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2010年12月

2010年12月31日 (金)

我が家の年越し

我が家の事なので「会津の年越し」とまではいえない。私が育ったのは市内の中心部、七日町辺りの習慣を受け継いでいる。

年越しにはざくざく、塩引き(塩鮭)、そして青豆が必須だ。ざくざくは郷土料理のこづゆと似た汁物だ。貝柱のだしで、大根、人参、里芋、きくらげなど、しょうゆ味のおつゆ、野菜の刻み方がこづゆと違い短冊切りだ。こづゆ椀ではなく、普通のお椀でいただく。

塩引きは、塩鮭が山国・会津で食べられる貴重な海の魚だった名残りだろう。年越しには必ず食べる山国のご馳走だ。

青豆は大豆の干した豆を水に戻してほっこり煮たもの、数の子を添える。

これが必須だが、これだけというわけではなく他は自由だ。フルーツ、サラダ、お刺身やカニ、とご馳走が並ぶ。

日も暮れた頃に風呂に入り身を清め、家長が家の周り四隅に清酒をまく。これはおそらくウチだけの風習だ。

この家を建てた時に拝んでもらった行者さんに言われた。「年に一度、家の東西南北に酒をまき土地を清めるといい」と。以来、大晦日の夕刻にもう二十数年も続けている。一升瓶一本、たっぷりとまくので元旦の朝の我が家は少々酒臭い。

さて、神棚、仏壇に年越しのお供えをし、手を合わせた後は、紅白歌合戦でも見ながらがっつり食べて飲むだけだ。

年越しそばは食べない。そばは元旦の朝にいただく。二日の朝が餅、三日の朝はとろろと決まっている。

そろそろ9時も過ぎた。雪は降ってはいない。時々雷が鳴っている。今年も、もう3時間ほどで明ける。

みなさんに良い一年が来ることを、そして我が家にも良い一年が訪れることを祈り、さあ、もう一杯いきますか!

2010年12月30日 (木)

優しさは平行線

もう彼は90歳を越えている。暮れには奥さんが緊急手術をして入院中、本人にもがんがある、こんなお年寄りに家で一人で年越しをさせるというのか!入院させて面倒見るのが当り前だろう、病院も自治体も一体何やってんだ!

と、只一人取り残されたおじいちゃんをなんとかしたいと思うのは、身内、親戚としては当然のことだろう。入院させて暖かいところで正月を迎えさせてあげたい、それが最低の福祉というものだ、と思うのは当然かもしれない。

ところが物事は一方から見ただけは分からない。何が優しくて、なにが正しいのかは、肝心の本人に聞いてみなければ分からない。

当のおじいちゃんは90歳を越えても、矍鑠(かくしゃく)としている。がんとは言っても、もう歳が歳、別に痛い辛いはない。古い家なのでトイレが大変だがなんとか行けるし、食事も一人で摂れる。ちょっとだけサポートしてもらえるなら、まだ、自分一人でしゃんと生きていけるのだ。

おじいちゃんとしては、ちょっと介助してもらえるのなら石にかじりついてもこの家で年越しをし、おばあちゃんの帰りを待ちたい。入院しましょうか、と言われてもそんなのは嫌で、なんとか自宅で年越ししたいというのが本音なのだ。

おじいちゃんをなんとか病院に入れて自分たちも安心して年越ししたい親戚一同。一方、なんとか踏ん張って2011年を自分の家で迎えたいと願うおじいちゃん、お互いを思いやりながらも優しさは平行線だ。

決めるのはおじいちゃん、それが「私の生きる道」なのだ!彼のやりたいようにしてあげる、それが一番良いのだが、難しい・・・。

さて、押し詰まった会津。雪かたしをしていると雪道を乗り越えて先輩が奥さんと共にクルマで現れた。「いやー、お歳暮がご年始になっちまうかと思ったわい!」と大笑い、いきなり降った山ほどの雪を見て、お互い笑うしかない。

大笑いして「良いお年を!」と言葉をかわす、12月30日の会津は穏やかに暮れて行く。

2010年12月29日 (水)

御用納め

「今年一年大変ご苦労様でした。来年もよろしくお願いいたします」と、最後のあいさつ回りをする。全部署を回ると結構な数、足が痛くなる。

〆飾りも飾り、門松もたった。正月を迎える準備は万端である。

今日が最後の営業日、昼の出前は豪華盤なところが多い。寿司、うなぎ、高級弁当、最後っ屁よろしく、パァーッと行きたい心理が働くのだろうか。

夕方にはピザやチキンなどが運び込まれて、ジュースやコーラで打ち上げが、そこここで行われる。

部署によってはラーメン屋の2階や食堂の一角で、アルコール入りでやる。こちらの打ち上げは低予算で持ち込み有り、と結構せこい。昼飯の豪華さとは対照的だ。もっともパァーッとやったのでは忘年会を2回やるみたいで、座りが悪い。

この小宴が終われば、一応、三日までの正月休みとなる。

我が家、昨晩は愚息が、そして今夜には愚娘が帰省する。今年もそれぞれ一人で、浮いた話もなさそうなところは寂しい。

一夜飾りはいけないといわれるので30日には、みんなで大掃除をして正月飾りもすませなくてはならない。

恒例の家族忘年会は明晩だ。先輩の店で年に一度だけ、家族全員の大好物・ふぐを味わう。豪華版だ。今年も全員無事で食べれたか・・・と、思うとちょっぴり幸せな気分になれる。てっさ、てっちり、焼き、ヒレ酒、雑炊と大いに楽しむ。

そして、遅い年賀状を書き、大晦日は紅白歌合戦という、変わらないいつものパターンだ。

昨日の会津若松市は一日中霧に包まれていた。気温が上がったせいだろう。街が一日中霧に包まれるようなことは極めて珍しい。

気温が上がるのは下がる前触れだそうだ。明日からはまた寒気に包まれ、正月二日頃までは荒れるという予報だ。寒さは構わないが雪はもう沢山だ。ぜひともほどほどにしていただいて、寒気の中で歓喜の新年を迎えたいと願っている。

みなさん、お疲れさまでした!

2010年12月28日 (火)

幸せの通り道

役所をはじめ、今日で御用納めのところが多い。この大雪のため街は徒歩通勤者が多く、朝から人が一杯歩いている。

昨朝の会津は、通勤で大混乱が起こった。喜多方から4時間、坂下から3時間、門田から2時間など大渋滞に巻き込まれた人々、やっと会社に着いたらクルマを置くところがない騒ぎだ。

それにしても市内の道はひどかった。凸凹がひどく、クルマもすれ違えない。「除雪の仕方がなってない!」とのブーイングが各地で巻き起こった。

除雪も技術だ。地球温暖化は、どうやら除雪技術の低下をも招いているようだ。除雪の初動によってその後の道路の走りやすさは全く違う。雪の深い地域ほど道路がきれいだったりするのだ。

嘘だと思うならこの大雪の中、一度、只見や裏磐梯に行ってみると良い。除雪の見事さに驚くはずだ。豪雪地帯では除雪の技術伝承が上手くいっているのだろう。案外、市内が一番悪路だったりする・・・。

除雪がなってないとすぐに「役所は何やってんだ、トップが悪い!」と行政に批判が集中する。観測史上最大の大雪では言われる方も可哀そうだが「どうせやるなら(除雪を)、ちゃんとやれ!」と、言いたくなるのもまた人情というものだ。

さて、暮れも押し詰まった28日、今日は気温も少し緩み陽も射すようだ。

この緩む一日は、年末年始の経済活動にとっては非常に重要だ。今日で街の機能が相当に回復すればなんとか賑やかな正月も迎えられる、というものだ。

除雪隊のみなさん、また市の関係者のみなさん、そして筋肉痛の皆々様、もうひと頑張りして良い年を迎えようではありませんか。

会津に来年の幸せがちゃんとやって来れるよう、通り道の雪をきれいにしましょう!

2010年12月27日 (月)

立ち往生雑感

高速道路全国のニュースを見ているとどうやら会津地方が一番大雪の様だ。若松も観測以来最大とか・・・凄いわけだ。国道49号線ではクルマが300台も立ち往生、24時間以上動けなくなったと全国ニュースのトップで報じられている。

立ち往生は辛い。私も過去に二度ほど経験がある。

一度は10年ほど前の正月豪雪の時、正月三日に降りしきる雪をついて友人たちといわきへゴルフに行った。早朝から雪だったが高速はOK。実は我々のクルマを最後に、通行止めになったのだ。あの時止めてくれれば行かなかったものを・・・。

いわきは雲ひとつない快晴、早々にゴルフを終え、雪がひどくならない内に会津に戻り新年会でもやろうということになった。すでにすごいことになっているのも知らないで。

郡山が近づくと磐梯熱海から吹雪のため通行止めとある。こういうときは行けるところまで行こうとしてはいけない。郡山で早々に降りて国道へ向うのが正解!とは、後になって学んだことだ。

磐梯熱海まで行っちゃえ、と行ったのが大間違い。高速から降りるだけで8時間もかかってしまったのだ。それから吹雪の中を走り、なんと家に着いたのは12時間後の朝だった。

隣りに友人のKくんがいたからまだ心強かったが、一人だったら大変だった。ガソリンは減るし、腹も減る。志田浜のセブンイレブンには食べものはマヨネーズとケチャップぐらいしか残っていなかった、すっからかんのコンビニ、とにかくすごかった。

もう1回は、春のお彼岸の猛吹雪。結婚式に出席したリステル猪苗代を午後3時に出て、普通ならわずか30分ほどの磐梯熱海の新年会会場まで9時間も立ち往生したのだ。あの時も助手席に友達がいたから、なんとか助かった。

会津に暮らすとこんなことばっかりあるのかと誤解されるといけないが、ない人は全くない。ただ、動き回る人は、少しはあるかな・・・。

立ち往生から学んだこと。

冬のお出かけは出来るだけ一人ではなく、道づれを連れていくように心がけた方がいい。それから、郡山ぐらいのドライブでも、ガソリンは一応満タンにし、飲み物、多少のお菓子なども仕入れた方がいい。トランクにはジャンバー、手袋、帽子、スコップ、そして、簡易トイレみたいのを放り込んでおけば女性もなんとかなる。

ま、吹雪に巻き込まれてしまえば、たとえ備えはあっても憂いはあるのだが、無いよりは、ずっとましだ。

もっとも、一番良いのは天気予報を信じて『荒れます!』と言う時には出掛けないのが一番ではある。

2010年12月26日 (日)

はっきり言って大雪です。

参りました、というほど雪が降った。1メートルだ。なんにもなかった街の全部に僅か2日で1メートルの雪が覆いかぶさるのだから、これはもう大変なことです。

朝の8時を過ぎても除雪車が来ない。ネットで調べると、JRも高速道路も止まっている。新聞は福島民報だけはきたが中央紙は来なかった。

とにかく、一回は除雪車に道をつけてもらわないことには、いくら4WD車でもこの雪道を突っ切って広い通りまで出るのは無理だ。こりゃぁ、かなりのマヒ状態といっていい。

8時半過ぎにようやく除雪車が来た。町内の人が一斉に出て雪を片づける。ウチの町内はまだそんなに高齢化が進んではいないが、高齢化の進んだ町内ではこの雪かたしが大変なのだ。

昼前にどうしても今日中に東京に帰らなければならない我が娘を乗せて駅まで行ってみることにする。町なかの除雪もこのドカ雪には間に合っていない。特に大きな交差点の凸凹がひどい、パリダカを走っているみたい。舌をかまないように。

昼には陽も差して青空も見えてきた。

駅には大勢の人がいた。タクシー乗り場には来ないタクシーを待つ人が並んでいる。15時ごろまでは運休、とネットにはあったが、とりあえず様子見で来てみたのが正解!1時頃に2本は郡山へ向かうという。急いで食糧、飲み物を仕入れ娘をそのまま電車に乗せた。

その後、発車までには除雪の追加などモタモタしたらしいが、3時過ぎには無事、郡山に着いたとメールが来た。

会津若松ー郡山間はわずかに50数㎞だ。が、その郡山はほとんど雪が積もらない。今回の大雪でも、郡山にはほんのうっすら、新幹線は何事もなかったかのように平常運転だ。郡山まで出てしまえば、会津の大雪がウソのようなのだ。

郡山から磐越西線に乗り、磐梯熱海を越え、国境の長いトンネルを抜けるとそこは会津という雪国、親父が雪かたしに大汗をかいているわけだ。

さて、明日は年末の月曜、この雪をものともせず年の瀬を乗り切る、それでこそ会津人というものです。

2010年12月25日 (土)

いきなり別世界

「今夜は少しは積もるかね~」ほろ酔いのタクシーの中でそんなことを言いながらイブの夜は更けた。

明けてクリスマス当日。予想通り降りました。それも結構・・・27センチぐらいは積もっている。これは朝から雪かきで一汗かかなきゃと覚悟、この冬、初の雪かたしだ。

スノーダンプ、雪ハネ、スコップ、道具を引っ張り出して始動、でも、なんだか雪がねっぱってどうにもやりにくい。

こんなことは分かっているのだ!雪の降る前にちゃんと道具を出して点検、雪が粘りつかないようにラッカースプレーでもして備えておかなくてはならない。それが雪国の流儀だ。分かっているのに毎年毎年、雪が降ってからやっときゃよかったと思う。なまけ者め、おまけにスノーダンプ割れます!

それにしても予想外に多い雪、片づける先から降って来る。大汗をかいた。足を踏ん張るので折れた小指も疼く。それにしてもよく降る、というか降りすぎの感じ・・・。

大雪警報発令、気温も真冬日のまま、昼までにはさらに30センチも降った。新品のスノーダンプと雪ハネを購入(痛い出費7000円)、ついでに正月用にちょっと奮発し純米吟醸も購入す。

全く雪のなかった昨日までとは、一夜にして別世界だ。それにしてもちょっとやりすぎじゃないか!と、またも天に向かって文句を言ってしまう。

当たり前だが雪は止んでも消えない。初積雪が根雪、もう春まで会津は雪の中だ。雪との格闘が続く、いや戦ってばかりもいられない。時には愛でたり、遊んだりと雪を楽しむ心も持っていなくてはやっていられない。

それにしてもまぁ、よく降ります。このまま今夜も降り続いたら、会津はちょっとマヒだ。いきなり豪雪はねぇだろう・・・もう80センチも積もっているぞ!

本日、もうすでに3回も雪かたしをしています。ふぅ~。

2010年12月24日 (金)

遠い日のクリスマス

小さな頃、家業はお菓子屋でクリスマスにはケーキを作っていた。叔父家族と2世帯で暮らし、父だけは役人だったのだが、家業は叔父が取り仕切り、母も叔母も一緒に忙しく働いていた。

クリスマスが近づくとまさにてんてこ舞いの忙しさだった。

半世紀近く前のことだ。機械化される工程など何一つなく、すべてが手作りで、大勢の人が働いていた。あの頃は生クリームのケーキなんか無く、バタークリームのケーキを作っていた。予約注文や当日分などイブめがけて一斉に作る、冷蔵倉庫などあるわけもなく保存が効かないから、とにかく寝ずに作るしかない。

なんだか大人たちも気が立っていて、こどもが手伝うどころの話ではない。おとなしくしているのが最大のお手伝いだった。

周りの絵本やラジオ、テレビはクリスマスのロマンチックなお話が一杯だった。店先には電飾がまたたいて、外には粉雪が舞い踊っている。どこからか鈴の音が聞こえてきそうなそんな夜の間中、我が家では工場(こうば)から忙しそうな音が響いていた。

イブには朝からお客さんが大勢やってきて山のようなケーキが飛ぶように売れた。叔父さんたちは朝からどんどん追加に追われる。

まだ、会津でケーキを作っている店がほんの少ししかなかった頃のことだから、とにかく大変な騒ぎだった。

戦場のようなメリークリスマスが終わると、こども心にもホッとしたものだ。クリスマスが終わってお正月までのほんのひと息、大人たちも大仕事を成し終え、ゆったりと優しくなったように思えた。

あんなに忙しい中でもクリスマスのプレゼントはちゃんともらった。家庭盤といういろんなゲームの詰まった箱、父や母にゲームの相手をせがむわがままは、クリスマスが終わって初めて許される贅沢だった。

さて、本日クリスマスイブの会津・・・。時折大粒の湿った雪が降りしきる。気温も少しずつ下がっているようだ。やがて細かな雪に変わり、夜にはきれいなホワイトクリスマスとなりそうだ。

2010年12月23日 (木)

足る豊かさ

昨晩の会津は師走の夜、一番の賑わいを見せたようだ。

クリスマスにお父さんがちょび髭メガネの扮装で酔っ払って歩いていたのは昔の話だ。24日のイブは家族サービスもしくは愛する人と・・・と相場が決まっている。出歩く人もあまりいなければ、忘年会や会合もセットされない。

そこから行くと23日が天皇誕生日の休日になってからは、その前日の22日が忘年会一番のピーク日という事になっているらしい。

久しぶりに東山行きも渋滞したとタクシーの運転手さんが言っていた。

今から30年ほど前までは、12月の土曜の夕方ともなると東山温泉に向かうクルマで大渋滞が毎週起きていた。翌朝も下りの大渋滞、そうした東山温泉の渋滞緩和のために武家屋敷前の道路が2車線に拡幅されたわけだが、今となっては本当にあんな立派な道路が必要だったのか、分からない。

景気というものは浮き沈みを繰り返すものだが、この後、いくら良くなっても、もう二度とあの頃のバブル期の様な狂乱が戻ることはない。

どんどん稼いで、どんどん豊かになる!

きっと今、お隣の中国の人々などそうした夢に酔いしれているのだろう。そのパワーに日本は圧倒されている。確かに十数億人の津波には圧倒されるが、あれも所詮はバブルでしかない。

大切なのは、バブルの中で何を学んだかという事だ。どんどん稼いでも、どんどん豊かにはならなかった。

果てしない欲望は、どこまでも崩れ落ちていく蟻地獄の砂の様なもので、拝金主義の行きつく先は、国の在り方までも危うくしてしまう。

得る豊かさから、足る豊かさへ、どこかでチェンジしていかなければ人間の社会も、この地球環境そのものも持たないという現実だ。

「知足」・・・その大切さを大昔から賢人は説いていた。だが、凡人、凡夫が思い知るのは本当に難しいことだ。

2010年12月22日 (水)

抜けが悪い

毎年12月に風邪をひいてしまう。忘年会疲れなのか、情けないが具合が悪くなってしまう。それも、具合の悪いのが1日ぐらいだったのが、2日になり、3日になり、次第に治るのに時間がかかるようになっている。

なんとも抜けが悪い、確実に衰えている証拠だろう。日曜に点滴し、一日寝ていたが水曜の今日になってもまぁだ調子が悪い。

普通の人はマスクでもしていれば顔色が悪いのもあまり分からないが、私の場合、マスクで隠しても、でこちんの艶が無くなるので丸わかりだ。元気な時は脂もほど良く色艶がいい、要するに艶々光っている。

これはまぁ、不思議なもので如実である。人間、いくら気合いを入れて元気なふりしても、肌の色艶まではコントロールできないものだ。汗をかいても冷や汗にしかならない感じだ。

健康は大事だ!と風邪をひいただけでも思い知る。生気が無くなると正気も精気もなくなり、盛期でもなくなってしまう。要は気力が萎えて、どうでもよくなってしまう。

このことを毎年暮れに思い知らされて、正月を迎えるというのがこのところ続いている。これは天の啓示なのかもしれないと素直に思って、健康には留意することにしたい。

今日で3日、酒に口をつける気にもならない。

どうやら峠は越えた様で今夜あたりは飲みたくなりそうだ。が、今夜は家人の忘年会である。「迎えに来るように!」と仰せつかっている。今夜は素直にアッシー君になって、ゆず湯につかることにしよう。

会津は朝から土砂降りの雨。この雨が抜けると気温が急降下し、明後日辺りからクリスマス寒波となる予報だ。ホワイトクリスマス、程度で止めて欲しいものだが、なんだかドカッと来そうな気がする・・・。

2010年12月21日 (火)

手詰まり てづくり舞台

会津若松市では「市民てづくり舞台」というものを、これまでに5度行ってきた。市内には様々な劇団やサークル、音楽や舞踊などを趣味とする人が数多くいる。そうした人々の力を結集しひとつの舞台を作り上げ、地域文化の活力にしていこうという試みだ。

第1回は平成7年に行われた「早春賦」。脚本が一般公募され、長州と会津の男女が恩讐を超えて結ばれるという物語が大いに話題となった。

第2回は平成11年、「虹の譜~坂東の会津人・松江豊寿」、有名な日本初の第九の物語、この作品は指名による脚本となった。

第3回は平成14年「おけいの譜が聴こえる」、再び脚本が一般公募され日本初のアメリカ移民、薄幸の少女・おけいの物語が選ばれた。

そして第4回平成17年に一般公募された脚本に私の書いた「ザ・ゴールデン・デイズ~大山捨松の生涯」が選ばれたのである。(ちなみに大好評・・・自画自賛)

そして第5回は平成20年、これは公募した制作班による共同脚本となった「緋の衣の詩~北のりんご花咲く」、戊辰戦争後北海道に渡った人々の労苦を民謡などを織り込み、ミュージカル仕立てで演じた。

そして今、第6回をどうするかというところに来ている。私も第4回で参加した縁もあり準備委員会などに何度か呼ばれている。

これまでかかわって来た人々が集まって様々な意見を出しあっているが、正直なところ従来の「お芝居作り」は限界にきているようだ。演劇となれば各劇団が力を合わせることになるが、その調整も難しい。また、演劇という切り口だけでは新しい展開は望めそうもない。

今回は、演劇という枠にこだわらずに様々な分野の在会アーティストの力を結集した総合芸術的な舞台にできればいい・・・というような漠然とした案が出ているものの、そこからなかなか話は進んでいかない。

文化振興財団では平成24年9月には、やりたいとケツだけは目標を定めている。しかし、道は相当に険しい。

会津には才能豊かな若者がまだまだ大勢いるはずだ。そういう人たちがなぜか表舞台に出て来てくれない。

先生とよばれる人、経験者、有識者、みたいな人ばかりを集めて鳩首会談を続けても、結局、新しいものが生まれるとは思えない。

ここはひとつ、主導権を若い人々に譲り渡す事が肝心なのではなかろうかと思う。これは!と才能のある人々を一本釣りし、思い切りやれる下地作りをし、主導権を預けた方が良いように思う。

段取り、調整、手続きなど・・・そんな筋論ばかりの中から真の芸術は生まれまい、爆発もしないだろう。

我々ロートルは喜んで応援団に回るので、才能あふれる若者たちにぜひとも出て来て欲しいと私は願っている。

2010年12月20日 (月)

素敵なクリスマス

「これが楽しみで~」車いすに乗ったTさんは、毛糸の帽子を外してそう言った。すっかり痩せて、老けこんでいる。それでも笑って挨拶をしてくれた。

がんの手術をしてもうそろそろ1ヶ月、放射線治療に通っているという。その車いすを押しているのは10年以上も別居状態だった奥さんだ。もうとうの昔に気持ちの整理をつけた夫が、がんと分って奥さんは、仕方ない、と言いながらも面倒を見ている。

奥さんに押されての放射線治療、その唯一の外出が楽しみだという。運動神経抜群、豪快でやんちゃで、怖いもの知らずだったTさんは、大分小さくなった。

『禍福はあざなえる縄の如し』と言うが、世の中どんな風に変わっていくか誰にも分からない。自分の人生だもの、自分の考えってものがあるんだもの、俺は俺だ!と思っていても、その自分というものさえどんなふうに変わるのかは、分らないものなのだ。

病を得たTさんは決して幸福ではないだろう。しかし、もう二度と交わるはずもないと思っていた奥さんと人生がまた再び交叉して、それまでは気付くはずもない小さな出来事に深い満足と感謝の心を見つけている自分に気付く。これをすべて禍ということは出来ないだろう。

『絶望なんて言葉は本当はないんだ。たとえひとつの望みがついえても、また新しい希望の芽を見つけることが出来る、それが人間なんだ・・・』(音と光のページェント「會津」より)

マトリョーシカというロシアの人形がある。次から次と、どんどん人形が出てくるあれだ。人形は皆同じ顔をして微笑んでいる。それを小さいとみるか、大きいとみるかは人の心だ。まして大きいだけがいいとは限らない。

今週はクリスマスの週、会津の街なかもクリスマスの色合いが濃くなってきた。

クリスマスにはさまざまな奇跡が起こる。ひょっとして今年のクリスマス、Tさんにとっては案外素敵なクリスマスなのかもしれない・・・。

2010年12月19日 (日)

声に出せば楽になる

夜半に猛烈な寒気に襲われた。インフルエンザの予防注射はしているものの、これはやばいかな、と覚悟した。

熟睡できずに開けた日曜の朝、熱もある。幸い今日の当番医は友人のT先生だ。朝一でクリニックへ。すぐに検査した。幸いインフルエンザはセーフ、「ただの風邪だな。点滴でもやっか?」と、お茶でもどうぞみたいに言われて、唇もかっぱかっぱなので1本よばれた。

ベッドで点滴していると、隣のベッドに猛烈な腹痛を訴える男性が転がり込んできた。居ても立っても居られない痛みらしい、身体の置きどころがなく「痛てー、痛てー、うぅー、痛でー」と、こどもみたいに唸っている。奥さんもおろおろするばかり背中をさする音がする、辛そうだ。

「ハイ、ここは?ここは?・・・超音波で・・・かなり・・・」などと唸り声の向こうで断片的なやり取りが聞こえる。

どうやら石のようだ。尿管結石かな?石は本当に痛いらしい、何人か石持ちの友人がいるが、あの痛さは言葉に出来ないという。

確かに隣りの男性、かわいそうなぐらいに痛そうだ。痛い時は声に出すしかないのだろう、「痛でー」と言えばほんの少しは楽になる。私を気にせず、どうぞ好きなだけ叫んでくださいと言いたくなった。

友人のSくん、やはり尿管結石で唸っている時に看護婦さんに「お産はこの10倍は痛いんだから・・・」と諭されたという。「あの10倍痛かったら男は確実に死ぬな、女の人はすごいよ」と妙なところで感心してたっけ。

そうこうしている内に点滴も終わった。

点滴に加えて「痛い、痛い」の唸り声を聞いている内に、なんだかこっちは大したことねぇや、と思えてきた。帰って、少し寝れば治るだろう、そんな気持ちでクリニックを後にした。

穏やかに晴れ渡った会津、年の瀬も押し詰まった大切な日曜日だ。今日は新潟にでも行ってみようと思っていたが全部流れた。家人も次週のパーティに着ていくものでも見たかったのだろうが、残念でした。

「あー、おもしゃぐねー!」声に出してみればストレスも少しは発散できるかもしれない。

2010年12月18日 (土)

永遠のはじめ

『永遠(とわ)のはじめ~会津酒蔵物語』・・・「YOU」(集英社)という女性漫画誌に連載されているマンガだ。その作家の松尾しよりさんとご一緒させていただく機会があった。

松尾さんはすでに何度も会津を訪れており応援者も多い。今回はコミック第一巻の発売を記念しリオン・ドールさんでのサイン会に招かれたそうだ。

場所は会津を代表する老舗旅館・東山温泉「向瀧」、登録文化財の建物はいつ来ても渋い佇まいだ。膳もいい、サービスもいい、やっぱり大切なお客様はここだな、と改めて感じ入った。

で、松尾さん、もちろん女性です。

会津清酒をテーマにするくらいなので心から日本酒を愛してらっしゃるのが良く分かる。なぜって、あんなにおいしそうに、嬉しそうに飲む女性、そうはいない。

福々しいお顔のつぶらな瞳がますます優しくなって、見てるだけでこっちも笑顔になってしまう。ほぼ徹夜明けとはおっしゃっていたが、強烈なハッピーオーラが出ていた。

私はこどもの頃は貸本屋小僧だった。基本的な国語力はマンガで身に付けたと言って良い。最近は、時々大人買いしたり、「風の大地」や「黄昏流星群」を立ち読みする程度だ。

女性漫画というのは読んだことがない。まして会津の酒がテーマになっているとは知らなかった。

帰宅して一気に読んだ。正直申し上げて、物語のスピード感、展開の妙、斬新な画面構成など、ちょっと驚かされた。最近のマンガって変わってきているんだな、と思った。

なにせ「風の大地」なんて、ゴルフ1試合終わるのに1年半ぐらいかかる。

うまくは言えないが、「水戸黄門」の大好きなジイさんが展開の早いドラマになかなかついていけない、そんな感じがちょっとだけ分った様な気がした。

どこまでも明るく、くじけない会津女性の登和、戦争で視力を失った創の手足となり、幻の酒造米・京の華を蘇らせて酒を醸す、その険しい道の先に待っている「永遠のはじめ」 一体どんな味がするのだろうか・・・?

ちなみに昨晩は、栄川の純米大吟醸、砡、で酩酊いたしました。栄川の砡、冷やして飲むのが一般的ですが、実はお燗も良いのです。ぜひ、お試しあれ。

松尾しよりさん、今後の展開、続きを大いに楽しみにしています。あまり飲み過ぎずに健康に留意され、素敵な作品をよろしくお願いします!

2010年12月17日 (金)

話してみないと

人は人に合わせて様々な話をする。相手に合わせ、相手との掛け合いの中で様々な方向に話は広がり、展開していく。

「あれ?なんでこんな話になったんだっけ?そうだそうだ、海老蔵→テキーラ→サボテン→肌荒れ→コラーゲン→更年期だ。海老蔵からどこまで行くかは互いの引き出しの豊かさによる。果てしなく広がる会話は楽しい、最高の酒の肴だ。

人はそれぞれの仕事や専門分野に強いのは当然だ。だが、それ以外の部分がどれだけ広いかで人間のスケールがうかがい知れる。

なんとかバカ一代、というのはそれはそれで素晴らしいことだが、それだけの人よりは趣味や興味の範囲が広い人の方がやはり魅力的に映る。

医学や工学、化学の権威者が芸術やスポーツ、武道など全く違った分野の一面を見せた時、その人の深みというものを感じる。

逆に肝心の専門分野すらも大したことがないくせに、周辺ばっかりの人もいる。こういう人に限って全般に薄っぺらで、スケール感、深みに欠ける。私などは、どうも、そのくちだ。

一方、相手が誰であれ、自分の言いたい事ばかり言う人がいる。相手が興味を示している・いない、楽しそう・退屈そう、などお構いなしで大体が自慢話だ。KY(空気が読めない)ではなくて読もうとさえしないタイプだ。

自慢話は、している人はかなり楽しい。が、たとえ「へーえぇ」と感心しても、聞かされている方はすぐに厭きる。

悲しいかな、自慢話よりは人の不幸の方がずっと面白い、それが人の「性」なのだ。

十二月、いろいろな席で(宴席が圧倒的に多いが)多くの人に会い、話しをする。お酒も入れば裃脱いで本音もポロリと飛び出し、思いかけない一面が垣間見えることもある。

見直した人、改めて感心した人、呆れた人・・・さまざまだが、やっぱり人は話してみないと分らないものだ、とつくづく思う次第である。

今朝の会津はようやくうっすらと雪化粧。薄い雪をかぶった山々が墨絵の世界に一変していた。白と黒のコントラスト、雪の朝は美しい。

2010年12月16日 (木)

置いてきぼり

北日本各地で寒波、大雪のニュースが伝えられているが、なぜかまだ会津には雪がやってこない。来て欲しいという訳ではないのだが、来る来ると言われて来ないと肩透かしを食わされたような気になるから不思議だ。

ちらっと風に飛んで来たような雪を一瞬見たが、ちゃんとした初雪もまだのような気がする。雪が降って欲しいわけではないのだが、なんとなく変な感じだ。

朝起きると街中が真っ白になってる。

「いやー、とうとう来たね」「遂に降りましたねぇ~」そん会話があってなんとなく季節が落ち着いたという感じがするものだ。あきらめもついて、なんとなく座りがいい。

季節はそれなりに、順調に、普通に移り行くのが一番いい。

雪が少ないと喜んでみても、それでは田に害虫が出たり水不足が起こるなど、結局は都合の悪いことが順送りされるだけだ。

師走は早くも折り返しだ。北からは大雪、寒波の報しきり、一方、見上げる会津の空は青く、冬の陽が射しこんでいる。確かに気温は低いが、どことなく冬将軍に置いてきぼりをくらっているような、そんな感じのする午後だ。

2010年12月15日 (水)

それでは・・・の向こう側

ご参会の皆さまのご健勝とご多幸、会津の益々の発展を祈念いたしまして高らかに盃を上げたいと思います。それでは・・・。

今年一年本当にお疲れさまでした。今年一年の厄と邪気を払い、来る年がすばらしい一年となります事を祈念いたしまして声高らかに乾杯したいと思います。それでは・・・

足を肩幅に開いてしっかりと踏ん張る。上げた手は手のひらを前に見せてはいけない。それではお手上げ、降参バンザイだ。上方にやや逆八の字に開くように、手のひらを内側に向けて、元気よくバンザーイといきたいと思います。それでは・・・・。

一本〆は三三七拍子を一回、パーンで〆るのは一発〆、ここは一本で〆させていただきたいと思います。それでは・・・。

もう間もなくお目出度いお正月を迎えますので、ここはひとつ元気よく三本〆と参りたいと思います。それでは・・・・。

それでは・・・・それでは・・・・それでは・・・・

もういくつ「それでは・・・」をやれば、お正月が来るの?

お正月には酒控え、胃を安らげてあげましょう。(出来っこないけど)早く来い来い、お正月!

2010年12月14日 (火)

迷える新そば

貸切のワゴンタクシーは8人を乗せて暗い山道を深く深く分け入って行った。もう周りには民家も見えない、どこを走っているのかもよく分らない。突如、暗闇の中に通行止めの大きな看板「なんだぁー?ここ違うじゃない、これは一の木へ行く道で通行止めだよ。俺たちは宮古に行くんだよ、オイオイ、オイ!」

運転手は焦ってUターン、すいません、すいませんを繰り返しながら山道を慌てて下って行く。

なんとまあ、間違いも甚だしい。いくら暗い山道だとはいえ、道は二本しかない。間違ったら引き返すしかない。途中で気が付いてもよさそうなもんだが行き止まりまで来てしまった。軽く小1時間はロスだ。

クルマにはナビもなく、そのあともかなり迷って、そばの里・宮古に辿りついた頃には予約時間を1時間も過ぎていた。タクシーにあらかじめ宮古行きをお願いしてたのにちゃんと宮古に着かなきゃ、いくら暗い道でもやっぱり駄目でしょう、プロなんだもの。

さて、そんなトラブルには見舞われたものの、やっぱり宮古のそばは最高だった。

山都町宮古地区、飯豊山麓の集落で採れるそばは国内でも最高の品質を誇る。朝霧夕霧に抱かれ育つそばは香り高く、あま味、うま味、のど越し、どれもこれも一級、じいちゃん、ばあちゃんのそば打ちの技も見事だ。

今年は「そば処・権三郎」だ。

煮豆やキノコ、山菜など山の幸たっぷりの田舎膳でまずは軽くスタート、酒を流し込み、いい具合に嬉しくなる。

ここでの注意はいくら腹が減っていてもあんまり食べすぎない、飲みすぎないことだ。ヤマメの塩焼き、天ぷら、和え物など、そばの前のお膳はボリュウムたっぷり、調子に乗って食べると肝心のそばが入らなくなる。

酔いもいい感じに回った頃にいよいよ、そばだ!

まず初めに水そばが出る。山の湧き水にゆでたてのそばを浮かべただけ。何のごまかしも効かないそばそのものの香りと味を楽しむ。そば通にはたまらない・・・らしいが私は少したれがあった方がやっぱりうまい。

水そばに山塩を振る、これは初めて食べたが、そばのあま味が引き立ってなかなかのものだ。

続いてざるそば、こりゃぁうまいの一言だ。水そばよりは若干太い、が太すぎることはない。こんなにおいしいそばは、やっぱりここまで来なければ味わうことは出来ない。

食べられるのであれば、何枚でもお代わり自由だが、せいぜい1枚半ぐらいが限界、それ以上頑張ると後が苦しい。

おバカな約2名はお膳も完食の上、そばを3枚食べて動けなくなった。『いい歳してそんなに食うバカいどこにいる!』 まるで子どもだ。

およそ2時間、宮古の新そばを心行くまで堪能し、タクシーは帰路についた。さすがに帰り道は迷うことはなかったが、酔っ払いの嫌みジョークは容赦がなかった。

会津若松市から往復3時間はたっぷりかかる。しかし、時間をかけ、クルマ代をかけてでも行く価値は十分にある宮古の新そばでありました。

これにて、本年の新そば会はすべて終了でござりまする!

2010年12月13日 (月)

師走の昼下がり

師走の日曜日、遠来の友と三人、蕎麦屋で昼間から酒をいただく。慌ただしさから逃れた至福の贅沢だ。肌寒かったのでまずは末廣の山廃を燗酒で一本、腹に沁み渡る。外は薄曇りで妙に静かだ。

今日のメインは会津娘・山田錦使用の純米吟醸、実にいい出来だ。薫りも良い、飲み口も良い。あらかじめ四合瓶を冷やしておいてもらい、楽しんだ。

ニシンの山椒漬け、きのこの山かけ、郷土料理のこづゆは貝柱の出汁が効いていい味だ。天ぷらとだし巻き玉子、さらにに榮川の龍が沢も冷やで飲ってみる。これは腰のある味わいだ。すっかりいい気持になって、昔話に花が咲く。

さらっと1時間強、ま、蕎麦屋の酒盛りはこの辺りがいいところだ。自覚はないがこの辺になるとかなり声も大きくなっていて、ほかのお客さんにも迷惑ってやつだ。

上がりに新そばのざるをいただく、ゆでたてのそばがつやつやと光っている。ズルズルっと一気にいってご馳走様、そば湯も美味い。腹も充分に膨れた。

さて、ここから池波正太郎よろしく、オヤジどもは散歩をする・・・城跡を散策し、街なかではスズツネ辺りでコロッケの買い食いなどし、辰泉酒造ではもっ切りを一杯やる。さらに街中を徘徊し、陽が傾いた頃にうなぎ屋の暖簾をくぐる・・・そんな感じで城下町の昼下がりを楽しむのも悪くない。

が、遠来の友はなぜかそわそわして落ち着かない。帰りの電車が気にかかるのであろう。

いやいや、角を曲がった辺りに誰かを待たしているのかもしれない、ひょっとしたら白い襟足の紬のひとだったりして・・・・ま、んなわけはないが野暮は言いっこなし、またの再会を期して三人は三方に別れた。

城下町・会津若松、師走半ばの日曜の午後、美味しい蕎麦屋は城前の「かやの」という。

2010年12月12日 (日)

あんつぁまになれない

あんつぁまになれない=大人になれない、会津弁だ。あんつぁま=兄様から来てるのだろう

「まったぐもぅ。おめはいつまでたっても、あんつぁまにならんにぇのなぁ・・・」=まったく、君はいつまでたっても大人になれないなぁ・・・。

という感じだが、自分を振り返ってまさにその通りだ、と反省することが多い。

人は建前と本音で生きている。時にそれを使い分けて生きている(生きなければならないことがある)それをほじくり返しても意味はない。

ウソを言うにはウソを言わなければならないだけの意味がある。ウソとまでは言わなくても知らんぷりしてしらばっくれるのには、それなりの訳があるのだ。それをいたずらにほじくり返すのは決して、あんつぁまとは言えない。

人の付き合いはいろいろある。裃をつけたような付き合い、スーツにネクタイの付き合い、普段着の付き合い、裸の付き合い・・・それぞれに節度とあんつぁま度が問われる。

裃やスーツの時には腹の探り合いもあろうが、普段着や裸の友人や同級生ともなると何一つ包み隠さず、しらばっくれるのは水臭いと思ってしまいがち。だが、馬齢を重ね、様々なしがらみや立場というものが苔のように身に付いてくると、そんな青春ドラマのようにシンプルなことばかりではないのだ。

時にはウソやしらばっくれなければならないのは、致し方ないこともある。そういう時にはあんつぁまになって分かってあげなくてはならない。

「そうだったのか・・・・」彼は分かっていてしらばっくれていたんだ。後で思い知らされる。

なんだか一人だけ取り残されたような、二人の間の地面にひびが入った様なそんな淋しさが漂う、そんなことが時々ある。

みんなちゃんとあんつぁまになってる、いづまでも、あんつぁまにならんにぇのは、おめだげだがら・・・そろそろアラ還なのに、これでは困ったもんだ。

2010年12月11日 (土)

誰かいませんか?

もう財政状態もガタガタの会社、潜在能力は高いが、その上にあぐらをかいて今やもう青息吐息状態。そんな会社を誰が引き受けようとするのか?また、引き受けたとしても並みの能力で本当に再建ができるのだろうか?

ガタガタの会社は言いすぎかもしれないが、それが今の会津若松市だ。財政再建団体になりかねないほど財政状況が悪い。

現市長さんはまちづくりに一定の道筋をつけたとして引退するが、神明通りの中合問題、城前住宅、県立病院の跡地などなど、まちづくりの難問は山積みのようにしか思えない。

市長候補者には幾人かの名前が上がっている。それぞれに立派な人だと思うが、議員や公務員の感覚でつぶれかけた会社を立て直せるかどうかは、なんとなく疑わしい。良い人だけでは心もとない。

ちっともときめかないこの感覚はなぜなのか?

それは候補者がまちなかの勢力争いの駒にしか見えないからだ。あの一派が推す、この一派が推す旗印であって、たとえそれがAだろうがBだろうが選挙に勝てれば誰だっていいようにしか見えない。

そして、そんな選挙の延長で選ばれた首長が会津をガラリと変えられるようにはとても思えない。

もう何年も前に亡くなった政治家の名前が今も会津では生きている。ナニナニ派、アッチ派、なる言葉が今も残る。

つぶれかけているものの自治体だからつぶれないように見えているだけだ。勢力争いしている余裕などはない。

すべての人々が超党派で推せる人はいないものなのか?市民がひとつになって熱狂して推せるような人は出ないのだろうか?そんなことを夢見てしまう。

それには、男性ではなくて女性が良いように思うのだけれど・・・。

2010年12月10日 (金)

頭だけ見える

仕切り越しにきれいな白い肌が見えている。柔らかな表情、美しい横顔だ。首から下は隠れて見えない。どんなスタイルで魅力的なボディなのかよくは分らないが、想像が広がる。きっと素敵な人に違いない・・・。

師走の鶴ヶ城、今、ちょうどこんな感じです。

瓦をふき替える平成の大修理、これまですっぽりと覆われていた囲いが上部だけ取り除かれて、上から三層ぐらいまでは見えるようになった。

葺きかえられた瓦は赤瓦というイメージほどは赤くはない。落ち着いたいい色だ。白壁が目に痛いほど白い。あんまり白くて冬風にさらすのがもったいないようだ。

会津のシンボル鶴ヶ城が見えない状態の中、今年の会津観光は大変に苦戦した。天守閣への登閣者数は前年の4割減と言うから相当な数だ。

来年春までにはこの覆いがすべて取り除かれて、生まれ変わった鶴ヶ城が姿を現す。2011年は、お城、お城で大いに盛り上げて今年の落ち込みを一気に取り戻したいというのが観光関係者のみならず、市民の願いだ。

全身を見るのが楽しみ・・・きっと来年の桜も咲いたら驚くはずだ。

2010年12月 9日 (木)

布施りんご

酔いざめの朝は、会津身不知(みしらず)柿が最高である。この時期になると柿もかなり熟れて柔らかい。つるっとノド越しも良い。あの渋柿がどうしてこんなに甘くなるのか不思議だ。今年はもらい物も多かったので、頻繁に頂いている。

高校の同窓生が柿の栽培をしている。頼んで何箇所かに送ってもらう。大変、評判がいい。こどもの頃、父が会津を離れた兄弟に毎年必ず身不知柿を送っていた。ふるさとの味を届けることは長男の務めだと思っていたのだろう。兄弟たちは大いに喜んで会津を想った。

こどもの頃は、街の至る所に柿を扱う店があった。普段はお菓子やたばこ屋だったりするのだが、柿の時期だけ店の土間は柿で埋め尽くされていた。段ボールに詰められて、さわしの焼酎を振りかけて次々と発送する。箱には何月何日に開封のことと書かれていた。

あれほど多くの身不知柿が街なかで見られたのに、今はどうなってしまったのだろうか?あんまり、送ったりもしなくなったのかな?

そう言う我が家も柿を頼んでいた店が廃業してしまい、友人の農家に直接依頼しているのだから、みんなそんな塩梅なのかもしれない。

柿の実は全部採り切らない。何個かを鳥たちのために残す、布施柿というのだそうだ。

葉の落ちた柿の枝はゴキゴキと曲がって少々不気味な感じがする。やがて来る真っ白な雪に黒く曲がった柿の枝、会津の冬の景色だ。

先日、布施柿よろしく、庭のななかまどの木にりんごを一個刺してみた。が、さっぱり鳥が突かない、気付かないのか、木に生っていないと美味しくないのか、見向きもされない。

庭に、枝に刺さったままのりんごが一個、お布施にもならずに風にさらされている。寂しい冬の庭だ。

2010年12月 8日 (水)

死なない人

12月8日、今日はジョン・レノンの命日だ。私はビートルズ世代よりもちょっと後だ。日本公演の時に小学生だったから興味もなかった。その後、高校生ぐらいになって遡って聞いて、ごく普通のファンになった(熱狂的とまでは言えない)

ジョンがオノヨーコさんといろんなことをやり出した時には、変な女性だなあ、と思った。正直なところ世界中でキャーキャー言われてるジョンが、なんで美女には見えない人を選ぶのか、不思議だった。

そんな二人の関係は、「愛」は深くて、ピュアで、とても複雑だということを教えてくれた。

『地図を描きなさい、道に迷うために』 byオノヨーコ

若者の心に染みた言葉、やっぱり見かけ通り、ただものではないんだと感動したものだ。

ビートルズが解散してから後のジョンのアルバムには強く惹かれた。

イマジン、世界中の人々が(ただ夢見てるだけじゃなくて)、誰もが平和に暮らせる世界を心に思い描けば世界は変わる・・・。強烈なメッセージだ。

けれども、自分のことばかり考えてそんな日をイマジンしたくない人のほうが、世界中にはまだまだ大勢いるってことだ。

オノヨーコさんとの暮らしを楽しみ、子育てに励み、しばらく世間から忘れられていたような1980年、ジョンは40歳でこの世を突然去った。あれはちょうど私が結婚した頃だ。

天才がもし生きていたら何を成し得たか、そんなことを考えてもなんの意味もない。きっと、天才とは与えられた時間の中ですべてをやりつくして逝く人なのだ。ジョン・レノンは40歳で、一発の銃声で、完結している。

芸術は世界を揺り動かす。静かに優しく、そして時に激しく。その波動は時空を超えて人々に伝わり続ける。・・・芸術家は死なない。

そう。ついさっきも、ジョン・レノンが会津若松市の追手町辺りを冬の陽を背にお城へ向かって静かに歩いていた。

2010年12月 7日 (火)

酒に罪はない

怪我にカッコイイもワルいもないもんだが、ハチに刺されたり、忘年会で骨折したりというのは、どう考えても「とんま」な感じがする。

私の左足の小指は見立て通り、折れていた。とはいえどうしようもない。お隣りの第四指にテープでぐるぐる巻きにしておくか、湿布して出来るだけ動かさないようにして治癒を待つしかない。

まだ歩くと痛い。が、それも慣れだ。ゆっくり歩いていると(痛いので)「どうかしたんですか?」と聞かれる。事情を説明するのも面倒なので「いやいや」と言うと、にやっ、と笑われたりする。案外、とんま骨折の顛末をみんなもう知っているのかもしれない。

何かを守るために、または職務に身を捧げて負った怪我を名誉の負傷というが、時に不名誉な怪我の方がスキャンダラスで面白かったりする。

歌舞伎役者の事件なんか全くそうだ。なにも公共の電波を使ってあそこまで取り上げなくてもいいだろうと思うが、伝えるワイドショーのキャスターなど、どことなく嬉しそうだ。スターの転落、人の不幸はやはり蜜の味なのだ。

酒乱は病気だ。若い時にすごい奴が居た。長崎の男だったが、酒を飲みだすと暴れるかボコボコにならないと絶対に終わらない。初めは和やかに飲んでいても必ず最後には突っかかってケンカになる。2、3回飲んで懲りた。

当人もそのメカニズムが良く分かっていないし、大して覚えていない。飲めば傷だらけだ。今、彼が生きているかどうかも分らないが、きっと人生順調にはいけなかっただろう。

しかし、酒には何の罪もない。酒を「気違い水」などと言うような輩に酒を飲む資格はない。狂ってしまう人は、酒と相性の悪い病気なのだから飲まないしかないだろう。

時に羽目を外したり、失敗もあるが、決して酒の罪ではない。酒が人生に与えてくれる豊かさ、楽しさに比べれば、多少の問題など屁でもないはずだ。

「酒はいいなぁ~」と言いながら満面の笑み、いつも楽しく飲めるなら毒になることは決してない。

やっぱり酒は百薬の長、酒は楽しく飲むべかりけり・・・たとえ骨を折っても、そう、笑いながら師走を楽しく乗り切りたいと思っている。

昨日までの温かさが一転、会津には鉛色の空が広がっている。そろそろ雪が来そうな気配、冬の匂いがする。

2010年12月 6日 (月)

勝てる人より出来る人

会津若松市長の菅家さんは、来年春の市長選には出ないで国政を目指すと新聞に報じられている。まだ若いけど三期だから市長さんとしては長かった。

市議会議員、県会議員、国会議員、政治家というのは双六のように上を目指していくのが一般的なようだ。また、宮崎県の知事さんのように上だけでなく中央にも行きたがるようだ。

当然、この国を動かしたい、この国の将来に命を捧げようとしての行動なのだろうけど、なんだかそれ程の覚悟が感じられないのは奥ゆかしさだろうか?

地方から国政へ。「地方自治の限界を感じ、この国の仕組みから変えていかないといけないと思った」・・・多くの政治家が似たようなことを言って来た。

もっともらしいが「地方のことがちゃんと出来なかった人に国のことがちゃんと出来るの?」という素朴な疑問の方が、すっと腑に落ちる。

外交や安全保障、国防や金融政策などは、地方で政治家をやって来たからといって出来るものなのだろうか・・・?全く別物だと思うのだが、政治家は優秀なのできっと出来ちゃうのだろう。いや、出来ちゃうのではなくて、勝てちゃう(選挙に)だけなのかもしれない。

今の国政を見ていると本当にその筋のプロ、という政治家があまりにも少ないと心配になる。官僚もプロ中のプロでなければならないはずなのに、叩かれてばっかりで元気がない。

確かに庶民感覚、素人感覚というのもある面は大事だろうけれど、国防や外交など、どう考えたって素人じゃ無理なことも山ほどある。なにせ相手国との競い合い、ある意味戦いなのだから、優秀なプロ集団でなければ絶対に勝てないと思うのだけれど・・・。

最近、ニュースを見たくない。「?」や「!」(呆れたびっくりマークです)の連発で嫌になって来る。

出来ない人が寄ってたかってやっても、やっぱり無理なんだわ、ということがつくづく身に沁みる年の瀬になった。

ガラガラポンでもなんでもいいから、まずはちゃんと政治の出来る人にやってもらいたい。

2010年12月 5日 (日)

小指の思ひ出

もう10年ほど前になるがゴルフ場で転倒して左手小指を骨折した。その二、三年後、温泉旅館で古い箪笥の角に右足を強打、右足の小指が折れた。そして夕べ、忘年会中に今度は左足の小指が折れた。

笑い話ではない。

部屋を仕切るパーテイション、それを取っ払った広間、アルミのレールが残る。幅、深さとも1センチほどの溝で、普通であれば引っかかるような心配はない。ところが思いがけないところで事故は起こるのだ。

席を立って話して、笑って、飲んで、また座ろうとしたその時、あぐらで座ろうとした足の小指がなぜか、すぽっと溝に挟まってしまった。おっ!と思ったが座ろうとしている身体は止まらない。グキッときた。そんなに痛くはなかったが嫌な感じだった。

それから数時間後、飲んで騒いで家に帰って靴下を脱いだら、ブス色になっていた。ああ、と思って、湿布を小さく切って貼って寝た。朝起きたら、もっと赤黒くなっており、痛くて普通に歩けなくなっていた。

小指骨折の専門家としては、折れていることを確信しているが、かと言って特に治療法もないはずだ。どうせ湿布するぐらいしかないのだ。医者は明日でいい、痛い、日曜の朝となった。

どうしてかくも端っこばかりケガをするのか?衰えているからです、と言われれば返す言葉はない。おっちょこちょいというよりは、鈍い、の方が当たっているだろう。

おそらく2週間ぐらいは痛い。でも23日のゴルフには行きたいなぁ・・・。忘年会の酒を飲みながら直していくしかない。

両足と左手、残る小指は右手だけだ。全小指骨折制覇などという事のないように気をつけて今後の人生を過ごしたい。

師走、第一週目の会津、昨晩の夜の街はかなり賑やかでした。明けて今日は穏やか、小指の痛みを押して冬タイヤを積みこんで、替えてもらってこようと思っている。

2010年12月 4日 (土)

意外と知らない

♪ヒュルリ ヒュルリララ ききわけのない女です♪森昌子さんの名曲『越冬つばめ』、冬のカラオケはやっぱり演歌いい、普段は大して好きでもないのだが、時に女性が感情込めて歌いあげたりすると、なんかグッと来てしまう。

「じゃぁ、私は『天城越え』!」とか言われると「よっ、待ってました!」とさらに盛り上がる。また上手いのが居るんだ、これが。しっとり歌うと少し水増ししてきれいに見えたりする、酒にはやっぱり演歌だ。

先の『越冬つばめ』、この唄の作詞は会津の人だって知ってる?と聞くと、歌った本人もほとんど知らない。

作詞家・石原信一さん、会津高校の5年ほど先輩だ。詩人・サトウハチロー氏に師事し作詞家となる。代表曲が『越冬つばめ』だ。

森昌子さん本人がテレビで歌ってもグッと来たりしないのだが、目の前で歌われると詩が心に沁み、良い唄だなぁ、としみじみ思うから演歌は不思議。

たったひとつでもいい、こんな風に歌い継がれて残るようなものを創作出来たなら良いだろうなぁ、と羨ましく思う。

石原さんは地元のデュオ「ナスカ」を熱心に育てている。民謡名人の本田華奈子さんとストリートミュージシャンの千代竜太さんの異色ユニット、もうデビュー5、6年になるだろうか。デビュー曲「約束の少年」はすごくいい曲だと思うのだが、なかなか全国レベルでのブレイクまではいかない。

Jポップ、ロック、ジャズ、クラシック、と実は会津には音楽界の奇才・偉才が結構いるのだ。そのことを地元の人は意外と知らない。知らな過ぎるといっても良い。音楽だけではない、あらゆる芸術に秀でた才能が少なからずいるのに、だ。

そうした才能の自慢で盛り上がった話や凱旋公演みたいなのは、残念ながらあまり聞かない。地元なんだから贔屓の引き倒し、ぐらいでちょうど良いのだが、なかなか盛り上がらない。

これも「出る人の足を引っ張る」という良くない会津人の習性の延長なのだろうか・・・?

すごい人がいるんだよホント、今年大ヒットした『Mother』のhinacoさん、サンボマスターの山口隆さんだってそうだし、ハリウッドで活躍している作曲家鋒山亘さんだってそうだ。

もっと、もっと、こういう「おらほーのスター」で盛り上がっても良いんじゃないかと思うのだが・・・。そしたら会津も、も少し元気になるんじゃなかろうか。

今朝はだいぶ低い山まで、うっすらと白くなっています。

2010年12月 3日 (金)

BUSよ負けるな!

白い車体に赤と紺のラインが走る、こどもの頃から慣れ親しんできた色合い、会津バスの意匠はなかなかスマートだ。全国のバスの車体のデザインンコンクールで3位に選ばれた、という話しを遠い昔に聞いた記憶がある。

その会津バスが自力でやっていけなくなり、企業再生支援機構の支援を受けて再建を目指す、という記事が県紙の一面に大きく報じられた。

企業として成り立たなくなったものの、公共交通機関として住民に影響が大きいので倒産回避のための支援を受けて再建を目指す、ということだ。

市内や全会津のバス路線、観光バス、高速バス、タクシーなど会津バスは広く会津の人々に親しまれ頼りにされてきた。そのバスが立ち行かないのだ。

一人一台クルマを持ち、ドアからドアまでのご時世だ。確かにバスに乗る機会はものすごく少ない。時折、高速バスに乗るが、その儲かる高速バスは他社との競争が激しいという。

会津バスにしかないように思うのが観光バスとバスガイドさんだが、その観光バスもあまり賑わっているようには見えない。東京の、はとバスなんかが人気なのだから、もう少しガイドさん観光がもてはやされても良いと思うのだが、なかなかうまくはいかないようだ。

タクシーも競争が激しいし、この不景気で企業がどんどん経費を切りつめているから厳しい。

厳しい、厳しいだが、会津バスにはなんとか再建して欲しいと願うばかりだ。高齢者やこども、郡部の交通など多くの人々が困るのは目に見えている。第一、会津を代表する交通機関が無くなるのは寂しすぎる。

難しいだろうが、もっともっとフットワークを良くし、使い易くして頑張って欲しい。片や観光においてはエンターテイメント性を高め、観光案内の台本を劇作家に依頼するなど突き抜けたようなこともやってみて欲しい。

頑張れ!頑張れ!!会津バスだ。

そういえば子どもの頃「AIZU BUS」を「会津ブスだ、会津ブスだ」なんって言って喜んでいたこともあったっけ。

もうそんな失礼なことは言わないので、ぜひとも別嬪さんで再建を果たして欲しいと、祈ります。

2010年12月 2日 (木)

冬はいつ来る?

春先にいつ冬タイヤを脱げばいいか悩ましいということを書いたが、今はその逆、いつ頃履こうかと考えている。

全く迷わず、12月になったら履き換えるという人もいるが、昨日今日のような穏やかな天気だとまだまだ大丈夫だろうという気になる。

面倒くさいだけではない。普通の道路を走ると冬タイヤは柔らかいので減ってしまい、効きが悪くなるような気もするのだ。もったいないわけだ。

昨晩、乗ったタクシーの運転手さんはまだ取り替えてないと言っていた。雪が降ったら一斉に新品の冬タイヤに履き替えるのだそうだ。それでひと冬を越えて、春になっても替えずに行けるところまで行くというのが、雪国のタクシーのやり方だ。一年中冬タイヤを履いているような塩梅だ。

なにせタクシーともなると走る距離が違うから、早めに履けば履いたでみるみる減って、雪深い頃には効きが悪くなるということも充分にある。よってぎりぎりまで引っ張りたいのだ。

先月行った沖縄には冬タイヤなどは存在しない。灯油代もかからないだろう。長袖一枚、ジャンパー1枚ぐらい持っていれば冬も平気だ。

雪国は冬靴も要るし、電気代、ガス代、灯油代、すべてが跳ね上がる。寒いし、辛いところだ。

それでも会津の冬は、こどもの頃に比べれば温暖化でどんどん温かくなっている。昔の写真には二階までの深い雪が映っているし、冬は気の遠くなるほど長く、街中がすっぽり雪の中だった。

雪の量は格段に減り、寒さも長続きしない。が、それでも必要なモノは必要だ。いや、人間がぜいたくになった分、かえって昔よりも掛りは大きいかもしれない。

とても師走とは思えない穏やかさだ。

こんな感じならまだまだ、と思っているといきなり気温が下がり雪が舞う、というのが会津の冬だ。やっぱり今週末あたりにはチェンジかなぁ。

2010年12月 1日 (水)

帰って行った人

Eさんは住み慣れた家の、使い慣れたベッドの上に頭を下にして眠っていた。エンゼルメーク=亡くなった後の化粧、がほどこされ、まるで生きているようだ。最近床屋に行ったのか、短髪の髪の毛も整い、今にも起き上がりそうだ。

お線香を上げて、奥さんから話を聞く。末期がんの治療もうまくいっていたこと、昨晩から急変したこと、あっと言う間に逝ってしまったこと。涙声と線香の香りが部屋の中に満ちる。

狭い部屋には写真が沢山かけられていた。山が大好きだったEさんが青空の下で微笑んで知る。本棚、タンス、テレビ、書類棚、それぞれにモノが一杯詰まり、Eさんの過ごした生活の匂いがする。

モノに溢れた部屋、思い出に溢れた部屋、人間は死んだら何一つ持ってはいけないんだ、と当たり前のことをつくづく思う。

『人の一生は何を集めたかではなく、何を与えたかだ』

山を愛し、山菜、きのこ採りが大好きで、釣りをし、時にはハンティングもする。そんな数多くの仲間たちにEさんは愛されていた。僧侶も神主もいない葬儀は、そんな友人たちの手で進められ、私の知らないEさんの大きな世界がそこにはあった。

年老いた父・母が本当にお世話になった。

働き者で身体を動かすことをいとわないEさんは、店子でありながら老夫婦である大家の暮らしの面倒をよく見てくれた。庭の木を払い、柿をもぎ、雪片付けまでしてくれた。30年間、息子の私よりもずっとよく、支えてくれた。

会津で生まれ、会津で暮らし、会津の山河を愛し、67歳の若さでEさんは会津の山に帰って行ったのだ。

多くのものを多くの人々に与え、何一つ持たずに静かに帰って行った。

嬉しいことと、悲しいことがいつになく沢山あった11月が過ぎて、穏やかな日差しの中、師走が会津にやって来た。

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