しかし、それは相当に難しい。私の場合不可能に近い。ダイエットに似ているがちょっと違う。コンニャクでごまかしたりするのではなくて、身体の飢餓状態を継続させるとスウィッチが入るというのだから、辛い。

それは大変なのでなんとか簡単にスウィッチが入らないものか?と考えて発見されたのがレスベラトロールという物質、まだクスリではなくてサプリメントだが、それが有効らしい。

クスリではないので本当に効くかどうか?確かな効果が治験成績として認められるには至っていないが、若返りのサプリメントとして今、結構なブームになっている。

実は私もテレビを見て、取り寄せて飲んでいる(ミーハーだ)。まぁ・・・・・・・目立った効果は今のところない。(値段もピンきり、それもあるのかも)

でも、これはその前からなのだが、老けた見かけの割にはよく見るとお肌がツルツルだ、とか言われる。言い換えれば、肌のきれいなお年寄りに見えると言う事だ。

しかし、実際のところお年寄りと呼ぶにはまだ少しはある。なのに肌の艶々したお年寄りに見える、では褒められているのか、バカにされているのか分らないではないか?

そうだ。

そもそも、若返りの事を書こうとしたのではなくて、たとえ若く見えても歳は歳、年齢を考えた身の処し方が大切なのではないか、という事を書こうとしたのだった!

日野原先生みたいに生きてしゃべって動いて見せて、数多くの人々に勇気と希望を与えられるという、生き神様の様な人は例外中の例外だ。

やっぱりある程度のところで引退し、後進に道を譲るのは大事だ。歳をとったなら歳をとったなりに後は悠々と、好好爺・好好婆として生きる方が素晴らしい。

私の父は、80歳でGパンを履いてバイクに乗っていたが、80歳になったら一切の公職や多くの会の名誉会長など、すべてから身を引いた。

理由は、これ以上老いぼれると自分が老いぼれた事に気付かなくなるから。それと元気な内に身を引かないと結局どこかで迷惑をかけることになるから、というものだった。なかなかの心掛けだと今になって感心している。(私は70歳でもいいと思っているが)

このところいくつかの会合で「御大、大老、ご隠居、ご老公」などと呼ばれる大先輩の、かなりお疲れになった姿を見て、いささか考えさせられるところがあったので書いてみた。

今日の会津には春が来ている。

10℃近くはいくだろう。が、これもつかの間、週末には崩れてまた寒気が…などと言っている。老いぼれた冬将軍様もそろそろ身の処し方を考えられた方が良いのではないかと思う。

2012年3月27日 (火)

いつまでも

朝起きて真っ白になった庭に驚いた。20センチほどの雪が積もっている。

ここに来てこの雪か・・・おまけに寒い。コーヒーカップを両手で抱える。

会津の山々も朝日を浴びて真っ白に輝いている。超まぶしい。

このまま陽が高くなればあっと言う間に融けてしまうのだろうけれども、もう四月も目の前だ。いい加減、冬気分とはお別れしたい。

今年は冬タイヤを替えた、とか、そろそろ替える、などという話をさっぱり耳にしない。とてもまだまだ替える雰囲気ではない。

確かに積もってもすぐには消えるだろうけれど、時折、吹雪になったりする。会津盆地を一歩出て山間に入ればまだまだ深い雪だ。普通タイヤではいつ何時何が起こるか分らない。

先日、サウナで耳をそばだてて聞いた世間話によると、農作業の遅れも深刻らしい。桜も相当遅れGWになってちょうどいいか?という声も聞かれた。

また、高速道路の無料化終了は極めて評判が悪い。会津に居る多くの大熊の人たちはどうなるんだ?と気遣う声。また、料金取られたら会津観光に来る人なの、いなぐなっちまうべ!という心配もあった。

高速道路のサービスエリアのゴミ箱に福島県の野菜や米が箱ごと捨ててあるなんて言う話も聞いた。親戚にもらった手前返せないが、放射能が嫌なので途中のインターで捨てて行くのだと言う、悲しい話だ。

こんな風に大衆浴場に行くと、世間の空気が良く分かる。政治家の先生方にもぜひお勧めしたいものだ。

時になかなか笑えるオヤジギャグもある。この間、笑った訛りオヤジギャグ。

「あら会長さん、久しぶりだごど」「いやー、いづまでも寒ぐってまいったなぁ」「まったぐだ、津軽会長冬景色だべ!」

2012年3月26日 (月)

会津会

日曜、東京上野精養軒で行われた会津会創立百周年に出席した。(地元会津の幹事を仰せつかっている。)

東京も肌寒い。上野の森を歩く人もほとんどがダウン姿だ。桜の蕾もまだまだ固い。

会津会は明治45年(1912)4月20日に、小石川の松平邸で行われた会津人春季懇親会の席上発議され、百四十余名全員の賛同で設立された。

もともと旧藩主と旧藩士たちの絆を保ち、その結束を固める事を目的としていた。もちろん、現在では旧藩士子孫のみならず広く会津出身者で構成されている訳だが、先人供養に重きを置くなど、一般の県人会や同郷の会とはいささか趣を異にしている。

規約第一条には「同郷人の親愛を篤うし、その団結を強固にする」とあるが、その背後には「戊辰戦争で敗れて散り散りとなった・・・」の一文が透けて見える。

この百年の中で会津会の成し遂げた大きな仕事のひとつに会津学生寮(至善寮)の開設がある。

学問を志す郷土の子弟を援けるために設立された会津寮は現在も文京区にあり、月5万円に満たない費用で住居はもちろん食事まで付いて、会津の学生を支えている。

次代を担う会津の若者に、より良い教育を施し郷土会津の再興を期す!ここにも戊辰戦争以来の会津復興の精神が貫かれていると言ってよい。

今回、百周年の会の運営を陰で支えた若者たちはすべて、この会津寮の寮生たちである。

記念講演会では松本健一氏が「近代日本をつくった会津の人々」と題し講演。会津人気質の中に貫かれた正義と教育の精神について説いた。

記念式典では御歳九十歳を迎えられる川島広守会長が式辞を述べ、「愚直」と「忍耐」について語った。

不器用であっても真っ直ぐに、いかなる時も忍耐力をもって困難を乗り越えていく、それこそが会津人である。いつの世においてもそういう会津人たれ!と自らの人生に重ねて熱く語られた。

祝辞のトップは当然ながら会津松平家十四代当主・松平保久様という事になる。ついで知事、市長と続く・・・。

会津人とは何か?会津人の矜持とは?郷土愛と共にそうした精神世界が会場に満ちる。

会津会の最後は決まって全員で踊る会津磐梯山の盆踊りである。

三百数十名で踊る会津磐梯山、さぞかし賑やかであった事と思うが会の進行も押し、新幹線の時間に間に合わなくなってしまっため、後ろ髪をひかれる思いで会場を後にした。

春寒の東京の宵、会津会の弥栄を心に念じつつ・・・・。

2012年3月24日 (土)

青春の滑走路

別れの酒はいつもちょっぴり苦い。

今年も8人の若者が巣立って行った。1次会の卒業パーティはちょっとお洒落にお城端のレストラン「ラシーヌ」で。

2次会は(この日小学校の卒業式と重なったため場所探しに難儀)、寿司屋の2階座敷となった。

その寿司屋でもしたたかに飲み、12時を過ぎていい加減に終わりです!と追い出されて、お決まりの小さなスナックになだれ込んだ。

店に入るなり大合唱、踊るわ、飛び跳ねるわで、1組いた客はすぐに退散。貸し切り状態と相成った。

若いから体力もある、別れたくない想いもある。宴は尽きることなく、私は午前2時前に、遂にドロップアウトした。

若者たちの母親代わり(失礼、お姉さんか?)のU嬢もこの日ばかりは、頑として帰らないという。きっと嬉しくて仕方がないんだろう。笑って、歌って何度も泣いた。

ボスや上司たちも離れ難い気持ちが募る。これから先、ここからが本当に人生は大変なのだ。

繰り返す乾杯は、ひたすら君たちの無事と幸多からんことを祈ってのもの。

ビール、日本酒、ウィスキー、焼酎、そんなに飲まなくてもいいのに何を飲んでもいつもよりちょっぴり苦い。

かの野口英世博士がそうであったように、この会津若松での修行の日々は、まさに君たちの青春の滑走路だ。ここから助走をつけて大空へと飛び立つ青春の滑走路、さぁ、思うがまま望むところへ飛び立っていけばいい!

でも、この滑走路の事、決して忘れるな!とは言わないけれど時々は思い出して欲しい。

そして出来得れば、疲れた羽を休めるもよし、新たな英気を充電するもよし、なんでもいいからたまに戻って顔を見せて欲しいと願う。

二日酔い確実であろう全参加者の健康と幸せを祈りつつ、今一度、乾杯ー!

2012年3月23日 (金)

種を蒔く

前・福島県知事の佐藤栄佐久さんのお話を聞く機会があった。この人がもし知事を続けていたなら、あの原発事故は起こらなかったのではないかと言われる人だ。

原発に常に疑問の目を向け続けたために、国策捜査で談合事件に巻き込まれ知事の座を追われたとも言われている。

東大法学部卒、日本JCから政界に入り、参議院議員1期の後に福島県知事を5期務め、当年とって72歳になられる。

頭の中に話したい事が詰まり過ぎているのだろう。お歳のせいか多少話はあちこちに飛び飛びで進んだが、日本の原子力行政の闇の深さは良く分った。

1954年に動きだした原子力行政は、「夢のエネルギー、地方振興、絶対安全」の名のもとにみるみる巨大化し、コントロールの効かない『原子力帝国』へと育っていってしまう。

原発推進の前には民主主義も沈黙、補助金漬けにされた原発立地の自治体が監視をしたり、モノ申せる処などどこにもない。実際には国民の声の届かないところで原子力政策は進んできたのだ。

国が全責任を負う、と言う名のもとに自民も民主もこぞって推進し歯止めがかかることはない。原子力保安院や安全委員会など組織は複雑化したものの、結局は推進するためだけに機能するようになって行ってしまう。

絶対に事故は起こらない、たとえ起こっても多重防護で絶対に大丈夫!という幻想の元に真の安全性は置き去りにされた。

あの事故の時も国から県、そして自治体へと情報は蛇行しながら下りて来た。すぐに逃げ出さなければならない立地町村が一番目ではなく、最後にテレビで事態を知るというお粗末さ、全く逆だ。

結局、この世に「絶対なんかない!」と言う事だけを福島県民は思い知らされることになった。

放射能拡散予測の「スピィーディ」のデータさえも隠され、結局人々は放射能の来る方に逃げた事になる。それが現実だった。

原子力帝国がここに至るまでにはいくつかのターニングポイントがあったという。しかし、反原発勢力はことごとく排除され、原子力の安全神話だけが国民に刷り込まれて来た。

「そんな備えまでしたら天文学的なお金がかかってしまうじゃないか!」原子力安全委員長は堂々と知事にそう答えたそうである。だからこそ栄佐久さんは東電に逆らった。

お金がかかり過ぎるからといって安全性が置き去りにされたのだから、起こるべくして起こったとしか言いようがない。

もうひとつ驚いたのはあのチェルノブイリの事故発生時にロシアの内部で行われた議論の議事録が公文書としてしっかりと残されていた事だ。

その中には当然ながら、爆発事故を隠せとか、情報を流すな、という生々しい声もある。それでも社会主義国のロシアでさえ、ちゃんと議事録が残され現在では公開されているのだ。

一方、民主国家・日本ではこの国難に対処したやり取りの記録が一切ないという。これでは独裁国家よりもお粗末と言われても仕方がないだろう。

栄佐久さんが言ったように日本はもはや三流国家なのかもしれない。いや、残念ながらそうなのだろう。

だからこそこの際、もう一度荒れた畑を耕し丁寧に種を蒔くように、一から人づくりを始めなければならないのだと思う。(その前に良い子をいっぱい産むのも大切だ)

そうした先の長い、地道な努力を今ここで惜しめば未来はますます先細りになって行くに違いない。

会津藩校日新館に学んだ先人達が国敗れた会津の復興を成し遂げたように、日本が戦後の焼け野原から立ち上がった様に、結局最後は人に尽きるのだから・・・。

2012年3月22日 (木)

郡山から

モノの値段というのは分らないものだ。

この春から息子が戻ってくる。会津で働き暮らすにはどうしてもクルマが必要になる。そこで最初はどうせぶつけるだろうし何でもいいから中古の軽自動車を、と思って聞いてみた。

軽自動車なら2~30万円も出せば上等だろうと思ったが、とんでもない話だった。

営業くんが言うには「ちゃんとお奨めできるクラスだと100万円ぐらいは・・・」という。「100万も出すなら新車買えるじゃん?」という話だが、マジだ。

震災以来、軽自動車または1000cc程度のコンパクトカーが人気で品薄、かなり値段が高いらしい。

営業くんの最初の提案、9年落ちの軽自動車、4WDだけれどなんと39万円もする。乗るには50万円近くかかってしまう。

普通の乗用車に9年乗ったら下取りはタダだ。それなのに・・・。

大きいクルマで安いのはいくらでもあるらしい。30~50万円程度でクラウンでもシーマだってある。デカブツの低燃費は敬遠されていると言う。(ちょっぴり自分の事を言われているような気がして面白くなかった)

要するに需要と供給の関係なのだ。

そんな訳で、えー!と驚いているばかりでなかなか適当なクルマが見つからない。

30万円も出せばすぐに見つかる、と思っていた認識を新たにせねばならなかった。おまけに春という時期も悪い。みんながクルマを欲しがる季節で、相場が一番高いらしい。

そんな時に郡山に住む姪がクルマを買い替えると言う話が聞こえてきた。

まもなく目出度く二人目が誕生する。そうなるとコンパクトカーでは狭い。じいちゃん、ばあちゃんみんなで乗れる車が必要なので買い替えると言うのだ。

下取り価格を聞いて迷わず買い取ることにした。年式や走行距離を調べてもネットの相場よりは3~4割方は安い。

ま、こんな風になんとなくちょうどいい事は起こるものだ。

思えば私の初めてのクルマも郡山の義兄のお下がりだった。(懐かしい黄色いシビック)その娘のお下がりに我が息子が乗る。これも何かの縁かもしれない。

会津は昨日も吹雪いたがさすがに積雪までには至らない。もう普通タイヤに取り替えてもいい時期だ。

クルマにとってタイヤは肝だ。タイヤだけは新品に履き替えてもらうことにして、この週末に家人と行って引き取って来る予定だ。

姪は、先週、元気な男の子を産んだ。出産の祝いも添えなければならないだろう・・・。

2012年3月20日 (火)

再開、再会

冬眠から醒めて、ゴルフを再開した。「N先生のさよならコンペ」

那須方面のゴルフ場、戦略性に富んだ山岳コース、と言えば聞こえはいいが要は狭くて、凄くトリッキーで、やっちゃぐねぇほど嫌いなタイプのコースだった。

スコアは相変わらずだった。しばらく休んでいたので相当に退化したかと思ったが、そうでもなかった。もっともこれ以上は下手になりようがない、という話もある。

氷点下5度の会津を出て、どれほど寒いか!と覚悟したが、陽射しは穏やか風もなく絶好のコンディションだった。ゆうに1ヶ月ぐらいは季節が進んでいる感じだ。

バスに乗って移動、行きも帰りも小宴会状態で、ゴルフというスポーツに向き合う真摯な態度のかけらもない。ま、N先生と楽しくやって、お別れするのが目的だから今日はご勘弁だ。

夕方、会津若松市に戻り居酒屋で表彰式&送別会を行った。みんなが一言づつ送別の言葉を贈り、N先生の豪快なショットを惜しんだ。

週末には会津を離れて西国に移るN先生。ゴルフの楽しさはおまけとして、仕事では大変にお世話になった、その功績や大である。心から感謝!

諸国を打ち歩いたN先生は会津磐梯カントリークラブの大ファンとなった。これほど面白くて、何度やっても飽きないゴルフ場というのはめったにない、とよく口にしていた。

昨日は、ビールも入った親睦コンペとはいえ、本人としては非常に不本意な成績であった。この夏には何としても磐梯へ仇討ちに舞い戻ると宣言、よっぽど悔しかったのだろう。

悔しさがあるうちは伸びる、と言われる。(悔しくないから私はダメなのだ)

仕事の方も伸びシロ一杯の熱血漢で、男っぽさムンムンのN先生、西国でのご活躍を心からお祈りいたします。

その内、必ず行きますのでどこぞや西国のフェアウェイで再会を果たしましょう!

ありがとうございました。

2012年3月19日 (月)

渋滞政治

消費税の増税議論が盛んだ。

確か最初は3%、それが5%になり、今度は10%になっても足りなくて、とどのつまりは一体何%まで行くのやら・・・。

昔、消費税の導入が盛んに議論された頃、3%だ、5%だ、いや8%だなどと言っていた時に先輩のOさんはこう言った。

「何%だからいいと言う目くらまし的な議論は意味がない。消費税というシステムを導入するかどうかが問題なんだ。たとえ1%でも一旦導入されたら、それが5%になり8%になり、15%にでもなる。何%だったらいい消費税なんてないんだ。やるかやらないかだ」まさにその通り。そうなっている。

どうせ上がるのなら税率はさておき、中身をどうするかをもう一度議論して欲しいと思う。たとえ10%でも食料品は非課税にするとか、そういう中身の修正をだ。

この際、消費税を上げるしかない、と言う事はもうほとんどの国民が覚悟している。

調査の方法にもよるが国民の半数以上は消費税やむなしと言う数字も出ている。それなのに政治の側が一向にまとまらない。これまた不思議な話だ。

増税は最も難しい政治課題、それがとられる方が大方あきらめかけていて、こんなチャンスはないのにとる方が話をまとめたくないようにも見える。

消費税をネタにして政局を作ろうという魂胆が交錯している。

解散に追い込む、政界再編、はたまた誰かさんの無罪判決が出るまで引き延ばしてグチャグチャにしてしまおう、などという話まで聞こえてくると、心底嫌になる。

世界に冠たる日本の社会保障制度を守るためには、多少の負担や犠牲はやむを得ないところだ。そんな事は分り切っている。

もっとチャンチャン、とやって欲しいのだ。話をごちゃごちゃにしないでスパッとやってもらいたい、それで上がるなら上がるで仕方なかんべさ!という気持ちだ。

もういい加減にして欲しい。何も進まない渋滞政治、それも一定方向にクルマが詰まっているならまだましだが、スクランブル交差点にぐちゃぐちゃに入り込んでしまった大渋滞。まさに八方ふさがりで整理が付かない。

マスコミや評論家の話もいい加減聞き厭きた。だって何ひとつ進まないのだもの。

『もういいから、早く消費税上げて次に行ぐべ!次に!』と、言いたくもなる。

こんな風に大渋滞を続けていると、いい加減ぶちギレル輩が出て来るに違いない。それかあきらめムードで倦怠感だけが漂い、自殺の方向に向かうのか・・・。

このままでは、もっともっと悪い方に行ってしまうのではないだろうか?

お彼岸の会津、今年の彼岸獅子は寒そうで、可哀想です。

2012年3月16日 (金)

I can speak・・・

会津大学は建学以来、学内の公用語は英語という事になっている。教授陣の半数が外国人で、当初はロシアからの先生が大勢いた。

英語しか話せない先生が大勢いるわけだから当然授業は英語でやるしかない。英語が分らなければ授業がチンプンカンプンという事になる。

教授会も英語で、中には英語ではどうも、という教授もおり、こちらは同時通訳が付いていたらしいがその費用も膨大、もう装置も壊れたという風の噂もある。果たして今も全部英語でやっているのだろうか?

近頃、楽天やユニクロなど社内の公用語を英語と定める会社も現れている。相手にするマーケットが世界なのだから英語という道具が使いこなせないのでは話にならないと言う事なのだろう。

会議や打ち合わせもすべて英語、だが、これが案外いいそうだ。

英語の特性として主語がしっかりしているし、YESかNOかも明確だ。要するにまぁまぁなどという中途半端な事がないから議論にはむしろ向いているし、時間も短縮で来て効率的なのだと言う。

やはり、これからの子どもたちは英語が必須だろう。さらに中国語のトリプルリンガルだったら最高の武器を持っていると言えるかもしれない。

ただ英語をペラペラと喋るとすごく頭が良いように思うが、たとえ英語がしゃべれてもおバカはやっぱりおバカなのだ。それを忘れてはいけない。

外人がみんな紳士でエリートなわけではない。

昔こんな経験がある。

欧米人はいつも陽気に明るく話すように思うが、やはり中には上がり症の外国人だっている。あるスピーチの時に上がってしまってガタガタ震えだした御婦人を見てとっても意外に思った事がある。

また、マイクを握り締めて歌いだした黒人がえらく音痴だった時も結構、驚いた。

それは足の遅い黒人だっているだろうし、暗いイタリア人だって、優柔不断なドイツ人だっているだろう・・・。

で、何を言いたいかと言うと・・・・やっぱり英語がペラペラ話せればいいなぁということである。

最近、オランダ人教授の講演を聞いてあらためて感じた。

「Thank you so much. I can speak Japanese only, sometimes AIZUBEN. Sorry・・・・日本語で質問させてくなんしょ・・・・」

それじゃダメじゃん!(・・;)

2012年3月15日 (木)

大人の流儀

機会があって、中学時代の同級生と飲んだ。昔から超ケンカっ早くて体育会系、タイプは全く違うのだがなんだか妙にウマが合った。ケンカを続けて今では本当の格闘家の師範になってしまった。大したもんだ。

彼を含め4人で飲み、後半一人増えた。

皆、変わっていないはずはないのだが、話している内に15の頃に気持ちが戻り、3年3組のあの教室が思い出される。まるで別人のような風貌なのにあんまり変わっていないなぁ、と思えるから不思議だ。

様々な思い出、懐かしい名前が次々と出る。以来40数年だ。すでに鬼籍に入った同級生もいる。それぞれの道を歩み、それぞれにいろいろあって今に至る。それだけで慶事と言えよう。

あの頃のように先生や同級生を肴にし、ブルマーやラブレターのバカ話をし、大いに笑って握手をして別れた。

遠いあの日・・・なぜか胸がちょっぴり切なくなる。

昔を懐かしみ、思い出を語り合うには大人としてひとつの流儀が必要だ。

それはお互いに今を深く詮索しない事。今どうしてるの?仕事は?家族は?住まいは?矢継ぎ早に質問を投げかける人がいる。それは慎むべきだろう。

互いに自ら話す範囲で知ればいい。長い空白の時間を質問攻めにして埋めようとすることほど愚かな事はない。

あの頃15の無邪気な背中に、今では皆それぞれに重い荷物を背負って生きている。この会津盆地の中でみな懸命に生きている。

それでも「オゥ!」のひと言であの頃に帰れるからこそ素晴らしいのだ。懐かしんで、バカ笑いして、心が和んで、別れればそれだけでいい。

乾杯!からあっと言う間に4時間が過ぎた。走馬灯はぐるぐると回り酔いも回る、腹の底から笑えた一瞬、温かいひと時だった。

友よ、またいつの日か会おう!

2012年3月13日 (火)

そろそろ

三月半ばだと言うのに朝からちらちらと雪が舞っている。名残り雪・・・なんていう風情ではない。細かい冬の雪だ。

それでも確実に朝は早く白むようになり、夕方は驚くほど長くなっている。

朝のウォーキングは一体何時頃から始められるだろう?例年ならもう歩きだしてもいい頃だが、まだとってもそんな感じではない。

第一、飯盛山に登っても雪だらけだ。

先日、「いつ頃から歩かれるんですか?」と、お見かけした事のないご婦人から尋ねられた。「え?どうしてですか?」と聞くと、朝歩くとよくすれ違っていた高年齢ラジオ体操集団の中のお一人なそうだ。

「おはようございます!」とは何度もあいさつを交わしているのだから知らない仲ではないわけだ。

普通の人より一回り大きいのでどうしても目立ってしまう、こんな風にどこで見られているか分ったものではない。ちゃんとしよう、いつでも・・・。

1月3日の初打ち以来、今年はゴルフにも全く行ってない。寒さで足が遠のいた。いくら冬でもせめて昼間には5℃~10℃はないときつい。スキー場でスキーウェアを着ないでいるみたいなもので手も凍える。

3月の声を聞いたら、と思っていたがそれでもまださっぱりだ。

なんだかこのまま籠っていると何もしたくなくなってしまう気がする。それはヤバいので気を奮い立たせて今週は行こうかと思っている。

人間はどうしても自堕落な方に行く。動かないと動かないままになってしまう。動けば動くのが楽しくなるのだが、面倒くさいが先に立つようになると後ろ向きになってしまう。良い事は何もない。

動き回れる人は動き回る。それが一番良いし、幸せな事なのだ。忙しい、忙しい、そのすき間を見つけて遊ぶ、呆れかえられるくらいでちょうどいい。

そろそろ、陰の季節から陽の季節へ。会津も変わっていきますよ~。

「淫から酔う」それは変換ミス。 陰から陽の明るい春です。

2012年3月12日 (月)

惹かれるお店

鶴ヶ城の北東側、元の会津図書館の向い側に「マルモ」という洋品店がある。洋品店という言い方も古いが、洋品店という言い方が似合う洋服屋さんだ。

清潔感のあるショーウィンドウにはいつもお奨めの服がきれいに並んでいる。それも頻繁に取り換えられるので、いつも目を惹く。

昔、ショーウィンドウにはその店の様々な工夫やセンスが凝らされていて、街にはウィンドウショッピングという楽しみもあったが、今ではそんなお店はめっきり減った。

今言ってる「マルモ」さんは、そうした商店が連なっていた神明通りにあるわけでもなく、商店街の一角でもない。城前にポツンとあるのに魅力的、それがまた不思議なところだ。

知った様な事を言っているが実はお店には一度も入った事がないし、買い物もした事がない。(恐縮・・・)

朝晩通勤で通る車窓から眺め「ああ、会津にもまだまだこういう風に頑張っている店があるんだ!」といつも感心しているだけなのだ。

郊外には大型店がどんどん出てきて、通販やネットでどんな服でも買える。そんな中、こじんまりとした店を構え、ショーウィンドウを飾り、お奨めのお洒落を提案し続ける。

こういう商売がことごとく姿を消す中で「マルモ」というお店がとっても頑張っているように見えて、なんとなく嬉しいのだ。

正直なところ飾ってある服はかなり個性的で派手、とても私には似合わない感じのものばかり、それにパッと見、どう考えてもサイズが合わない。そんな訳で入った事はないのだが、ひそやかに感心をしている。

商売の頑張りというのは、店構えやウィンドウで分るし、感じるものだ。それが吸引力となり、お客さんを惹きつける。

頑張りは誰かにどこかで見られているものだし、きっといつかは実を結ぶものだ!(まぁ、実のところ、実を結ばない事も少なくはないのが世の中だが)

しかし、こうしてしまむらにもユニクロにも負けず、ウィンドウをしっかりとディスプレイし続ける洋品店があると言う事はそれだけで嬉しいし、頼もしい!

だいぶ前から一度は行ってみたいとは思っているのだがチャンスがない。

毎日、車の窓から楽しませてもらっているだけなので、なんだか申し訳ないような気がして書いてみた。

2012年3月11日 (日)

あの日

会津若松市山鹿町、7階のだだっ広いオフィスに一人で居た。2時46分、突然グラグラグラッ、と来た。「いやー、今のは大きかったな!」と、言おうとしたが言えない。

だって、収まると思った揺れが止まらないのだ。過去形にならない・・・どころか揺れはますます大きくなる。

「オイオイ!オイ!」と一人でに大声が出る。机に掴まって踏ん張った。とりあえず窓ガラスが割れ頭に落ちてきそうもないところまで離れ「なんだこりゃ?」と思った。

部屋の奥でバサバサと書類や本が落ちる音が聞こえてくる。一体、何時止まるんだ?揺れは続き、強まる。

「あれ?これって本当にヤバいのか?崩れる?えー、このまま死んだりする?」

ガッシャーン!とロッカーがひっくり返り、パーテイションがねじれて音を立てて倒れる。

「ウソだろう?・・・・」災害の犠牲者のほとんどが、こんな風に思って亡くなって行くのかな、と考えた。

長いっ!まあだ揺れている。机の下に潜り込んでいた。

・・・ようやく止まった。

大丈夫だ、けがはしてない。一体何が起こったんだ?尋常な事態でない事だけは分かった。大きくひとつ深呼吸をして、「大変だー!」と部屋を飛び出した。。。。。。

それからの一週間、夢の中を、それもあまりよくない夢の中を歩いているようなフワフワした浮遊感の中で過ごした様に思う。

出来る限りのことはした、とは思うが、あれも出来た、これも出来た、本当にあれで良かったのか・・・・・様々な思いも交錯する。

そして、ものすごく色々な事が起きて、あの日から一年がたった。

私たちの住む世界は確実に変わった。そして、春が来て、またいろいろな物事が変わっていく。

去る人、来る人、別れと出会いに満ちた春だ。

我が家の長男は新宿30階の就職説明会会場で大震災を体験し、5時間歩いてアパートに辿り着いた。その後、どういう心境の変化か故郷へ戻り、会津で働き暮らしていく道を選んだ。

そして長女は、震災を機にお付き合いの深まった彼を人生のパートナーに選び、嫁いでいくと決めた。

春には決まって大きな変化がある。

だが、大きな揺れだけはもうたくさんだ!

固い蕾が少しずつ膨らんでいくように、すべての物事が、すべての人々の心が、温かい陽射しに満ちた方向に向かって進んでいける事を心から祈りたい、そんな3月11日が来た。

会津の穏やかな日差しの中。合掌。

2012年3月 8日 (木)

で、つづき

会津の雪もここ数日でみるみる消えた。日陰の雪も少しスコップでいじくってやるとすぐに消える。

で、紛争を解決するメディエーターの話し。

医療分野には医療メディエーションという領域がある。医療事故や過誤などによる紛争は、一般のもめ事と違い複雑に両者の想いが絡み合い、こんがらかるケースが多い。

治りたい人、全力で治してあげたい人、しかし、医療は絶対ではなく残念な結果もつきまとう。そんな時、言葉の取り違えや思いのズレが生じコンフリクト状態に陥ってしまう。それを対話によって解こうするのが医療メディエーションだ。

長くなったが、その研修をこの土・日に行った、という事を言いたかったわけだ。

日本の第一人者、和田先生、中西先生という最強の講師で三ヶ年計画で行い、今年が2年目だ。

人はどうして怒るか、どうやって想いの糸がこんがらかっていくか、そういう事を学ぶことによって、いたずらに対立しない、対話によって理解を進める風土が根付けばいいと願っている。

非常に充実した素晴らしい内容の研修となった。二日間、研修に付き合いながら、ぼんやりと遠く双葉郡の町村の事を考えていた・・・。

原発事故から立ち直るために双葉郡のどこかに中間処理施設を作らなければならない。その話し合いはとても難しい。8町村の首長、そして国、県、東電それぞれの思いが交錯し、対立する。そうした当事者だけの話し合いには限界がある。

こういう時こそスーパーメディエーターが現われないものかと思う。

確かな事はどこかに作らなくては先に進めない事。それには誰かが犠牲にならざるをえない事。そしてその犠牲を単なる犠牲にしないで済む方策を探す事、だろう。

永遠に終わらないババ抜きを続けるわけにはいかない。福島は『フクシマ』と呼ばれる泥沼から這い上がらなくてはならない。

総論は誰もが理解できる。しかし各論が自分のところに及ぶと話し合いの道を閉ざしてしまう。

あらかじめの答えはない。答えは当事者たちの中にあるのだ。

もし対話による解決がなければ、最後は強権発動以外に道はない。

本日3・8。。。。。この大災害は民主主義の限界までも教えてくれようとしているのだろうか?

福島にはまだまだ冷たい春である。

2012年3月 7日 (水)

つづきもの

裁判というのは、物事に白黒つけるために起こすわけだから勝つためには何でもするし、負けを最小限にするためにはどんなことでもする。

法廷闘争というだけにケンカだ。法律に反しない限りなんでもありだ。人を殺めておいて『ドラえもんのお告げです』みたいなところに話を持って行ってしまうと言う戦術も、ありなのだ。

結果、白黒の決着はつくが、実のところ解決できる事はそう多くはない。

何よりも膨大な時間に両者が疲弊し、終いには何のために戦っているのかも分らなくなってしまう。光市母子殺人事件で被害者家族がこの裁判の勝者はいない、と言ったのは記憶に新しいところだろう。

刑事事件はともかく、民事や医療訴訟などは特にその傾向が強い。

そこで紛争を裁判によらない話し合いによって解決していこういうという動きがある。ADR(裁判外紛争解決手続き)というのがそれだ。

中立的な第三者を立て話し合いによる解決を目指す。両者がWIN&WINになれるような解決案を両者の話し合いの中から導き出そうと言うのだ。その会話をつなぐ人間を一般的に調停人とかメディエーターと呼ぶ。

こうした紛争解決術はアメリカで盛んに行われ、現在では統計だった学問となって一領域を成している。

『メディエータ 桐島丈一郎』というマンガにもなっているぐらいだから、知る人ぞ知るなのだ。

調停人と言うと、こんがらかった話を上手くまとめて大岡裁きの様な答えを出してくれる人のように思うが、あくまでも裁くのではない。

メディエータのマンガの中の台詞 『私は何の答も持ってはいない。答えはあなたがた対立している両者の中にあるのです・・・・』

なんか話がややこしくなって来たが、一体何を言いたいのか?

今日のところはここで一応つづく、という事にしておこう・・・。

会津も温かさは今日まで、明日からまた寒くなると言っている。でも、ここ二、三日で急速に雪が溶けて水になった。いや、雪が溶けたら春になるのである。

2012年3月 6日 (火)

スマート?

昨日のつづきの様な話だが、会議中に堂々と携帯電話に出る人はまずいないだろうが、堂々とスマートフォンをいじくっている人は近頃珍しくない。

もちろん、ゲームをやってるわけじゃないだろうからピコピコ音を出したりはしない。メールか何かをやっているのだろう。

決済したり、確認したり、指示したり、手のひらの中の電子機器でたとえ会議中でも仕事が出来るのだから確かに便利には違いない。が、だったらなんで会議に出てるの?って素朴な疑問がわく。

ITの発達でこうした傾向はどんどん強まるだろうが、いつかどこかでおかしくない?ってな事になるだろうと思う。

四六時中届けられる情報、時と処構わず何としても連絡を取り合い誰かとつながらなくてはならないあなた・・・総理大臣だってそこまで忙しくはないんじゃないの?と思うのだけど。

演劇を見ながらスポーツ中継を見る、お葬式のお経を聞きながら株価に一喜一憂する、恋をしながら放射線量を知る、それは便利さなのだろうか?

つながる絆は大事。

だが、のべつ幕なしにつながりたいのは、つなげる機器に反対に使われているようにさえ見える。

スマートフォンは便利ですごい。が、モラルなのかエチケットなのかは分らないけれど、何事かをわきまえないと少しもスマートではないということになってしまう。

会津若松市内はだいぶ雪が溶けてきた。

まだまだ田んぼは雪だがあぜの部分が分るようになり、やがてそこから一気に黒くなる。そして田んぼに水たまりが出来る様になれば、さすがにのんびり屋の春も駆けだすだろう。

2012年3月 5日 (月)

当面は・・・。

自分がソーシャルネットワークサービス(SNS)を使っていないからといって、IT企業の社長をやめた人がいるそうな・・・。

自動車会社の社長さんが他社のクルマに乗っていたらそれは問題だが、それ以前に自動車に乗らない、みたいな話なのかな?

私も苦手派なのでなんとなく分る。ツイッターもフェイスブックもやってはいない。

苦手派なので頓珍漢な事を書いたらお許しいただきたいのだが、なんでそこまで人とつながっていなければならないのか、不思議だ。

つぶやきたい気持ちは分るが、なぜそれを大勢の人に聞かせたいのか、また何らかの形で利用したいのか、分からない。

フェイスブックは実名だからめちゃくちゃな事は出来ないと言う事も聞いているし、仲間同士の連絡には実に便利だとも聞いている。

そればかりでなく時の政府を転覆させたり、独裁者を追いだしたりするほどのうねりも起こせるすごいものだとも。

でも全くの方角違いから、御社の○さん、旅行中なんだって?そうだ、△さんも一緒だってね?なんて事をいきなり尋ねられると、えー!と思ってしまう。

○さんは、自分で書いているんだからいいだろうけど。△さんと一緒だってことは言ってもいいの?と思ってしまう。ま、○さんの責任で書いているのだからいいのだろうけどなんか腑に落ちない。

○さんと△さんが一緒に居ると言う事自体、何らかの意味ある情報だってこともあるだろうに(ミステリーの読み過ぎでしょうか?)

また南の島に行ったら、仲間の◇くんが島に居ると聞いて、回りまわって■くんのお友達が現われて案内してくれたなんて自慢話も聞いたことがある。そりゃあ便利だ!と思うか、うー気持ちワル!って思うか?

すでに知らないところで私は、カッコいいとかステキだとか、バカだチョンだとか言われたりしているのかもしれない。(きっと言われてるだろう)

電話、メール、ブログと、ここら辺りまでは便利で面白いと思えるのだが、IT企業の社長をやめた人の気持ちがなんとなく分る。

これはすごく便利です!と言っても自分は使わなくてもいい、というものも世の中には沢山あるのだ。

そんなこと言っている内にいずれ、便利だ―!楽しー!とか言い出すのかもしれないが、当面は時代遅れの男でいい、と思ったりしている。

中通りは雪、会津は雨という、典型的な春の天気図だ。

2012年3月 4日 (日)

お雛様

ひな祭りに、お雛様や春の花をかたどった生菓子をバレンタインの義理チョコのお返しにあげることにしている。

「今日はひな祭りだからね」というと、どんな年齢の女性でも必ず喜ぶ。箱を開けて女雛、男雛の色どりに「あらーっ」と歓声を上げる。

ホワイトデイは3月14日だが、お決まりのマシュマロなんか返すよりはるかに評判が良い。

昨日は会津稽古堂で女優・紺野美佐子さんの朗読座公演があった。被災地を応援しようとの公演、大自然の中に咲く花の命の鎖の物語「さがりばな」、大勢の人が訪れ感動の拍手を送った。

稽古堂前の吉田菓子舗にお雛様の生菓子を注文する。

ついでにひと箱,、紺野さんの楽屋にも差し入れした。名ピアニストの中村由利子さんとお二人、お雛祭りなので、と言ったら案の定すごく喜んでくれた。女性はひな祭りが本当に好きなのだ。

生、紺野美佐子さんも中村由利子さんもすごくおきれいでした。

我が家では今年は数年ぶりにお雛様を飾った。娘が東京で暮らすようになってからはあまり出さなくなったが、今年は吹雪の中でお雛様を出した。

このお雛様も娘と同じ歳なわけだから結構いい歳になるわけだが、お内裏様もお雛様もまだまだりりしくきれいだ。

さて、陽春と呼ぶにふさわしい天気の日曜日となった。

ここはひとつさっさと、お雛様を仕舞わなければならない。いつまでも出しっぱなしにしていると嫁に行き遅れると言うあの言い伝え・・・もう、これ以上は伸びないようにと願いつつ、祈りつつ。

2012年3月 2日 (金)

母校

同窓会の役員として母校・会津高等学校の卒業式に出席した。

昔はなかった、ものすごく大きな体育館が作られていて初めて入った。

と言うよりも母校に来た事自体が、何十年かぶりだ。校舎、中庭、あたりは昔のままだったが継ぎ足し継ぎ足しでいろいろな施設がつくられている。

卒業生、在校生、父兄、教職員、来賓合わせるとゆうに千人を超える人々が体育館に集ったわけだが、それでも人の熱気は寒気に全く対抗できず、寒かった。

卒業生は我々の頃より百人ほど少ない。そして赤いスカートの女子が居る。

式典は粛々と進められ、式辞、来賓のあいさつ、送辞、答辞もなかなか素晴らしく、いい式だった。

自分の卒業式はどうだったろうか?

これが悲しいかな全く記憶にない。贈る言葉も感動も、感激の涙も記憶にない。ただただ、これから始まる大学生活に胸が躍っていたことだけを覚えている。

昔と変わらない中庭の風景を見て、あの頃の自分はいったい何を考えて高校生活を過ごしていたのだろうと思った。

ボート部の1年間は苦しくも楽しかったが、腰を壊して続けられなくなった。

それ以後は硬よりは軟に転じ、さりとてさほどの悪さもなく漫然と日々を過ごした。勉強にも特に打ち込んだ記憶もない。

なんとなく毎日が楽しく、自分が将来何ものになるかなどの心配は微塵もなく、ひたすらボーッと暮らしていたように思う。

あの、スポンジのように吸収力抜群の日々にもう少し目的意識をしっかり持って暮らしていたのなら、人生は違った展開になっていたかも知れなくいがそれは後の祭りと言うものだ。

あんな風に、風に吹かれるままに青春の日々を過ごしていたのに、ただ今現在、後悔ばかりの日々・・・と言うところに辿りついたわけではないのだからきっと何にものかに護られてここまで来たのだろう。

感謝である。

まだ春浅い会津から旅立つ若者たちに幸多かれと祈ると共に、あれから40年を経て今、こうして母校に立つ我が身を振り返ることになった、春寒の一日であった。

2012年3月 1日 (木)

優しくて残酷なもの

3月だ。あの日から1年が経とうとしている。思わず「早いもので・・・」と言いそうになるが、故郷を追われ、住む所さえ定まらない人々にとっては、長く長く苦しい日々、早いもので・・・などと軽々しく言えたものではない。

時の流れは、心の痛みも癒してくれる。いや、深い傷は時の流れにしか癒すことが出来ないとさえ言っていい。

時間は優しく降り積もる。

しかし一方で、我慢の限界と言う言葉もあるように、時間の経過は味合わなくても良かったはずの、さまざまな問題を浮き彫りにさせてしまう。

先の見えない暮らしが家族の想いをバラバラにしていく。角突き合わせることなどなかったはずの人々の心が変わっていく。

もう耐えられない・・・。

砂時計の砂が何も語らずサラサラとこぼれるように時間は絶対に止まることがない。

優しくもあり、残酷でもある。

間もなく1年、ここ会津若松には一体どんな時間が流れたと言えるのだろうか?

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