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2011年3月

2011年3月31日 (木)

朝5時のコーヒー

朝が早くなった。5時には明るくなる。が、まだ朝のウォーキングをしようと言うほどの暖かさはない。

明け方に起きだしてテレビのスイッチを入れる時、なんとなくドキドキする。寝ている間に世界が変わっていないだろうか?などと思う。原子炉がとんでもないことになって、もうどうにも止まらなくなって、逃げ出さなきゃいけなくなっているとか・・・・。

現われた画面でアナウンサーが普通に話しているのを見ると、ホッとする。それからお湯を沸かしてコーヒーを飲む。

24時間電源入れっぱなしの古くなったポットをやめて、使うたびにすぐに湧くティファールにして1年近くたつ。湧く時の音がうるさいが慣れた。ちょっと省エネ。

ブルックスのコーヒーにポットを持ち上げてお湯を注ぐと、なんとなく本格的にコーヒーをたてているような気になる。プッシュ式でドボドボ落ちるのとは趣が違う。

テレビの早朝ニュースは、相変わらず震災関連、原発関連の話ばっかりだ。

ここに来て科学の粋を集めて放射能を封じ込めるみたいな事を言っているが、だったら最初から各国の援助を受けて、人類全体の災害と位置づけて、あらゆる英知を集めて問題を最小限に食い止めて欲しかったものだ。

人類や地域を守る事よりも、高額な炉を守ることに気持ちが走ったことは返す返すも残念至極だ。

この原発災害のタイムスパンは、数週とか言うレベルではなく、月単位、年単位だと申し訳なさそうに言い出した。そんなことはとっくに分かっていたはずなのに小出しにしているとしか思えない。

果たして半径10キロ圏内に帰れるのか否か?分っているならはっきり言ってもらうしかない。

「まったく、何もかも小出しにして!保身としか思えんな!」と毒づきながら、コーヒーをすする。寒い避難所の風景を見ながら、ぬくぬくと会津の地で朝を迎えている・・・。申し訳ないような気持になるが、どうしようもない。

『がんばろう福島!がんばろう日本!』多くの芸能人やスポーツ選手、日本各地の人々が声援を寄せる。なぜか最近、あれを見るたびに涙が出るようになってしまった。がんばろうの声を聞くと、うるっ、と来る。

あまりの惨状を見続けている内に、私の心の回路もどこかで少しショートしてきているのかもしれない。

2011年3月30日 (水)

無いものは無い

もう重箱の中には七分目しか料理が入っていない。これをみんなで分け合って、それぞれに「幸せ」と言うものを感じるような暮らしをしていかなくてはならない。

今までのようにいつでもどこでも腹いっぱい食える事が「幸せ」だとすれば、この状況はかなり物足りなく、不満足な状況だろう。それでもこの状況下で一人でも多くの人が「幸せ」を分かち合うしかないのだ。

文句を言っても、誰かを責めても、もう無いものは無い。無い袖は振れない。いくら責められても計画停電で暖房、冷房を止めるしかないのだ。えーっ!と百回言ってみても無いものは無い。無いより強いものは無い。

在るだけのもので、知恵を絞って一人でも多くの人が「幸せ」を分かち合うしかない。それには、これまでの価値観や考え方を変えていくしかない。

会津の名君と言われる保科正之公は、実はほとんど会津には暮しておらず、江戸にあって四代将軍家綱の後見役(正之公は三代将軍・家光の異母兄弟)として幕府を動かしてきた。実質的に日本を動かしてきたのだ。

もちろん会津にも心を寄せて様々な政策を指示したが、実行したのは信頼できる家老たちであり、正之公は江戸にあって徳川の治世に全精力を傾けたのである。

正之公の時代、江戸に大災害が起きた。明暦の大火、俗に振袖火事と言われる大火事で江戸のほとんどが焼失し、死者は何十万人にも上った。その未曾有の大災害からの復興計画を立て、速やかに実行したのが保科正之公、その人だったのである。

優れた判断力と決断力、そして一切の我欲に囚われず、ひたすらに民の安寧と徳川の世を守り抜くことだけを考え抜いた有能な政治家。その非凡なる才覚と高潔な人格はのちの歴史家達の等しく認めるところだ。(その生涯は中村彰彦氏の「名君の碑~保科正之の生涯~」文春文庫に詳しい)

今の日本に一番欲しいのは、まさに保科正之公のような優れた政治家だと思う。・・・だが残念ながら、無いものは無い。

2011年3月29日 (火)

にもかかわらず笑う

ユーモアの精神はどんな時にも発揮されなくてはならない。いや、辛い時こそなお一層、笑いが必要だと言える。

『不条理や人間の悲しさを知った上で、にもかかわらず笑うこと』それがドイツのユーモアの定義だという。

単なるジョークやお笑いのドツキ合いとは違って、相手を思いやる気持ちがなくてはユーモアは生まれない。心と心の良質な潤滑油のような笑い、どん底にあっても、にもかかわらず笑うという強い心だ。

かのレーガン大統領は狙撃され病院に運ばれた時に、医療者に向って「君は共和党員だろうな?」と言ってその場を和ませたそうだ。

避難所の映像が連日映し出されるが、あの辛い状況を救うのはやはり笑いだ。悲しみや怒りは想いを一定方向に深めるばかりだが、笑いには物事を一瞬にして転換させる大きな力がある。

避難所にあっても笑顔を絶やさない素晴らしい人々がいる。避難所ごとにリーダーが生まれ、人の輪が築かれ、もう二十日になろうというのに争い合うこともなく笑顔を絶やさない人々がいる。本当に同じ日本人として心から誇りに思う。

やがて、会津若松市にも原発のある大熊町の人々が千名単位で避難してくるという。役場も会津若松市内に移転して、本腰を据えた避難生活になる。なかなか想像できないが大変な事だ。

周辺の市町村でも同じように自治体単位で多くの人々を受け入れるという。

浜の気性と会津の気性は全く違う、と浜通り出身の友人が言っていた。長期にわたる避難生活では、おそらく想像するよりもはるかに難しい問題、厳しい問題が数多く起こることだろう。

そんな時、決して忘れてならない、失ってはならないのがユーモアの精神だと思う。

・・・にもかかわらず、お互いに笑い合わなければならない時だ。

・・・にもかかわらず、お互いに認め合い許しあわなければならない時なのだ。

会津は、福島県は、日本は大きく変わっていかなくてはならない。

2011年3月28日 (月)

電波が来ない

夜中の12時にいきなり目覚まし時計が鳴りだした。セットもしていないのに、これで二度目だ。

別に心霊現象ではない。電波時計の目覚ましがどうやら電波が拾えなくて誤作動しているようだ。

これも震災の影響。第一原発から17㎞離れた田村市のおおたかどや山の上に標準電波送信所と言うのがあるらしい。日本には二ヶ所あってもう一つは佐賀県のはがね山送信所、この二つで全国の時間の電波をカバーしているそうだ。

そのひとつが、原発から20キロ圏内で避難区域となり、常駐職員が不在で電波が出てない状態になっているのだ。

だから今、入学や入社祝いに電波時計をプレゼントしても電波は拾わず、手で合わせて使うしかない。普通の時計になってしまうのだ。(東日本では)

腕時計や目覚まし時計だけならまだいいが、様々な計測機器にも時計が入っていて電波を受けて正確な時間を刻んでいる。何時何分何秒の地震は、全部の機器が同じ時間の観測データを示すはずだが、電波がないと進んだり遅れたりしてしまうのだ。

大体で生きている私には全く影響ないが、精密な人は大変だ。

今回の地震で、院内各所の時計が結構バラバラなので、主要な時計は電波時計に変えましょう、という提案があった。確かに会議の場所ごとに2,3分ずれていたりするのはよくない。

もっともな提案だと思ったが、こういうことになるとちょっと意味がない。もし20キロ圏内に職員がずっと戻れなければ、東日本は電波時計の使えない地域と言うことになってしまうのだろうか?

とりあえずはちっとも困らないのだけれど、時間が合わないというのは、なんだか凄いことでもある。

今朝の会津は冷えた。氷点下5度位ぐらい。日中は気温も少し上がったが、まだまだ空気の底に「春らしい」という暖かさは感じられない。

2011年3月27日 (日)

プレイファースト

日曜日、特に買いたいものがあったわけではないが、大手家電屋さんをのぞいてみた。しっかりした懐中電灯が要るな、と思ったので見てみたが、懐中電灯のある棚はすっからかんで何もなかった。

電子レンジも、シンプルなチン!は一台もなかった。こういう時はシンプルイズベストだ。店内はいずこも同様で節電中、少し薄暗く寒かった。

昨夜は震災以来、初めて外に出て食事をした。居酒屋の「北酒林」まで歩いていった。

飲食店は、ヒマだからと言って開けないことには売り上げはゼロだ。人件費を出来るだけ削っても頑張って開けるしかない。さすがに先週、13日からの週は開店休業状態だったらしい。マスター曰く、開けたは良いが結局は自分で飲んで帰るような日々だったそうだ。

22日ごろからは、少しずつ動き出してきたそうだ。やはり2週間もたつと、じっと籠ってばかりもいられなくなる。息抜きはどんな状況下でも必要なこと、決して悪い事じゃない。

本来であればこの時期は歓送迎会から花見へと言う、一年でも大きな稼ぎ時、それが半分になるか、もっとひどいのか?大変なことだ。

土曜日に会津磐梯カントリークラブから年間のスケジュール表と4月1日オープンの知らせが来た。震災前に準備したのだろう、震災のことには一言も触れてはいなかった。ただ、今年の寒さと残雪でオープンは10日ぐらい遅れそうだと書いてあった。

「こんな時にゴルフもないだろう!」という人もいるかも知れない。しかし、大丈夫な地区の人が出来るだけ平常を取り戻すという事は、それはそれで大事なことだと思う。

元気のある人まで意気消沈していては、ナメクジに塩をかけたように全体がどんどん縮んでしまうばかりだ。

来週30日にはウチのゴルフクラブの総会がある。ちょっと迷うところだが、予定通り開催で良いのではないかと思っている。年間のクラブハンデをワイワイいいながら決める。同好の士が集まりバカ話に花を咲かせて、心の底から笑い合う事も大事なことだ。

この放射能騒ぎで、一日中屋外にいるゴルフほど危険なスポーツはない、などと揶揄されるかもしれない。しかし、今のレベルならもちろん会津は全く問題ない!

第一、放射能の影響については40歳を過ぎたならあまり過敏になっても意味がない。ニュース映像でおばあちゃんがあわてて水を買い求めたりしているが、影響の出る頃には果たして・・・・と、思う程度の話だと考えた方がいい。

今年のゴルフクラブの第一目標はおそらく『スロープレイをやめよう!』だろう。出来るだけ被ばく量を減らす意味もあり、プレイファーストを心掛けることだ。

もっとも、そんなこと気にするぐらいならやるな!って話だが、まぁ、若干のユーモアと言う事で、お許し願いたい。

被災地への想いは常に忘れずに、みんなそれそれの立場で出来ることをやる!それはそれで大事なことだ。

それにしても、クラブの初戦は果たしていつ開催されることになるやら・・・・。

2011年3月26日 (土)

吹雪の中で

3月26日の会津は吹雪だ。どうせ季節外れの雪が降るのなら、遠く離れた原子炉に降り注いで少しでも冷やして欲しいものだ。

しかし、会津がこんな天気の時には浜通りは悲しいほどにいい天気なのだ。燦々と降り注ぐ春の陽、優しい日差しと共に音もなく、目に見えない異物が降っている。

昨夜は久しぶりにスーパーマーケットに行ってみた。確かにモノは少ないが不自由と言うほどではない。節電のため店内がいつもよりは暗いが、困るような暗さではない。唯一、困るのは牛乳がないことぐらいだろうか。

会津産の原乳だけを使っている「会津の牛乳」、安全なのに出荷が制限されている。病院食には牛乳はつきものだ。坂下にある中央乳業さんでは泣く泣く岩手県から原乳を運ぶという。その運送力を被災地に向けられないのは、どう考えても変だし、悲しい。

自主避難を勧める、と言われてもこれまで屋内退避でとどまると決めていた人々は戸惑うばかりだろうと思う。命令なのか、勧告なのか、結局、なし崩し的に命令しているということ?

昨晩、総理大臣が国民へのメッセージを話していた。少しだけ見た。なんだか表情にも力がなく、おろおろしているようにさえ見えた。その後、ニュースで繰り返すのかと思ったが、ほとんどやらない。新聞にも首相のメッセージとして文章は載ってはいなかった。きっと注目に値する様な事を言わなかったのだろう。言えなかった、と言うのが正しいのかもしれない。

こんな、お気楽ブログで政府を批判しようなんて思わないが、素直な感想を書けば全部、そんなようなことになってしまう・・・。

今の政府をとりかえるなんてことは出来ない。とにかく頑張ってもらう以外に道はないのだ。お願いだからもう後先は考えずに、丸裸になった気持ちで全力で頑張って欲しい!

道路がつながるという事はやっぱり凄いことだ。

一昨日、東北道、磐越道共に一般車両も通行が可能になった。今日には磐越西線も走る。交通網の復活が多くの問題を解決していく。

本日、震災で閉じ込められていた我が愛車君に救援の手が届いた。2週間ぶりに外に出た。出たらいきなり吹雪でびっくりしたかもしれないが、何事もなくスムースに走ってくれた。開いているスタンドに飛び込んだら、これも難なく満タンにしてくれた。

こんな風にひとつずつひとつずつ、元に戻って行く。

すべてが元に戻ることは決してないけれども、小さな一つを積み重ねて行くより道は他にない。

2011年3月25日 (金)

待機か生活か

今日であの大震災からちょうど2週間になる。

まだまだ手をつけられない状態の被災地には申し訳ない気もするが、ここ、会津はほぼ平常な状態を取り戻したと言って良いだろう。変わったことと言えば、避難されて来た方々が大勢いるという事、そして放射能による農業の問題だ。

原発の鎮まらない福島県にとっては震災はまだまだ終わってはいない。終わる見込みすら見えない。長期化することは必至だ。むしろここから先の方がもっと辛く苦しい日々になるかもしれないのだ。

そろそろ避難のあり方も、みんなで考えるべき時ではないだろうか?

地域の炊き出しに3食依存し、何もしないまま日々を過ごすことは、どちら側にとっても辛い事だ。

どう考えてもあと1週間や2週間と言うレベルの問題ではなさそうだ。ここは一旦腰を据え、避難地区ごとに分かれ自治組織の様なものを立ち上げ、出来限りのことは自分たちでするという長期避難の体制に切り変えていかなければ持たないのではないかと思う。

原発が鎮まれば今日にでも明日にでも帰ろうと思っている人々も居る。しかし、仮に原発が鎮まったとしても国が安全宣言を出して、戻れるまでには相当な時間がかかる地域の人々もいるはずだ。

国はそうした見込みを示さなくてはならない。10キロ圏内はどのくらい、20キロ圏内はどのくらい、30キロ圏内は・・・・。仮にそれが気の遠くなるほどの時間であったとしても、言わなければならないだろう。

放射能の専門家を集めれば鎮まった時点から、安全宣言が出せるまでの大よその時間は推定できるはずだ。

今は原発に全力を注ぐ時、予断を言うべき時ではない、と言うのも分らないことはない。しかし、放射能が相当量出てしまったという事実はあるのだ。

まだ何事も断定できないからと言って、このままずっと沈黙し、ただ避難を強いることは正しい事なのだろうか?

避難してきた人々は戻れる日を心待ちにしてじっと待機している。しかし、その日が遥か先ならば避難待機ではなく「生活」を始めなけらばならないはずなのだ。

そこを見極めないと、避難した側も受け入れた側も、双方が持たなくなることは間違いない。

2011年3月24日 (木)

心を壊す

放射能は難しい。シーベルトかと思ったらベクレルとか言う単位が出てきて、ラドンやキューリーなんってのもある。単位だけでも理解出来ないのに一般人に放射能が正しく理解できるはずがないと思う。

水道水で300ベクレルが基準値だとすると、仮に60000ベクレルなんて値になったら即死の様な気がするがそんなことはない。

骨シンチと言う骨の形状検査の際に注射する放射性検査薬は1000メガベクレルとか言う数値だという。乳幼児に使わないようにという水道水100ベクレルの実に1千万倍という計算になる。

そんなものを注射しても平気なのだから、全くどうってことないという値に等しい。(内容が違うと専門家に怒られるかもしれないが)

ヨウ素とかセシウムとかいう物質は自然界に存在しない!と言われるから相当に恐ろしい感じがするが、プラスチックの食器で食べ続けて生殖能力に影響が出る、という話よりもずっと安全ではないかと思う。

シーベルトだってそうだ。1とか2マイクロシーベルトとか言う値で、こどもを外で遊ばせないなんてことをしたら、そのストレスの方がずっとこどもに悪いのではないだろうか?

東京で就職しようとした学生が、就職したら当分は福島に帰省しないでくれと言われたという話がある。福島の住所を書いたら宿泊を拒否されたりとか、いわきナンバーで走っていたらお前らのせいだとツバを吐かれたとか、そんなとんでもなく悲しい話がある。

震災、津波、原発とまさに三重苦を味わいながら、あらぬ迫害まで受けたのでは本当にたまらない。

放射能の本当の恐ろしさは健康に害を及ぼすだけではなく、ほんの微量やただの噂だけでも人の心を壊してしまう、そんな破壊力なのかもしれない。

今朝の会津は冷え込んだ。天気は快晴だが気温が低い。暑さ寒さも彼岸までと言うものの、今年の春は悲しく冷え込んでいる。

2011年3月23日 (水)

こう言う時に地元議員さんは何をしているのだろう?

会津は着々と物流が回復しつつある。支援物資は会津よりもっと先の、出来れば三陸の避難所に少しでも多く届けてあげたいと願う。

それなのに会津より先には行きたがらないトラックもある。特に4号線を越えて西、原発には出来るだけ近づきたくないのだ。

ホウレン草に続き、次々と葉物野菜の出荷が停止されている。それも福島県というひとくくりだ。会津地方の放射線量などは中通りの2~30分の1程度だ。原乳にしたって野菜にしたって全然平気なのに、県全域でバッテンにしている。

出荷停止と口で言うのは簡単だ。しかし、ものが流れなくなる、なくなるということは大変な事だ。なくなったらあきらめるならまだいいが、ないものを埋めるために今度はどこからか運ばなければならない。何よりも優先させなければならない被災地救援の物資輸送の一部が、食われるという事だ。

あれほど安全だ安全だ、というのならテレビの前で食って見せて、当面はよく洗って食べろぐらい言えば良いのではないかと思うが、そうではないのだろうか?

春菊も、ブロッコリーも、小松菜もなんでもハイ停止!言うのは簡単だ。万万が一の責めを負いたくないばかりに、みんなどんどん腰が引けている様にしか見えない。

今は国難、非常時なのだ。平時ではない。それを聞かせれば国民だってしっかり洗って食うだろう。少なくても私は食べる。

風評被害から新潟や山形の野菜を守るためと言うのであれば、同じ福島県でも地区を限り、大丈夫な会津地域などは外すべきだと思うが、そうは考えないのだろうか?

放射能の発がん作用と言ってもこれほどの微量であれば、タバコの方がはるかに高い、と誰かはっきりと言うべきだ。

避難所の入り口でタバコをふかしながら、放射能が怖いから家に帰れない、と話している姿もある意味、滑稽なのだ。

政治家も安全な30キロ圏にまでどんどん近付いて、飲んで食ってこの地域をどうするか、日本をどうやって救うかを考えればいいのに、と思う。

国民のため、と日頃禄を食んでいるのだから、非常時には国民を安心させるためにはなんでもするべきだ。

選挙の時にはあれだけ地元地元!と言っているのだから、地元に張り付いて窮状をどんどん国に訴えればいいと思うのだけれども、地震以来、議員さんには一人も会ってはいない。

2011年3月22日 (火)

ちょっと失敗

毎年お彼岸の中日にやってくる北滝沢の彼岸獅子、今年は一日遅れの昨日(21日)に来た。小雨の降る中、放射能を気にしているわけでもないだろうけれど傘をさしてやって来た。

毎年、(とはいっても居る時だが)家の前で舞ってもらう。父も、叔父さんたちも大好きだった。その仏壇があるので居る時にはお願いする。

会津の彼岸獅子は三匹獅子、頭に獅子頭を乗せ立ち舞いで、飛び跳ねたり弓をくぐったり、春を迎える歓びを身体全体で表すように踊る、躍動的で勇壮だ。

昨日の獅子舞は、弓くぐりをやってくれた。若々しい動き、それもそのはず三匹とも中学生だという。

世話役の老人の持つ弓、獅子がなかなかくぐる勇気がなく躊躇する様を舞う。そして思い切って最後にバシッと弓をくぐるのがクライマックスだ。家の玄関口に向って弓をくぐり抜ける。

昨日の獅子は、あろうことか最後に弓の弦に引っ掛かってしまった!「引っ掛っちまった・・・」と言う声が、少年のそれだった。

私も長い間彼岸獅子を見てきたが、弓に引っ掛かった獅子を見たのは初めてだ。「なんだ、縁起でもねぇ!」なんて野暮なことはもちろん言わない。軽快な踊りで、身のこなしも軽くなかなか良かった。最後に失敗しちゃったけど・・・。

後ろをついて回ってる小学生が、獅子舞に合わせてジャンパー姿で一生懸命舞いのおさらいしてるのも実に微笑ましかった。彼らもやがて獅子頭をかぶる日がやってくるのだろう。

「この大震災だ、獅子もちょっとぐらい失敗するさ」と言って家人と共に記念写真におさまった。

『頑張れよ少年たち、君たちが会津に春を連れて来るんだぞ!』と心に念じ、2011年の彼岸獅子を見送った。

2011年3月21日 (月)

ガス欠会津

会津の街なかには人が増えた。歩く人や自転車が目立つ。休日にはガランとした感じのする街に、避難してきた人々、ガソリン不足のため車に乗れない人々、歩きや自転車で移動する人の姿が目立つ。

ホームセンターのお買い得自転車はあっという間に売り切れたという。ガソリンがなければ自転車で、というわけだ。

家には去年、息子の自動車学校通いのためにホームセンターで買った自転車が一台ある。古いポンコツはゴミで出してしまった。日曜日、試しに近くを乗り回してみた。

会津の街は東から西へ傾斜している。我が家は東端の山裾、飯盛山の麓あるのでどこに行くにも下りでスイスイだが、当然ながら帰りは全部登りだ。行きはよいよい、帰りはコワい(会津弁のコワいは疲れるという意味)なのだ。

3段変速の一番軽いギアにすればなんとか登りも大丈夫だ。(かなりフーフーいうが)家人は地震後2、3度自転車で通勤しているが、帰りは相当にバテている。

これを機にクルマばっかり乗っていないで自転車を愛用しようかと考えている。もう一台自分の自転車を買って通勤しようかと考えているが、登りはやはり結構きついので挫折が危惧されるところだ。

購入に当たっては慎重な姿勢が求められるところだが、この調子だときっと買ってしまう。その場合は、自転車ダイエットに挑戦!という事にしよう。

春分の日の会津、冷たい雨がパラパラ落ちている。飯盛山の方から彼岸獅子の笛の音が聞こえてきたので見に行ったら、近くのスタンドでガソリンの予約券を配っていた。ラッキーとばかりにクルマの列に立って並んで整理券ゲット!今日か明日に2000円分(13リッター強)を入れることができる。

我が家のコルト君は幸い満タンなので、今朝の会議で悲鳴をあげていたH先生に横流ししてやることとする。

街の中では、そこここでガソリンを入れるクルマの長い行列が見られる。それも驚くほど長い。新潟は満タンまで入れられると言うので西会津の方の人は、新潟まで行って入れてくる人もいるらしい。

ガス欠・会津、順番は被災地の後でいいので、なんとか早く解消して欲しいものである。

2011年3月20日 (日)

ちょっとだけヒーロー

昨日は大事な理事会があって、そのあと夜には浜田真理子さんのコンサートに行って、久しぶりに外で食事をする予定だった。

そして今日は福島の民報コースで、一番気の置けない同級生仲間との楽しいゴルフ、握ってチョコレートを総取りする予定だった。

当たり前だがそんなこんながすべてキャンセル、3月11日14時46分、一瞬にして何万人、何百万人の人々の世界が変わってしまった。

夢じゃないのか?夢であってくれればいいのに・・・でも、夢じゃない。どんなに祈っても時計の針が戻ることは絶対にない。

暖かい部屋で今年のGWの計画を練っていた家族が、避難所の寒さに震えている。それに比べれば会津はまだまだ幸せ、心からのお見舞いを申し上げたい。

昨日、いわき市の病院から悲痛なファックスが入った。30キロ圏外なのに風評被害で物資が全く入らない。このままでは入院患者が餓死しかねないほどの状況だという。

当院の対策本部ではすぐに出来る事を検討し、救援物資を届けることに決めた。全国から届いた物資の一部も転送させてもらう事にする。

そうこうしている内に、同じいわきのほど近い精神科の病院から薬切れのSOSが。いわきは本当に悲惨な状態にあるようだ。こちらも薬をできるだけ届けることにした。

水、米、味噌、カップ麺、薬のほか、2トントラックに様々な物資を積みこみ、14時には会津を出発することができた。

こんな場合、緊急車両であっても郡山より先へは行きたくないというドライバーが多いという。もちろん、当院のドライバーは当然そんなことは言わない。(拍手)

およそ6時間でこのミッションは無事に終了した。被災病院からもっとずっとひどい被災病院へ救援物資が届けられた。

余震も収まりつつあるようだ。

が、目に見えない放射能への怯えはジワリジワリと広がっている。目の前まで来ても届かない物資、兵糧攻めのいわきを離れる人も多い。しかし、逃げるわけにはいかない人々も大勢いるのだ。

せめて命をつなぐだけの水と食べ物を!

こんな時こそ、風評被害に惑わされず、誰もが出来ることをして助け合う時。誰もがちょっとだけヒーローになるべき時なのだ!

2011年3月19日 (土)

ト~ヒャラ雑感

目覚まし代わりに夜明けの地震がグラグラ、ちょうど5時前。

地震以降、やっぱりどこか気が張っているのか、すぐに寝付けるが、かなり早く目が覚めてしまう。ま、5,6時間も寝れば十分だろう。夜明けのコーヒーを飲みながらブログを書いている。

今回の震災、福島県の避難者にとって頭が痛いのが「スクリーニング」という放射能の検査だ。この検査を受けて「OK」の証明書がないと避難所にも入れない。また、旅館やホテルにも泊まれない事態も起こっている。

従って、各地の検査場には大行列ができることになる。会津も同じ、初めは会津大学だったが一昨日からは会津ドームで行っている。

黄門さまの印籠の様に威力を発揮するスクリーニング証明書、しかし、この証明書も場所によって書式が違っていたり、運用もあいまいだ。

第一、県に聞けば証明書がなければ避難所に入れないなどと言うルールは最初からない、という???

受けなければならない人も初めは双葉町、大熊町など10キロ圏内だったはずが、今やなし崩し的に浜通りから来た人全員、みたいになっているからなおさら大変だ。

万一、50マイクロシーベルト以上の人が出たらすぐに洗浄施設へ。で、それってどこなの?県立病院?本当に受けられるの?など、多くの?を抱えながら、毎日ガーガーやっている。

全県で高濃度の放射能を感知された人は、今だ一人も出ていない。本当にこんな厳重検査が必要なのか?という声まで出て来ている。

時に検査証の発行は取りやめましたなどと言うガセネタみたいなファックスが流れてきたりする。ファックスの発信元が色々ある、これがいけない。

大混乱の中、市の対策本部以外の部門からファックスが来ること自体おかしいと思うのだが・・・。すべての情報を本部で一本化し、本部からだけしか情報を出さない。本部からのトップダウンで一本化して動く、これがあるべき姿だと思が、なんとなく逆な感じ・・・。

ともあれみんな必死で頑張っていることは事実なので、非難ではなく感想です。

こういう非常時には組織力が試される。ガツンと采配を振るうトップが居ると居ないでは動きが大分違ってくることが、よーく見えるし分る。

さて、会津は本日晴天、あったかい予報。本来であればのどかな春彼岸、私の大好きな彼岸獅子がやって来る頃だ。ここはひとつ彼岸獅子に舞ってもらって景気付けをしたいもんだ。ト~ヒャラ、ドン、ドン、ト~ヒャレ、ドン、ドン!

2011年3月18日 (金)

みなさんありがとう!

ブログも考えものだと思わされてしまうなぁ。

ウチの病院のレントゲン室で爆発があったとか、医療資源が枯渇するとか、重度の放射線治療患者さんが運び込まれたとかーーーー心配してくれているのか、面白がっているのか分からないが、いろいろな事がまことしやかに書かれているが、ホントじゃない。

地震の翌日からありとあらゆるネットワークを使い物資の調達に当たっている。VHJや11病院会など仲間の病院からスタッフ、医薬品などの物資も続々届いている。みなさん、誠にありがとうございます。

会津は今、確かにガソリン類が不足で大困り、各所に行列が。しかし、行列が出来るという事は入ってきているということ、ポツポツ開いてるスタンドも目立ち始めたのでそんなに長く枯渇状態が続く事はないのではないかと、楽観。

今朝もあの有名な日野原先生の病院から10 tトラックが到着、医薬品の他、多くの物資が積み込まれていた。皆さん本当に応援ありがとうございます。多くの人が思いを寄せてくださることに心から感謝します!

すでにかなり多くの人々が会津に避難している。原発が消えないので、さらに新潟から県外へと向かっている人も多い。

確かに大混乱であることは間違いない。しかし、ここ会津ではみなさん、そんなに殺気立っている訳でも、テンパっている訳でもない。(ま、少しは テンパっているけれど・・・それは仕方がないよね)

今日の昼あたりから気圧配置も変わり、気温も上昇する見込みだ。どうぞ避難所の人々に暖かい風よ吹いて欲しい。

戊辰戦争を戦い、負けて、焦土の中から立ちあがった会津若松は、いわば不屈の都市だ。ちょっとやそっとじゃへこたれない。ましてこんなにも多くの人々の応援を得ているのだから・・・。

浜通りからの患者さんの受け入れが、情報の混乱状態のため連日深夜になり、みんなも少し眠そうだが、まだまだ笑顔は消えてない。

竹田綜合病院、本日も元気であります!御心配感謝します。

さて、腹がへったので昼飯にします。

2011年3月17日 (木)

逃げまどう人々

米軍の80㎞以内、立ち退き命令は効いてますね。

友人が会津から息子のいる新潟に避難しました。会社の職員にはそれぞれに県外退避をすすめ、またいつか会おうと告げたそうです。

なんとドラマチック、SF映画さながらです。

そっから比べりゃ小さい事だが、ショックな出来事が。今朝、我が家の暖房を一気に取り仕切るFFファンヒーターが急に、ポショポショポッショ、と消えてしまった。先の地震影響で配管に破損が生じているのかもしれない。点かない。

これは結構ショック、誰か助けて!と言っても、ヤマダ電機もそんなこともうどうでもいいような感じさえ受ける。寒いよなぁきっと。避難所みたい・・・。

まぁ、それにしても気温は低いが会津は快晴だ。きれいな青空に鶴ヶ城の天守閣が映える。

私ただ今、会津若松市にある財団法人竹田綜合病院災害対策本部のメインテーブルにどっかと腰をおろし、あれやこれやのてんてこ舞い状態であります。

どんどん逃げて来る人々、運ばれる患者さん、午後にはヘリが新たな患者さんを搬送してきます。昨夜は透析難民が何の連絡もなしにバスを乗りつけてきました。

きっと状況はどんどんひどくなって来るでしょうね。でも、なんとなく大丈夫、な気がします。

病院正面の放射能値は微増傾向でも三日前よりは低い。人体には全く影響のないレベル。テレビにはヘリがさかんに原子炉に水をかけている様子が映し出されている。

まるで映画の様だけど、あれもこれも、今も現実。この映画のような現実にエンドロールが流れることは絶対にないと、思っているんだけどなぁ・・・・。

良い天気だ。私は絶対に会津を離れません。

2011年3月16日 (水)

放射能なんて怖くない!

西高東低の気圧配置、被災地には非情な寒さだ。

「でも、北西の風は会津を守ってくれる・・・」確かに放射能は会津に向かっては飛んで来ない風向きだ。

放射能の量は距離の二乗に反比例するという。会津から原発までは約100㎞、すなわち原発で100だとすると、会津ではその1万分の一になるという計算だ。ま、いずれ大したことないという事だ。もっとも、大したことがあると言われても会津から逃げ出す気なんて毛頭ない。

会津に避難してきた人々は、スクリーニングと言う放射能検査を受けなくてはならない。ここでOKのお墨付きがないと避難所に入れない。また、旅館なども検査済みでないと泊めてくれないようだ。

15日のスクリーニング会場は会津大学、15時半で終了の情報、「ふざけんな、お役所仕事!」と頭にきたが、それはあまりの多さに受け付けを終了しただけで検査終了は翌朝4時過ぎだったとか、ごめんなさい。

16日もどんどん避難の人々が会津に入って来る。内陸部会津の無事と安全が伝わっている。16日のスクリーニングの受け付けは午前10時半で満杯、終了は何時になるか分からない。

直接、不動産屋さんへ向かい部屋を借りてしまう人も多く、不動産屋さんも大忙しだ。市内の商店も品不足が目立つ。お一人様一点限り、そう言われると買わなきゃ悪いような気にもなる。

なんといってもピンチはガソリン、燃料がないと本当に困ったもんだ。が、困った困ったと言っても何も解決しないから、出来るだけ口に出さないようにしよう。

山に囲まれた盆地・会津、ここは古来から出会いの地だ。避難してきた人々は千人単位で増えている。こんな災害で多くの人々が出会うとは思ってもみなかったが、なったらなったでしょうがない、みんなで力を合わせて頑張るしかないさ。

一万分の一の放射能、そんなものは屁でもない。放射能なんて怖くない、怖いのは心が折れて、やけくそになり、人としてすさんでいってしまう事だ。

放射能のある福島県に入りたくない、救援物資も運びたくない、などと言う愚か者が居る。心ないつぶやきは人の輪に冷や水を浴びせかける・・・無知や無神経がその人の品位をおとしめ、人々の心を大きく傷つけることを忘れてはならない。

今はみんなで助け合う以外にない!笑って行こう。

2011年3月15日 (火)

止まらない大震災

会津には浜通り、中通から多くの人が避難して来ている。あいづ体育館、14日には70名程度だった避難の人が、今日にはもう満員の300人になってしまった。

体育館の駐車場、入って来る車を止めるバイオハザードに出てくるような防護服を着た人たち(ほとんどが市の職員だ)白い防護服にゴーグルまでしている。

まず、どこから来たか尋ね、放射能の汚染検査を受けたかどうかを確かめる。受けていればOKで避難所へ入れるが、受けていないと言えば検査を受けに所定の場所へ行かねければならない。昨日は県立会津病院、今日は会津大学に変更された。

そこでガイガーカウンターで放射能検査、10マイクロシーベルトだったか、そこが分岐でOKかどうか?実際そんなに高い人は(高いと言っても低いのだが)全くいない。(アウトの人がいたという話は聞かない)

だが、検査は受けなければいけない。相当に時間がかかる、数時間は待たされるという。

一列に並んで次から次にピッピッピでもいいのだが、そうはいかない。一人ひとり、厳重なな検査、当然、時間がかかる、本当に大変だ。

目に見えない放射能、普段は考えたこともない放射能、そして正確なことを何も知らない放射能。50マイクロシーベルト、それが胸のレントゲン写真一回で受ける量だという。だったらどうってことないじゃないか、と思うのだが目には見えないだけに、誰もが恐れ、おびえる。

その何千倍の量でもすぐにはどうってことないし、バタンキューってわけじゃない。しかし、しかしだ。何がどうなるのかなにも分からないのが原子力であり、放射能なのだ。

まるで、SFのような光景が毎日、目の前で繰り広げられている。

ああああー、また余震だ、大きいぞ!

そう。

あの原発が落ち着かない限り、東北関東大震災の揺れはまだ止まったことにはならないのだ。

ほら、また来た、ぐらぐら! たまげだなし、おっかねなし!!

2011年3月14日 (月)

絶対、なんてないんだね。

今日までは、会津を含め東北地方全体で穏やかな天気が続くという。明日からはまたガラッと変わり冬型に、冷え込みも厳しくなるそうだ。無情な寒さだ。

時間が経ち、情報がつまびらかになればなるほど東北・関東大震災の被害は甚大だ。どんどん増える死者の数、行方不明だ!と叫ぶ人さえいない不明者は何千、何万人にのぼり、大津波で海に引き戻された人々が、また海岸に打ち上げられている。

まさにこの世の地獄絵図。合掌するしかない。

原発は1号機に続き3号機も建屋が吹き飛んだ。そして2号機も冷却不能に陥っている。稼働していた原発全部が暴走という非常時だ。

『絶対なんてことはない!』と言うのが、今回の地震で身に沁みて分った。二重三重に安全装置が働き、絶対に安全、これぞリスクマネジメントの鑑だと言われた原発がこのざまだ。

『想定外の事が起こった!』という。よくよく考えれば原発を作るためには、想定内の事しか起こらないと想定しないと出来なかったという事だ。作りたい人はそのハードルを下げて見積もる。

点けた人間が消せないのだ。100%安全と言いながらも本当はコントロールできないお化け。そんなものを作ってはいけないのだ、という当たり前の理屈に目の前の事故を見て初めて気付く。

千年に一度が1000年目に起きて。次の千年に一度が1年目に起こったら二年間に二度起こる。

ほら、今もゆっさゆっさ揺れてるよ、もうちょっとぐらいじゃ気にもしなくなったけど・・・。

浜通りから逃げてきた人にガイガーカウンターを当てて検査する風景を見るなんて、一体誰が想像したでしょう?

被災地にも会津にも、まもなく四回目の夜が訪れる。

2011年3月13日 (日)

鎮まれ

なんとまぁ、穏やかな春の日差しだろう。暖かい陽光が会津平に降り注いでいる。まるで何事もなかったかのように。

二日前、死ぬかと思った事務所で、散乱した書類の中で、時々ぐらっと来る余震をお尻に感じながら書いている。

なんだかガッカリして片づける気もしない。家人はすっかりしょぼくれて食欲もない様だ。

通信状況は、地震当日よりも規制が掛り悪くなった。飯盛山の自宅では、携帯は圏外、有線の電話もツーとも言わない。ただネットだけはつながる。通信手段がないというのは、なんとも心細い事だ。(被災地のみなさんに比べたらなんでもありませんが)

私のクルマもない。あの日・・・たまたまあの日、立体駐車場に入れていたために出せなくなった。一台がずれてしまい機械が動かないのだ。入っているのは5台だけ、その内の一台が愛車のスカイラインだ。

修理を頼んでも仙台からだ。正直こんなの優先順位低いでしょう。人命がかかっているわけじゃなし、たった5台だし。当分はクルマを出せないと覚悟している。

で、家人のクルマに乗ってきているわけだが、どうするこうするの連絡も取れないから不便ではあるが、この程度で文句を言ったら怒られる。

今はただ原発の鎮まる事を祈るのみ!会津の神々、仏様、何でもかんでも総動員であの福島原発を鎮めて欲しい。

どんなに甚大な壊滅的被害でも、地震や津波ならば復興も可能だ。しかし、放射能はいけない、何年も何百年もその汚れは消えることがない。

まさに日本沈没(崩壊)の一歩手前に我々は今、立たされている。

・・・それにしてもまぁ、皮肉なことになんとも穏やかな会津の風景である。(大揺れした7階事務所にて)

2011年3月12日 (土)

無事でございます。

11日14時46分、会津若松市震度5強。めちゃくちゃに揺れました。長~い。怖かった。

広い7階のオフィスにたった一人、ぐらっと来て、ぐらぐらっと来て、ゆっさゆっさと来て、「冗談だろうー!」と叫びながら、ガーガーガー、ぐらぐら、左手には鶴ヶ城の天守閣が揺れて見えた。

ガシャーンと書類棚が落ち、パーテイションが屏風を折りたたんだように倒れて行く。「嘘だろう?」と思いながら、人ってこうやって死んだりするのかな、と思った。机の下に一人で隠れている内に、オフィスはメチャメチャになった。

でもなんとか無事でした。連絡の取れない中、妻と東京のこども達にショートメールを送る。なんとかつながり、無事は確認。

30階にいた息子は死ぬかと思ったと言いながら、電車もバスも頼らずにアパートに向かって4時間、歩き始めた。娘にはそのまま動かず会社に泊まれと指示。

一方職場には緊急対策本部を立ち上げ、必死の復旧に当たる。割れたガラスは約500枚、なんとか塞いで夜を越せるようにみんな頑張る。怪我人は一人もいない。それだけでも感謝だ。

娘は結局迎えに来てくれた友人に送られて朝の4時に息子と住むアパートへ戻った。私が元気な妻の顔を見たのは11時過ぎだった。

なにはともあれ家族全員無事だった。郡山の姉の家族も全員無事だった、ありがたい。

自分が生きている時にこんなすごい大災害に遭おうとは・・・。

現在、12日19時過ぎ。今日も一日、緊急対策本部へ。だが地震だけではなかった、、、、原発が大変な大大大変なことになっている福島県。

どうなるのだろう日本国?とりあえず無事な会津もこの先どうなるのかは、もう誰にもわからないほどの大災害だ。みんなで力を合わせるしか出来ることはない。

私ども無事でございます。もうなんとも頑張るしかないであります!

2011年3月11日 (金)

iPadから

今、膝の上にiPadというのを乗せて書いている。別に最先端を行こうとかいうのではないが、ものがあるので試しにやっている。
どうしてこんなものがネットにつながり、こんな事ができるのか、さっぱり分からないが優れものだという事は分かる。

横にすれば画面全体も横を向くし、指先で触れば反応し、広げればグーンと大きくなるし、縮めれば縮む。なんか、未来の機器を使っているような感じがするが、こちらは相変わらずのアナログ人間だ。
アナログではあるが、ブログを書いたり、本を買ったりは出来るだけ、まだいい方だろう。
おそらく使っている機器の一割も使いこなせていないのだが、なんとかコミュニケーションはとれる。

夕べNHKでインターネット放送の番組をやっていたが、誰もが情報を発信できて発言も出来る。一見、素晴らしい事のようだが、法律とか規制とか限度とか統制とか、そういうものは一体どうなってしまうのだろうと考えさせられた。
なんでも有り=自由というのとは少し違うのではないだろうか?

独裁者を倒せば民主的な社会が出来ると思うのは、勝手な幻想かもしれない。もっと混乱してしまい何の秩序もなく、ただ宗教や民族、部族間の抗争が果てしなく繰り返される混沌が続くだけなのかもしれないのだ。
インターネットそのものが混沌だ。それが引き起こす変化はますます世界を混沌の渦の中に引き込んでいくのかもしれない…ああ、コワッ!

映像も音楽もゲームも仕事も、何だってこの小さな薄っぺらなヤツで出来てしまう。(私は出来ないけど)
便利過ぎるのも困ったものだ!と、使いこなせないこいつを前に思っているわけである。

天気予報の寒さは木曜が底、確かに当たりのようで今朝は冷え込みもゆるかった。朝の同じ時間でも少し前とは光の量が全く違う。寒の戻りも、もう一、二回だろう。真っ白だった鶴ケ城の屋根、雪が消えて新しい赤瓦も顔を見せている。来週末には、会津に春を運ぶ彼岸獅子も近郷からやって来る。
会津は只今、本格的な春のドアをノック中、といった感じだろうか。

2011年3月10日 (木)

真っ黒な愛

昨日のつづきのような話だが、私はこどもの頃、病弱だった。お医者さんにお化け扁桃腺と言われるほどのよく腫れる扁桃腺持ちでしょっちゅう熱を出していた。

低学年の頃には腎臓で長期に学校を休んだこともある。おそらく出席日数は足らなかったのだが当時の事だ、適当に水増しして進級させてもらったらしい。しばらく、三ケタの真ん中にゼロの入る引き算のやり方が分らなかったのを覚えている。

高熱を出して「ひきつけ」も度々起こしたらしい。らしい、と言うのはひきつけの発作時は、本人には全く記憶がない。ふと気がつくと、夜中、枕元に往診に来てくれたY先生の禿げ頭が見えた。きょとんと目覚めた私を見て、両親も笑っていた。

ひきつけると歯を食いしばり、下手をすると舌を噛んで大怪我をしたり死んでしまったりすることもあるという。

初めてひきつけを起こした時、父はびっくりして自分の親指を私の口にねじ込んで舌を噛ませまいとしたらしい。こどもとはいえ、痙攣を起こしているのだからものすごい力だ。

何日か後に父の親指は内出血で真っ黒に変色した。申し訳ない気もしたがこどもなので「うぁー、すげー、気持ち悪いー」とか言って笑っていた。

以来、私が寝込むと枕元には必ず割り箸がおかれるようになった。ひきつけた時に口に突っ込むためだ。父も毎回指を突っ込むわけにはいかない。

最近、事件や災害でお子さんを突然失う悲しい報道があまりにも多い。人生、我が子に先立たれることほど辛い事もないだろう。どうかそんなことが少しでも少ない世の中であって欲しいと祈りたい。

親の愛は山よりも高く海よりも深いという・・・真っ黒な父の親指を思い出す度に、そんな言葉が心にしみる。

本日の会津は冬に逆戻り、朝の道路もテカテカだ。この寒さ木曜の今日が底らしい。週末は気温も上昇気味の予報だ。

2011年3月 9日 (水)

夢は不思議だ

父の夢を見た。夢に出てくるのは久しぶりの事だ。

先に母を亡くした時、居なくなったら夢に見るんだろうなぁ・・・と思ったが、さっぱり見なかった。起きている時は思い出すのだが、夢には全く出てこなかった。俺って案外薄情なんだ、と思ったりしたものだ。

夢に出てきたのは何年か後のことだ。父の時もそうだ。二人ともめったに夢には出てこない。そして出てきたとしても、主役ではなく脇役の様な感じばかりだ。

夕べもそうだった。母もシルエットと声で出ていたから珍しく二人共演の夢だった。

『お父ちゃんは待ってたんだよ』と母の声が聞こえる。すると苦虫をかみつぶしたような顔で父が現れた。あまりに久しぶりなので夢の中で『うおーっ、久しぶり!』と叫んでしまった。すると父は少しだけ嬉しそうな顔をしたが『どうして×月×日に来なかったんだ!』と一言。

何のことかわからないのに、行かなかったことをものすごく後悔した。ここが夢の不思議なところで、現実社会の大失敗の様にものすごく後悔し、うなされるほど胸が苦しい。『あー、ごめん!』と思って突然、目が覚めた。

「ああー、夢だったんだ」と、心からほっとする。しかし、父や母の心の痛み(なぜだかは分からないのだが)に触れたような気がして、自分の来し方を想い、なんとなく胸が痛くなる。

文学や芸術とは切っても切れないところにいるのが「夢」だ。三島由紀夫の小説には夢日記をつける青年が出てくる・・・もう、そんな夢の話を数え出したら古今東西無限大と言っていいだろう。

それだけ人は夢の中で何かを想う。それは目覚めている時よりも、ずっとずっと深く心の真ん中に触れるものなのだ。

泣く、うなされる、笑う、怒る、現実世界よりも激しく心がゆすぶられる。

子どもの時には扁桃腺が弱く、よく高熱を出した。寝込んで治る時にはいつも同じ夢を見た。銀行強盗か何か悪いことをして追いかけられるのだ。追われ追い詰められて『うわーっ!もうダメだ』と大汗をかいて目覚めると、決まって熱が下がっていた。追いつめられると治る、いつもそうだった。

会津若松市内・七日町にある常光寺、その寺のお墓が遊び場だった。墓地の南の端にひときわ大きなお墓があった。その壇の上から地面まで飛び降りられるか・・・思い切って『えい、やーっ!』と飛ぶと、地面がすうーっと遠ざかりいつまでも着かずに落ちていく『うわーっ!』と叫びながら目覚めると、決まっておねしょをしてたっけ。

夢は不思議だ。

2011年3月 8日 (火)

花粉症今だ来ず。

啓蟄は過ぎたが、会津の虫たちはまだまだ穴から這い出せない。とはいえ、真っ白だった田んぼのところどころが黒く現われてきている。少しでも地面が顔を出すと雪解けは進む。

が、今週末までは冬型低温の予報、今夜はまた雪だという。こういう時に『もうよっぱらだ!』と言う。もう沢山、もう嫌になってしまった!という、もうこりごり宣言だ。

この厳しい冬があるから会津の人々は忍耐強く勤勉なのだ、という説がある。私のように風土の影響をまるで受けていない人間もいるが、総じてはそう言えるのではなかろうか。お天道様の想いだけはいかんともし難い。忍耐とまでは行かなくても我慢する以外に道はない。

三月は三寒四温と言われるように、天候の変化が急で、意外とこの時期に体調を崩す人が多い。加えて花粉症がある。

10年ほど前から花粉症になった。二月頃の出張で東京あたりに行くと急にむずむずと来る。だが重症の人からすれば屁のようなものかもしれない。毎年三月、四月とクスリを飲んで抑えながら過ごせる程度だ。

今年はまだ飲んでいない。時々くしゃみが出るがまだ大丈夫だ。これはもしかすると黒酢のおかげかもしれない。毎朝野菜ジュースに黒酢を適当に垂らして、もう10ヶ月近く飲んでいる。

酢が花粉症に良いかどうかも知らないが、勝手に思っている。「今年は雪が多いからじゃないの?」と言われればそれもそうだと思う。ま、どちらの成果かは分らないが、朝起きて目の玉がむずむずしないのは嬉しい。

豪雪地帯で重度の花粉症と言うのも辛いだろうなぁ、と想像する。冬雪との闘いも辛いし春も来て欲しくないような、まさに『もうよっぱらだ!』の世界だろう。

今年はこのまま、花粉症が鳴りをひそめたまま、会津の春を歩んでいけたらいいのだが、さてどうなる事やら・・・。

2011年3月 7日 (月)

重箱の隅

政治家が外国人からお金をもらって売国行為をしては困る、から外国人からの献金は禁止されているのだろうが、あれがそれほどの事か?と思う。

別に前原さんを弁護するわけではないが、何でもかんでもヒステリックに絶対の善を求めるような風潮に何かとても異様なものを感じる。

大相撲の八百長問題、千何百年もまわしひとつで「ごっつあんです!」の世界に、六法全書を一字一句たがわずに当てはめようとしてもあまりにも無理があるのではないだろうか?

在日韓国人が政治家を応援してはいけないとは知らなかった、という話を鬼の首でも取ったかのように大騒ぎし、政治家そのものの資格まで問う話だろうか?

母親に負担をかけまいとカンニングした学生を吊るし上げて、監視体制については何の反省もしないのは悪いことではないのだろうか?

ひと昔前には、一億総芸能レポーター時代見たいなのがあったが、裁判員制度が始まってから一億総裁判官時代になってしまったかのようだ。

会津の古い教えに『ならぬことはならぬものです』という不変の真理を説いた言葉がある。確かにならぬことはならぬのだ、許されるものではない。

しかし、ならぬ事だからと言って結果、討ち首や獄門磔、何をしても良いという話ではない。ならぬ事をしたものを、どう処するかはその社会の成熟度が問われる問題だ。

人間社会は複雑で、すべてをクリアカットにちょん切るなんってことは出来ない。どこに落とし所を見つけるかというのも、人間ならではの知恵のなせる技、そういう部分があってこそ世の中はうまく回って行くものなのだ。

「あなたには外務大臣の資格なんてない、国会議員の資格さえない、議員辞職しなさい!」と、ヒステリックに道理を説く人の言葉には白けるばかり・・・その後ろにある下司な思惑が透けて見えている。

「もういい加減にして欲しい、重箱の隅突いてコップの中でケンカしている場合か?」と、思うのは決して私だけではないはずだ。

逆にここまで来るともう、中途半端はやめてぶっ壊れるだけぶっ壊れないとどうにもならないのかもしれない、とも思えてきた。

2011年3月 6日 (日)

終わりよければすべてよし

『終わりよければすべてよし~会津地方の終末期医療を考える』と言う催しが、日曜の午後に文化センターで行われたので、足を運んでみた。

会津地域の主な療養型の病院が発起人となり、初めて行われた会だそうだ。

会の前半では『終わりよければすべてよし』というドキュメンタリー映画の上映があり、その後、会津地方の現状を踏まえたシンポジウムが行われた。

わが国では8割以上の人々が病院で死を迎える。家で人は死ななくなったのだ。国はこれを在宅に戻していこうとしている。

欧米などでは病院で亡くなる方の率は低い。しかし、中味をよく見ると純粋に在宅と言うのはそれほど数字が変わらない。いわゆる中間の施設、「医療」ではなく「生活」の方に重きを置いた介護施設や老人ホームなどでの看取りが多いのだ。

核家族化が進み、夫婦共稼ぎが当り前の今の日本で、純粋に在宅での看取りを進めて行くのは簡単ではない。やはり日本も同様に、生活の場である様々な施設での看取りが増えていくと言う事だろう。

老人ホームや介護施設、療養型の病院での静かな、尊厳ある死を広げていく方向へ議論を活発化させて行くのが現実的で、求められている方向の様に感じた。

さて、どうやって死ぬかは誰にとっても重要な問題だ。人間は死亡率100%なのだからそれを避けて通れる人はいない。

年老いて病を得て、やがて死に向かう過程でひとつの大きな分岐点となるのが「胃ろう」という医療行為だ。モノが食べられなくなった時に直接胃に穴を開けて食べ物を送り込む、いわば強制的に生かす、という方法だ。

もちろん若い人で緊急的に胃ろうを造って生かすという場合もあるが、多くは高齢者の延命法として使われ、濃厚なミルクを流し込まれて生き長らえることになる。

欧州ではこの胃ろう造設自体が禁じられている国が少なくない。北欧などではある種の虐待行為とさえ捉えられている。

口からモノが入らなくなったら死ぬ、というのが動物の自然な死の形だ。後は水分を点滴する程度で枯れ木が倒れるように穏やかに死を迎えればいい。だが、日本人は長く生かされてしまう事が多いのだ。

国民医療費の増大は大きな課題だが、この「胃ろう」をどうするか、医療者も、哲学者も宗教者も含めた広い議論の上で、しっかりしたガイドラインを作って行くことが大切だと思う。

寝たきりの人を減らし、人の寿命を出来るだけ健康寿命(寝たきりにならない寿命)に近づけていくことが医療費に歯止めをかける近道の様な気がしてならない。

私がジイさんになって食えなくなったら、胃ろうはやっぱり遠慮したいと思う。それこそベッドサイドで軽く人生の慰労会でもやってもらえばそれでいい。

初めての催しはなかなかの盛況だった。『終わりよければすべてよし』・・・万人にとって大切な永遠のテーマであることは間違いがない。

2011年3月 5日 (土)

6センチ減

「腹囲が去年より6センチ減ってます」

「へえーっ」6センチ減っても完全にメタボの範疇だが、減っていると言われて悪い気はしない。成人病検診のひとコマだ。

先週の土曜に、テレビで見た呼吸法、これで半年で13㎏痩せた、とかいうのを真似て一週間やってたら6センチ減ったと言われたのだ。

ま、一週間前に比べてと言うことではないので単に去年はもっと太かっただけで、呼吸法の効果ではないかもしれない。

その呼吸法とは、立ってお尻を締めて3秒間思い切り息を吸って、それを一気に吐いて5秒間、それを6回。同じくお尻を締めてお腹を思いっきりへこませて思いっきり吸って、お腹をへこませたまま、お尻も締めたまま思いっきり吐く。それも6回。それだけ。

こんなので痩せたら苦労はないが、普段、思いっきり息を吸って吐いてと言うのをやってないだけに、やってみるとなんだか変化があるような気がする。第一、たったこれだけでも頭から汗が出る。

一気に息を吐き出す、と言うがやってみると簡単ではない。全部吐き切る、と言うのが難しい。吸い込むのも、きれいに吐かないと思い切って吸えない。

誰でも呼吸をしているのは当たり前だが、正しい呼吸法と言うのはきっとトレーニングをしないと出来ないのだろう。ヨガの達人や、武道の達人、高僧や仙人と言うのは、呼吸を自在にして、身体をコントロールできるのだろうと思う。

ちょっとテレビで見ただけで、なにを偉そうに!と言うやつだが、ちょっとばかし続けてみようと思う。

ひょっとすると、会津平の雪が消えてゴルフ場がオープンする頃には、ズボンがゆるゆる、上着がブカブカなんて事になるかもしれない・・・ないか。

2011年3月 4日 (金)

大人の対応

今朝の会津は氷点下6、7度、粉雪もうっすらと積もり真冬に逆戻りだ。この寒さも今日までと言うが、一度暖かくなってからの急降下はこたえる。

くだんのカンニング事件は、私の大掛りな犯罪組織の関与説はあえなく崩れ、たった一人のそれも人の良さそうな予備校生の仕業だったようだ。

これで、すべて自分が一人でやったのだと言って、もしも共犯者をかばっているのだとしたらそれはおそらく彼の大切な人で、話は恋愛ドラマに発展するかもしれない・・・またマンガの見過ぎか?

それにしても、捕まってほっとしたような気持で心から反省していると言っているのだから、なんだかかわいそうな気もする。

19歳の少年が潔くごめんなさいと言っているのだから、大人の側の対応も考えてしかるべきだ。

大学側は決められた手順でしっかり監視してきた、と自分たちの仕事の正統性を強調している。しかし、現に私がすべてやりましたと言っているのだ。せめて『受験の体制には万全を期してきたつもりだが、現実にこう言うことが起こっている以上、我々の側にも落ち度があったと言わざるを得ない。もしこうした行為を誘発させるような不備があったとすれば心からお詫びしたい』ぐらい言うのが大人の対応というものではないだろうか?

我々は間違っていない、責められるところはない、というような保身にばかり走るようでは、やった方もこどもだが、やられた方も大人げないと言わざるを得ない。

携帯であんなことが出来るということは誰も思いつかなかった。そこに落とし穴があったことは間違いない。

みんなで反省して、二度と起こらない、まじめな受験生がバカを見ない、一生懸命やった人間が報われる、そういう大学受験にしていけばいい話だ。

大人の側がしっかりと大人の対応をしないと、話はどんどんおかしな方向に行ってしまう。

2011年3月 3日 (木)

箸休め

四合瓶で2万円と言う超高級な日本酒を味わった。友人がたまたま手に入れたというのでご相伴にあずかった。

「うまいっ!」確かに。上には上があるものだと驚いた。濃厚だがサラッと、と言うのも変だが、味がしっかりしていて決してくどくない。ちゃんと15度あるのにアルコール度数が低いように感じるほどさわやかな飲み口だ。秀逸、お見事!県内産だが会津清酒ではないので悔しいから名前は書かない。

料理も久しぶりの店で確かに美味しく頂いた。

確かに・・・と書いたのは、運ばれる料理一品一品がすべてご馳走、いずれも美味しいのだが全体でひとつのコース(膳)というまとまりない、奇妙な感覚を味わったからだ。

目光りの南蛮漬け、新筍の焼き物、さくらの霜降り、ふぐ刺、焼き白子、牛ステーキ蕗味噌・・・、いずれも大ご馳走、旬も先取りしていて文句なく美味い。

だが、全体を交響曲とするなら盛り上がりっぱなしで、ふわっとしたハーモニーがない感じがした。全員が主役のバラバラ感、間をつなぐホッとする脇役がいない感じだ。

膳は始まりから終わりまで全体でひとつ、そこには全体をまとめ上げるコンダクターとしてのセンスも必要だ。

世の中も同じだろう。主役ばかりでは何事もまとまらない。脇や足元を固める、地味な役回りも必要、時にはほっと息の抜ける『箸休め』のようなキャラクターもなくてはならないというわけだ。

ま、美味しいものをたらふくいただいておいて、贅沢な話で申し訳ない。

日本酒も超一級、料理も一品一品大変美味しい。しかし、なんだか満足感と言うか登頂感と言うか、『ワンダホー!』の一言が出てこなかった。

やっぱり『ごっつおう』ばかりじゃダメ、時に『箸休め』も必要、と言うことに気付きのあった一夜であったということ・・・・美味しい会津の夜は何事も勉強になるなぁ。

2011年3月 2日 (水)

唸らずにはいられない

昨日までは比較的暖かかったが、会津は今日からまた冬型の気圧配置になるらしい。風がキーンと冷たい。

昨夕はストレッチに行った。はじめに10分ほどバイクをこいで身体を暖める。数名がマットの上、先生が前でリードしてくれる。

「無理をしないでくださーい、力を入れたり勢いをつけたりしないで、曲がるところまでゆっくり・・・」と、優しい声が響き渡る。曲がるところまで、と言ってもほとんど曲がっていない場合はどうするんだ?と、素朴な疑問。

「足を開いてー」とほぼ180度。60度ぐらいしか開かないと同じ事をやっているようにはとても見えない。がそれでも、ゆっくり伸ばすと血流が良くなる様で気持ちは良い。

伸ばしても、縮めても、いちいち「うっー、ぐうっ、くぁっ、ぐぁー」と言うようなうめき声が出てしまう。その度にクスッと笑い声が漏れる。恰好悪いので出さない方がいいのだが、抑えようと思っても自然に出てしまう。

先生が音もなくクニャっと曲がっているのは当然かも知れないが、生徒側からも呼吸の音はするけれど、うめき声なんか漏れない。

私一人が転がるたびに、伸びる度に、まぁ自分では言いたくないけれどトドのようにうめいてしまうのだ。ふざけているわけではないのだが、これが止めようと思っても止まらない。

考えてみると立つ時、座る時、寝ころぶ時、風呂につかる時、ほとんど何らかの声を発している。唸らずに風呂に入るなんて至難の業だ。「あー、どっこいしょ!」までは行かなくても涼しい顔して、無言・無音で動けなくなっていることに気付く。

「あー」とか「うー」とか年寄りはいちいちうるさい、とよく言うが、静かに動けると思っているのは自分だけかもしれない。

クルマに乗っても「よいしょ」、靴下はいても「ひーっ」、立って座って「どっこい」、ドアを開ける時に「ジャーン!」なんて擬音まで言ったりすることもある。

意識すれば出るものは止められる。

そう信じて疑っていなかったが、案外そうではない事に気付く。静かなたち振る舞いは難しい。

もう、忍者のように忍び込めない(そんな必要はないが)、抜き足差し足だって静かには出来ない、案外、こどもと同じで5分も大人しくしていられないかもしれない・・・。

ひょっとしたら唸らずに行動できない人???

運動をするといろいろな事に気付かされる今日この頃である。

2011年3月 1日 (火)

今なら大泣き

弥生・三月、卒業の季節だ。

卒業式について。幼稚園=覚えていない。小学校=よく覚えていない。中学校=あまり覚えていない。高校=うっすらとしか覚えていない。大学=式に出ていない。と全く情けない記憶状況だ。

♪卒業写真のあの人は、優しい目をしてた~♪などと言う、憧れの君も居た記憶はなく、泣いた記憶も全くない。どちらかと言うと、さあ次だ!みたいな高揚感の方が強かったように思う。(大学を終え京都を去る時は「北帰行」のような寂寥感が少しあったけれど・・・・。)

そうだ。何時だったか、年下のいとこ(男子)が中学校の卒業式で、ポロポロ泣いているのをみて驚いた記憶がある。私も小さい頃は泣き虫だったが、あんな若い時に泣いた記憶なんてなかったからだ。

映画や音楽で「涙が出る」と口にすることはあっても本当に涙がこぼれたことはなかった。

そんな泣いた事のない自分が泣いたのを覚えているのは35歳で母を亡くした時だ。もう出来ることはありません、と言われた時、夜明けの布団の中で流れる涙をこらえきれなかった。本当に亡くなってしまったらあまりにも悲しすぎて、自分でもびっくりした。

友人Yくんの御尊父の葬式を手伝った時のことだ。

亡くなった父親の友人がすがって泣くのを見た時に、それまで全く涙を見せなかったYくんが思わず泣き出した。ボロボロと大粒の涙をこぼした。

『Yくん、親のお葬式の涙ってね、ビールを飲み過ぎた時のおしっこと同じで、一度目が出ちゃうと、もう次から次と止めどなくなるもんだよ』と言ったことがある。例えがあまりに悪かったが、他に思い浮かばなかった。Y君は笑って、泣いていた。

母を送った頃から、悲しいことがあったり、感動したりすると涙がこぼれるようになった。それが近年、加齢も加わり、いっそう涙もろくなってきて困る。

同級生のTくんは、毎朝NHKの朝のテレビ小説を見て奥さんと二人で泣いているそうだ。あんなすごい顔(男らし過ぎる)してても泣くんだと思うと、寄る年波と言うのは誰にでも押し寄せるものだと納得できる。

もし今の私が、若松一中の、会津高等学校の卒業式に出たのならば・・・きっと、大泣きするんだろうなぁ。

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