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2010年5月

2010年5月31日 (月)

さらば五月

五月は過ごしやすく爽やかな季節だ。今日でその五月も終わる。会津の空はさわやかに晴れているものの、気温は一ヶ月ほど前の感じだ。今年の五月は農家にとっては、本当に恨めしい天候だった。いや、まだまだ苦労が続くので、だった、と過去形で言ってはいけないのかもしれない。遅れを取り戻せる六月であることを祈りたい。

五月病というのがある。入社した四月は興奮と緊張感でピンピンに張りつめている。一ヶ月経ちようやく慣れた頃にピンと張りつめた心が、伸びきったパンツのゴムみたいにだらだらに緩んでしまうような状態だ。どうにもやる気がなくなり、力が入らない。

何によらず過ぎるのは良くない。復元可能な範囲ならば鍛えることにもなるだろうが、元に戻らないほど引っ張ってはダメだ。しかし、ゴムや紐なら限界が目で見て分かるが、心に気付くのは意外と難しい。根性や気合いだけでは万事を解決は出来ない。

一番大切なことはポキッと折れては元も子もないということ。疲れてしまったらなら、ここは一度ゆっくり休めばいい。「あなた」を心配している人は大勢いる。「あなた」を大切に思っている人も大勢いる。

さらば五月、こんにちは六月、そんな風に美しい会津の季節は巡り続ける。さらばの明日はこんにちはだ。あなたの笑顔に会える日を待ってます。

2010年5月30日 (日)

掟破り

昔、サムライの国日本を訪れた外国人が一番驚いた習慣は「切腹」だという。自らの名誉のため、恥をかいたからと言って腹を切ってしまう、自ら死ぬことで恥辱を雪ぐ、なんと高潔な国民だと、書き残している。

「恥を知る」文化こそが日本人だ、というがその完全消滅形を見せてもらった。金曜、鳩山総理大臣の国民に向けてのお詫び会見だ。立て板に水、滔々とお詫びらしい言葉を述べる、そこには自分のやってきたことに恥じ入る姿勢は全く感じられない。消音ボタンを押して映像だけ見れば、堂々とした就任演説のようだ。

決着とは物事を先送りすること、職を賭すとは職にしがみつくこと、日本語の別な辞書を持って生きている。「青臭いといわれるかもしれませんが・・・勉強不足でした。」って、総理大臣が言ったらジョークでしょう。

誠心誠意、最善の努力、命をかけて・・・この場に及んでまだ言うか!それもカメラ目線で恥じ入ることもなく。虚ろな言葉だけが踊り続ける。

ロッキード事件の証人喚問、テレビ中継の際には震えてサインができなくなった人、しどろもどろになった人、いろいろいた。おそらくは悪い人だったのだろうが、人間としてはまっとうな反応だ。まだ恥を知っていたのだろう。

毎月、千五百万円をもらっていて、全く知りませんでしたと堂々と言える。かの石川五右衛門も驚く強心臓ではなかろうか。それがたとえ本当だとしても、そんな人に国民の痛みも何も分かるはずはない。従ってあれだけ沖縄の人々を振り回しても、言っていることが嘘でも、全く恥ずかしくないのだ。この鳩山が謝っているんだから許すのが当然でしょう、ぐらいに思っているのだろう。

「ならぬものはならぬものです」会津の「什の掟」・・・そんなこと言ってもそれこそまさに「鳩に豆鉄砲」だ。

居並ぶ記者には立った一言だけ聞いて欲しかった。「あなた今、恥ずかしくないですか?」と。「イエス、ノー」だけで答えてもらえばいい。すべてが分かる。

時事ネタ、人の批判は避けるブログ方針だが、あれはあまりにも頭にきた。こうもカッカするのは、血圧のせい?それとも歳のせいだろうか?

掟破りの5月30日、会津はうす曇り、引き続き低温注意報発令中、庭のつつじが咲きだしました。

2010年5月29日 (土)

天皇のコース

ゴルフ場の話です。会津の名門と言えば「会津磐梯カントリークラブ」だ。昭和の時代はここしかなかったので唯一の名門。リゾート開発の時期にいくつかゴルフ場ができたが、名門の名を譲ることはない。なんといっても、かの昭和天皇がこの地でゴルフを楽しまれたという歴史と伝統があるからだ。

昭和天皇のハネムーンはなんと会津だった。大正10年夏(1924)猪苗代湖半にある御別邸「天鏡閣」でおよそ一カ月のハネムーンを過ごされた。天鏡閣は明治40年、有栖川宮が東北御旅行の際にこの地を大変に気に入って御別邸として建てられた洋館だ。今は観光施設として一般公開されている。天の鏡の湖は、もちろん猪苗代湖、長浜の高台にある。

昭和天皇は大変なゴルフ好きだったそうだ。皇居内にもミニコースがあったと何かの本で見たことがある。その昭和天皇のために鳥狩原に3ホールほどのコースを作ったのが始まりと言われる。ハネムーンの間に何度か楽しまれたのだろう。

昭和38年(1963)本格的に18ホールが整備され磐梯カントリークラブとしてオープン、同年には高松宮両殿下もプレーされ、福島国体のゴルフ競技が行われ、名門の歴史は刻まれてゆく。

私もそこそこ、いろいろなところでプレーしてきたが、ここの18Hはなかなかのものだ。なんといっても似たホールが一つもない。18H全く似ていないというのは少ない。アウトは長くパワーが求められ、インは短いが戦略的だ。「何度回っても飽きない」とは私だけでなく多くのゴルファーの称賛の言葉だ。

どこのホールからでも磐梯山が見渡せる。景色は季節ごとに美しい。16番のティでは磐梯山、猪苗代湖が見渡せる。名前は磐梯カントリー以外に考えられない。

打ちおろしのショートホールでは、2度カモシカを見たことがある。

地元が誇る名門、天皇のコース、ゴルフ好きの方は、会津にいらした際にはぜひプレーをお勧めしたい。

五月も間もなく終わり、今朝もストーブつけてます。

2010年5月28日 (金)

「大人買い」と「大人食い」

マンガなどこれは面白いと思ったら全20巻ぐらい平気でまとめて買う、こういうのを「大人買い」というらしい。やたら高いものではない、チープなものをまとめてドカンと買うのだ。金に糸目をつけず、とまではいかないが諭吉さん数枚分、ドカンと買うのはこどもの憧れだ。

こどもの頃、甘納豆やラムネのくじを丸ごと買ってみたいと思った。どれが一等だか、片っ端からめくってみたいと思った。そんなことしてもきっと面白くはないのだが、一回5円のくじを50円出して「おばちゃん10回」なんて奴がいると「スゲー!」と驚いて、ガキなのに少し大人に見えた。

大人というのはポーンといくものだ。財布の中なんて確かめもせずに「好きなもん食っていいぞ、いくらでも食え、いくらでも飲め!」というのが、よくドラマや映画に出てくる大人って感じだ。

・・・と、どうやらこの辺から少し誤った感覚が植えつけられているのかもしれない。好きな物を好きなだけ食える、のが「大人の自由さ」なのだ、と思っている節がどこかにある。だからどうにも節制や、適度、適量が苦手なのだ。ついつい、満腹まで食べてしまう。やめときゃよかった、というところまで飲んでしまう。

腹八分目、ほどほどがいいことを知っていながら右から左の端まで全部ちょうだい、みたいなことをしてしまうのだ。あれはどうも大人買いのあの快感に似ている気がする。

別に「大人食い」とか言ってカッコいいと思っているわけではないけれど、「その辺にしておいたら」と諭されると、むきになって「まだまだぁ」とか言う。むしろ、手のつけられないこどもじゃないか。

こんなことを書きながら日ごろの行ないを反省しているのです。あれだけ大盛りは頼まないと誓ったのに、ついつい、つけ麺大盛りを頼んでしまった自分に呆れているのです。笑ってやってください。

会津は寒いです。盆地に落とし蓋をしたような雲が垂れこめて、ヒューッと北風が吹いています。農作物が心配です。

2010年5月27日 (木)

合わせるのはこっちでした。

今朝の会津は肌寒い。今年は本当に天候不順で、このブログでも「いい加減にしてよ、ふざけんな!」みたいなことをさんざん書いてきたが、先日、はたと気づかされたことがある。

NHKのお天気キャスターで人気のあった倉嶋さんがこんなことを言っていた。『どうしてこんなに異常気象なのか、皆さんはっきりとした答えを知りたがるわけですが、正直分からないんですよ。人間が気象に合わせるしかないんですね』奥様の死や、うつを乗り越えられたお天気キャスターがにこやかにそう言っていた。

考えてみりゃそれはそうだ。人間が偉そうに言っていても、お天気のことでわかっていることはほんの一部だ。温暖化、温暖化と分かったように言っているが、実は分からないことだらけなのだ。温暖化なのになんでこんなに寒いのか?それも温暖化の一面です、などと言われると分かったような気になるが、分かってない。

なんてひどい天気だ!と怒ってみても結局は人間がそれに合わせるしかない。第一、天に向かって毒づくほど、あんたは偉くない。

植物は懸命にお天気に合わせる。開花時期を遅らせたり、伸びずにいたり、定まらない天候の中でも何とか実を結ぼうと、お天気に合わせている。「ふざけんな!」とか言ったりはしない。

我々の先人たちもそうだ。これまで数えきれないくらいの天変地異があったはずだ。しかし、人間は結局それを受け止めて合わせるしかない。合わせるしかないからこそ、季節に対して繊細で鋭敏になる。雲の名前、雨の名前、雪の名前、数えきれないほどの美しい名前を日本人は持っている。

厳しい暑さ、寒さには五感を持って対抗した。「ちりーん」と鳴る風鈴の音に涼しさを感じられるのは日本人だけかもしれない。「いい加減にしろ!」なんて言ってる奴には、そんな風情も情感も分かりはしないのだ。

『人間が気象に合わせるしかないのです』なかなか深いお言葉です。

「週末は天気悪くて寒いらしいよ」    「ふざけんな!」・・・また言っちゃった。まだまだです。

2010年5月26日 (水)

今さら変えられない

「お父さん、お母さん」「パパ、ママ」両親の呼び方はいろいろあるが、ずーっと呼んできたのを急に変えるのは難しい。赤ちゃんの頃は誰もがパパ、ママだが、たいていは幼稚園や保育園で「お父さん、お母さん」に直されるようだ。

我が家はそういう園ではなかったようで、ずーっと「パパ、ママ」で来てしまった。いい年して「パパ、ママ」もないだろうと思っても、親しんだ呼び方を改めるのは照れもあってなかなか出来ない。出来ないくせに、人前で呼ぶのは恥ずかしいのだろう、息子などは外では「ちょっと」とか「おーい」と呼ぶが、家の中では「パパ、ママ」だ。

私もずーっと「お父ちゃん、お母ちゃん」で来てしまった。ヒゲが生えてからは少々照れ臭かったが「おやじ、おふくろ」とは呼べなかった。名優・勝新太郎が「お父ちゃん、お母ちゃん」と呼んでいたが、あれはあれで様になっていた。あんな風に歳をとっての「お父ちゃん、お母ちゃん」はなかなか良いものだが、残念ながら二人とも、もう居ない。

「ママ」というのはスナックのママさんもある。いい年した大人が堂々と「ママ」と呼ぶ場合は圧倒的のこのケースだ。また、ホステスがお客さんを呼ぶときに「パパ」ということもある。我が家は集まると今も「パパ、ママ」で会話している。ひょっとして誤解されてたりして・・・まさかそんなことはないでしょう。

「お父ちゃん、お母ちゃん」の呼び方が変わったのは孫が生まれて「じいちゃん、ばあちゃん」になった時だ。我が家にもいつそんな日が訪れるのだろうか、と心配しながら楽しみにしている。そん時は「じいじ、ばあば」かな?一応、「グランパ、グランマ」はやめとこう。

会津はどんより雨模様、この雨が抜けると空気が入れ替わり気温がまた下がるとか、どうも天気が落ち着きません。田んぼの小さなイネが水につかって寒そうです。

2010年5月25日 (火)

謎の一日

飯盛山の周辺が朝のウォーキングコースだ。西に下って東に登って、一気に飯盛山の白虎隊の墓がある広場まで、石段ではなくさざえ堂のある裏の坂道から登る。距離は体調に合わせ大回りをしたり、小さく回ったり、30分~45分ぐらいだ。

登ったらやはり白虎隊のお墓にはお参りをする。白虎隊士十九人の墓、一人だけ生き残った飯沼貞吉さんが晩年になって自刃の事実を語ったことによって、白虎隊士の悲話は広く知られることになった。

サムライの国・会津を象徴する有名な話だが、実は謎も多い。滝沢本陣で容保公の出陣命令を受けた白虎隊士たちは日向内記を隊長に戸の口原を目指す。しかし、冷たい雨に体力を奪われた少年たちは、隊長ともはぐれてしまうのだ。隊長の日向は食料の調達に向かったともいわれるが、どうにも解せない。

戦争の最中である。兵士がせめて2、3日の兵糧(乾米など)も持たずに戦場に赴くなどということがあるだろうか?まして、指揮官とはぐれるだろうか?翌朝、飯盛山の山腹に戻った白虎隊士たちは、なぜ正確な戦況を確かめなかったのか?山中の彷徨はわずか一日のことだ、いったい何がそれほど急激に彼らを死に向かわせたのか?彼らに一体何が起こったのだろう?

白虎隊の話しにチャチャを入れる気など毛頭ない。しかし、『鶴ヶ城周辺の火をお城が燃えていると見間違えて切腹したのです!』というような安直な解説を聞かされると、そんなアホな、と言いたくなる。

「我が事終わる」・・・少年たちが自らの為すべきことは終わった、と思い自刃に至ったまでの一日、そこにはきっと、もっともっと深い謎があったに違いない。すくなくとも見誤って腹を切った、というような軽率な判断ではなかったはずだ。

武士としての生き方、取るべき道を選択して少年たちは自刃した。いわば、生きるために死を選択したといってもいい。事実、彼らは今もこうして歴史の中に語り継がれ生きている。

大分昔に『不思議の国の会津』という台本を書いたことがある。タイムスリップした少女が白虎隊士に出会うという荒唐無稽なお話。本丸のページェントと、文化センターで二度上演された。そこでは「死」をめぐって少女と白虎隊士が語り合うが、謎の一日に何が起こったかは触れてはいない。いつの日か、天から物語が降ってきたら、白虎隊の謎の一日を書いてみたい様な気がする。

2010年5月24日 (月)

しまる締め方

「宴もたけなわではございますが、この辺で中締めにさせていただきたいと思います。それでは中締めの音頭を・・・」で宴は閉じる。時々指名にあう。こういう時にどうやったら一番しまるのか考える。

最近、一番多いのが「よーお、ポン!」の一本締めというやつだが、あれは一本じゃなくて一発締めだ、一本締めは「シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャンシャン」と三本締めの一回をやるやつだ、という人もいる。確かに、言えてる。

三三七拍子でやれという人もいるが、あれは応援団の手拍子で「シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャンシャン」は三三四でしょう。

締め方にもご当地ならでは、があっていいと思うが会津には特にこれというのがない。上方締め、または大阪締めという「ナントカカントカ、祝って三度、シャンシャンシャン」みたいなのは東京とは違う、関西の心意気みたいなものが感じられていい。

先日、お隣り山形の宴席に出た友人が「さすが山形、締め方が違う」と、感動して言っていた。花笠音頭から来ているのか「ヤッショウマカショ、シャンシャンシャン!」だったそうだ。歴史の街なら会津にも何か伝統的な締め方というものがあるのかもしれないが、ご存知の方がいたらぜひ教えてほしい。古いものがあるならぜひみんなで復活させたいものだ。

普通はやっぱり「ヨー、ポン!」の一本(一発?)、おめでたい時、気合い入れましょう、みたいな時には三本締めをさせてもらう。宴の印象が鮮烈になるような、気の利いた締め方はなかなか難しい。

会津のお祭りなら「ヤーッコヤレヤレ、シャンシャンシャン!」でもよさそうだが、そんな締め方聞いたことはないし、新規参入も恥ずかしい。いかにも会津らしく、すっきりとしまる締め方、そんなのがあれば良いなと思っている。

しかし、変なこと考えてるなぁ、といわれるが、案外こういうものが地域おこしにつながるものなのです。

2010年5月23日 (日)

よっ、日本一、再び!

土曜の新聞記事から。全国新酒鑑評会において福島県の酒20銘柄が金賞を受賞、県別獲得では日本一に輝いたそうだ。4年ぶりに日本一を奪還したと伝えている。その20銘柄のうち会津の酒を数えてみると実に14銘柄、酒どころ会津の面目躍如というものだ。

出品がどういう基準で行われるかわからないが、今回の受賞蔵の他にも、これはうまい!と思う蔵はたくさん挙げられる。会津の酒は本当にレベルが高い、と我田引水、手前味噌、地元びいきに拍車がかかる。

記事は出品数に対する金賞割合にもふれている。本県は実に66.6%、酒どころとして名高い新潟県は38.2%どまりだったと分析している。ちょっと意地悪な分析にも思えるが、その割合は、すごいね。

昨日、今日と東京に行っていた。六本木で我が娘と同じ名前のかなりおいしい焼き鳥店を発見した。鶏の生産地にこだわた絶品の焼き鳥だった。しかし、酒のメニューには福島県、会津の酒は一銘柄もなかった。

「酒の選択がそれじゃぁなぁ・・・まだまだだわ!」と言えるぐらいになればいい。会津の酒を置いてないことが恥になるぐらい、もっともっとその名を高めて欲しいと会津清酒を応援している。

今の会津清酒は、確実にそのレベルにあると私は思っているのだが、いかがでしょう?

2010年5月22日 (土)

千円札の人

5月21日は野口英世博士の命日だ。1908年(昭和3年)アフリカ・ガーナで黄熱病との戦いの途中で自らが感染し51歳の若さでこの世を去った。野口英世博士は会津の生んだ最大級のヒーローだ、何せお札にまでなっているのだから異論のある人はいないだろう。

毎年、5月21日には野口英世の銅像の前で、市内の小・中・高生の代表を集め「たたえる集い」が開かれる。今年で第42回を数える歴史ある集いだ。昨日は晴天、少々暑かったが15時から野口英世青春広場の銅像の前で行われた。市民の献花、ママさんコーラスの献歌、小・中学生の作文朗読、校長先生の講和、簡素だが、心のこもった良い式だ。

博士は1876年(明治9年)猪苗代三城潟に生まれた。ここから世界へ羽ばたいた博士の生涯はあまりにも有名だ。昨日の校長先生の講和にもあったが、博士は光学顕微鏡を駆使し、細菌と戦い目覚ましい業績を上げた。しかし、最後に博士が戦い敗れた相手はウィルス、光学顕微鏡の世界ではとらえられないものだった。電子顕微鏡が誕生し、ウィルスが捉えられるのは博士の死後、わずか4年後のことだったそうだ。

「僕には分からない」見えない相手と戦い続けた博士が最後に言った言葉だという。歴史に「もし」はないが、博士が電子顕微鏡の世界に生きたなら、インフルエンザもエイズも口蹄疫も、もっと何とかなっていたのかもしれない。

没後、博士はニューヨークに運ばれ、ウッドローン墓地に埋葬された。広大な墓地だ。10年ほど前にお参りをしたことがある。デパート王や競馬王、芸能人など著名人の墓が多い。それも家一軒分ほどもある大きなお墓だ。博士の墓はそんな中にひっそりとある。三角の自然石は磐梯山を想わせる形、故郷から贈られたという。『人類のために生き、人類のために死す』偉人への賛辞が刻まれている。

英世博士のことを書き出せばきりがない。その生涯は、美談だけではなく、スキャンダラスな一面においてもけた外れだ。

博士はものすごいエネルギーを持っていた。それはちょうど時計の振り子のように、時に反対に触れることでバランスと整合性を保てたのではないだろうか。数え切れないほどの人々を救ったのも事実、渡航費用を飲んで遊んでひと晩で使い果たしてしまったのも事実だ。一人の人間の中でその両方が起こり、核融合のように膨大なエネルギーを生む・・・人生とは誠に不可思議で面白い。

2010年5月21日 (金)

宝の山が呼んでいる

今度の日曜日に磐梯山の山開きが行われる。確か毎年五月の第二日曜だと記憶していたが今年は遅い。四月の低温、雪の影響だろう。宝の山よ、と謳われる会津磐梯山、久しく登っていない。

30代の頃はよく山開きに行った。若い仲間を引き連れ登った。山頂はお祭りムード、ジャンケンで負けた奴が大きな声で「磐梯三唱いたします。バンダーイ!、バンダーイ!」とやるとみんなが乗ってくれた。独立峰なので360度の眺めは素晴らしい。足元の猪苗代湖を眺めて飲む一杯がたまらなかった。

娘は三才の時に連れて登った。結構スタスタ歩いたので驚いた。頂上ではテレビカメラが集まり人気者に、ローカルニュースにたくさん映った。残念ながら年の離れた息子は連れて行ってない。

30代後半、奥会津の浅草岳に登った際に日頃の運動不足がたたり、太ももを攣って動けなくなってしまった。こういう場合、今後はトレーニングに励もうと思う人と、もうやめとこうと思う人がいるが、生来の怠け者だけに迷わず後者だった。会津で育って磐梯山に登ったことがないなんて・・・息子には少々申し訳ない気持ちがある。

残りもう一息の弘法清水から頂上まではきつい登りだ。その横に大きな雪渓がある、下りはそこを滑り下りる、これがまた楽しい。ビニール袋などをソリにすると結構なスピードが出てスリル満点だ。

ここではないが雪渓には痛い思い出がある。登る途中でズルッと足を滑らせた。オッと危ないと手ごろな枝に手を伸ばしたが、それが折れた枝だった。掴まるはずが勢いよく後ろにひっくり返って雪の斜面を滑り落ちた。初めは余裕もあったのだが、ヤッケが滑り勢いがついて止まらなくなった。みんなの悲鳴の中、30m程も滑り落ちて、木にお尻から激突、洞にはまってようやく止まった。尾骶骨強打、実に情けない恰好でレントゲンの人となった。幸い骨折はしていなかったが、しばらくはひどい姿だった。山は何が起こるか分からないので、登る人は十分に注意してください!

中高年の登山ブームだという。もう一度、山登りもいいかな、と思うのだがなかなか踏ん切りがつかない。トレーニングしてチャレンジ、健康にもダイエットにも良いに決まっている。まずは低山徘徊から、と思うのだけど・・・。

とりあえず前段として今年はゴルフのラウンドの際は、カートには乗らず完歩を目指しています。

2010年5月20日 (木)

もう離れられない

携帯電話に夢中になって女性がホームで電車に頭をぶつけて死亡、というニュースをやっていた。傷ましい限りだ。メールかゲームでもやって手元に集中しすぎたのだろう。携帯電話とはいうが、もはや電話ではない。電話はほんの一部、コンピュータそのものだし、超高性能だ。(実はあまり分かっていないことのほうが多いけど)

我々がこどものころに見たSFの世界を遥かに超えている。手元で話せるし、世界中につながる。テレビだし、カメラだし、ビデオだし、ステレオだし、ゲーム機だし、あとなんだろう・・・とにかく凄い。こんな私でも便利だと思うのだから完全に使いこなせばありとあらゆることができる、のだろう。

知り合いに財産管理をすべて携帯でやっているという奴がいる。株取引、銀行取引、その他の支払いや財務管理まですべて携帯、自分の体から何メートル以上離れると他人には絶対に使えないようにしてあるんだとか。機械音痴の部類なので、どうやるの?と質問する気さえしないが凄いもんだ。

奴は取り説を読むのが大好きだというから、異星人ぐらいの開きを感じる。隅から隅まで読んであらゆる機能を使いこなさないと満足できないそうだ。取り説と聞いただけで後ずさりしてしまうのに。

家庭内での携帯使用(特にこどもの)が問題らしい。食事中も携帯を離せなくなっている子が増えているという。中毒だ。大人でも飲み屋で携帯を手放さない人がいるから、こどもだけの問題ではないのだろう。何かとつながっている安心感だろうか?目の前の誰かよりも、自分の作り上げた手の中の世界のつながりの方が、きっと安心で心地いいのだろう。

それは変だとか、問題だ、とかいう話しではない。今やほとんどの人がメールを打ち、携帯で話せる便利さを享受し、携帯から離れることはもうできない。自分だけがそんな風にならないと思うのは、おそらく間違いなのだ。考えてみたら国民のほとんどが物心ついてから死ぬまで毎月、携帯の料金を払い続けるのだからすごいものだ。

パンドラの箱というのがある。非常に精巧なバネの加減で「パカッ!」とソフトに開く携帯、誰もがパカッと開けて夢中でのぞきこむ・・・ひょっとしてパンドラの箱って携帯のことだったのかも知れないなぁ。

会津はどんより、梅雨を思わせる曇り時々雨。昼にワンタン麺を食べると汗がドッと出るような気温です。明日からは回復するらしい。

2010年5月19日 (水)

「うつる」は恐い

うす曇りの会津、早朝から御廟清掃のボランティア活動に参加した。御廟は会津松平家歴代藩主の墓所だ。初代・保科正之公は、猪苗代町の土津神社に祀られており、御廟には二代から十二代までの墓、その他、奥方やこどもたちの墓が点在している。観光売店などもなく、静かな杜の中にひっそりと眠る会津の聖地だ。

久々にゆっくりと歩いた。観光客も少ないのでそれほどゴミは落ちていない。苔むした石段や石畳もかなり凸凹で歩きにくい、しかし、それはそれで歴史の重みを感じさせてくれる。入り口から中腹までは、昔と変わらずに鬱蒼とした木々に囲まれている。しかし、あの大きな亀石の並ぶ上部の広場はすっかり木が少なくなってしまった。

嵐や大雪で倒れた大木もあるが、大きいのは松くい虫の被害だそうだ。墓石の間にあった古い松がほとんど姿を消している。松の古木と立派なお墓は良く似合っていたのに残念だ。松くい虫の被害は深刻で、ここ慶山から飯盛山にかけて所々に立ち枯れの松が見られる。

松くい虫という虫は本当は居ないらしい。マツノザイセンチュウという恐い病原体をマツノマダラカミキリという虫が媒介して松に運ぶのだそうだ。それで元気な松が枯れてしまうというが、複雑で良く分からない。ともかく昔はなかったが、戦後猛威を奮っている深刻な木の病気だ。なんとかそのマツノザイセンチュウという奴をやっつけるワクチンでも開発して殲滅してほしいものだ。

21世紀はウィルスとの戦いの世紀だ、という人がいるが、ウィルスだけじゃなくて次々と「うつる」ものとの戦いなのかもしれない。コンピュータのウィルスもそうだし、植物や動物だけの伝染病も宮崎の口蹄疫のように結局は人間を追い詰める。もちろんエイズやインフルエンザなどの病気は脅威だ。

おバカもうつるといわれるが、政権が変わっても結局同じようなことをしているのを見ると、案外これも本当なのかもしれないと思える時がある。何はともあれ「うつる」は恐い。

2010年5月18日 (火)

遠足はいずこへ?

このさわやかな季節、学校行事として「遠足」があると思うが、学童の遠足を見かけることは近頃あまりない。昔は、みんなで並んで歩いたものだ。リュックを背負い、水筒を下げて、手をつないで歩いた。学年毎に距離が伸び行き先が変わる。お城、飯盛山、御廟、一の堰のお地蔵さんなど会津の名所旧跡、みんなで街なかを歩いて行った。

ああいう遠足はどこに行ってしまったんだろうか?どうやら近頃は貸切バスで遠くへ出かけるらしい。安全だし、管理も徹底できる。遠くまで出かけ見聞も広がるというのだろう。それはひとつの考え方かもしれないが、学校を歩いて出発、くたびれて戻る、古典的な遠足がなつかしい。

やっぱり、こどもの身の丈にあった遠足で良いのではなかろうか。クルマはどこまでも連れて行ってくれる。何時間も走って知らない街まで行ってみても、結局、こどもは公園があると一番喜ぶ・・・こんなことは子育てをした人なら誰もが経験した事があるはずだ。

近くだから面白くない、どうせ行った事があるだろうと思うのは「?」だ。友達と歩くだけでもこどもは楽しい。みんなで並んで、ワーワー言いながらふるさとを元気に歩く、そんな遠足が見たいものだ。大変だろうが、先生の良いトレーニングにもなるはずだ。

ディズニーランドには何度も行っているが、お城や、飯盛山、御廟には行った事がないというこどもは意外と多い。遠足ででも行かなきゃ、ずーっと行かないままだったりして。それはちょっと淋しいなぁ。

遠足日和、晴れて暑い会津です。

2010年5月17日 (月)

追いつき追い越した日

さわやかな晴天が続く。会津平の田んぼにも次々と水が入り、遅れた田植えが急ピッチで進められている。今日あたり、有給休暇で田植えです、という人も多いのではないだろうか。昨日の日帰り温泉はガラガラだった。田植えだからだそうだ。田植えの時期は夜の街も閑散とする。これは秋の稲刈りの時期も同じだ。

日曜の午後は、日帰り温泉によく行く。サウナが好きだ。汗をかいてビールを飲んで「笑点」を見て「サザエさん」を見る。これが幸せな日曜の夕べの過ごし方だ。「サザエさん」はいい、心が和む。登場人物は皆、善き人ばかりだ。ドロボウまでもお人よしで人情家だ。大げさかもしれないが、「サザエさん」の視聴率は日本社会の健全度を図るひとつの指標のような気がする。

番組の最後にサザエさんとジャンケンする。これがまた勝つと嬉しい。元気が出る。敵もなかなか手ごわいが、自分では勝率7割は超えていると思っている。

7時のニュースにはアナゴさんそっくりの平野官房長官が出ていた。いきなり現実に引き戻された。振興策という金で徳之島の横っ面を引っぱたくアナゴさん、これから小さな島が真っ二つにされる様を見せられるのかと思うと、なんとも暗い気持ちにさせられる。

サザエさんを見続けて何年になるのだろう?ゆうに30年以上は経つだろう。全く変わらないサザエさん一家と共に生き、こちらはどんどん変わってきた。何と言ってもショックだったのは、磯野波平さん54歳を追い越した日だ。考えてみれば波平さんにはまだ、小学生のこどもが居る。実は元気な中高年なのだ。

波平さんに追いつくまでの日々、それを「成長」と呼び、そこからの日々を「老化」と呼ぶ。そんな事言ってるのは誰ですか?それはないでしょう・・・。

2010年5月16日 (日)

まずは地元に愛されたい

朝晩の冷え込み、高い青空、ほうきではいた様な雲、まるで秋晴れの様な感じの日曜だ。こんな日に握っていたいのはゴルフクラブだが、今朝は早くから移植ベラを持たされ、町内の公園のお手入れ作業だ。飯盛山に移り住んで20年になる。当時はこどもが大勢いたが、めっきり少なくなった。花は植えたが、公園に主役がいないのは淋しい。

私が生まれ育った七日町は一時廃れたが、まちなか観光ですっかり有名になった。土・日には観光客が賑やかに行き来する。次々とお店もオープンし、街並みが整いつつある。今朝の新聞にも若い女性オーナーの漆器店オープンという記事が載っていた。今月初めには私の叔父も、いっぷく茶屋なる店を始めている。

週末や、観光の時期には賑わう七日町だが、平日はまだ人通りもまばらだ。さすがに観光客だけでは容易ではないだろう。再生しつつある七日町に観光客だけでなく、地元の人々がどれだけ足を運ぶかがこれからのカギだ。地元に愛されてこそ、真に生き生きとした町になる。

『まずは地元に愛される、地元の人が誇りに思う』というのは大切な視点だ。会津若松市の奥座敷と言われる東山温泉は地元との距離がどんどん遠ざかっているように思えてならない。私がこどもの頃にはヘルスセンターや千人風呂など、地元の人々が気軽に入れる風呂があったし、「山に行く」(東山温泉に遊びに行く)という言葉がごく自然に使われていた。

天下の草津温泉が、温泉の衰退に歯止めをかけようと策を練った。まずは地元の人に草津の素晴らしさを再認識してもらうことから、と公衆浴場を作ったという話を以前に聞いたことがある。観光客を呼び込む前に、地元に愛される温泉でなければならないと考えたわけだ。それは正解だった。

「会津に来たなら、やっぱ東山温泉だ!」と胸を張って言ってくれる人が、今どれだけいるだろうか?会津各地の温泉巡りは楽しい、日帰り温泉、公共施設、いろいろあるが残念ながら東山にはなかなか足が向かない。

おらが町、おらが温泉、おらが城!そんな風に地元が誇る場所には自然に観光客が集まる。今の旅人はハリボテの施設ではなく、生の暮らしを垣間見たいのだ。そのための情報収集には手間を惜しまない、情報化社会とはそういう時代だ。

もし、東山温泉に日帰り温泉施設が出来たら大喜びです。近くてとっても助かります。

2010年5月15日 (土)

ソースカツ丼考

会津若松市の地域おこしの一翼を担う「ソースカツ丼の会」、B級グルメとしてソースカツ丼の普及を図っている。市内の各所に「ソースカツ丼の会」の、のぼりの立った食堂があり、連休ともなると行列の店もある。

カツ丼といえば一般的には煮込みカツ丼を指すが、ソースというのは珍しいらしい。そのソースカツ丼にも二系統ある。ひとつはご飯の上に千切りのキャベツを乗せ、その上にソースのしみたカツが乗せられるキャベツ系ソースカツ丼。もうひとつは、しょう油味の煮込みカツ丼とまったく同じように玉ねぎ、カツを煮込み玉子でとじるのだが味がソース、というもの。この煮込みソースカツ丼が他所にはちょっとない。元祖といわれる中ノ島(なかじま)は、特に有名店となっている。

私の経験だが、30年ほど前、猪苗代町の食堂で「カツ丼ください」と注文してソースカツ丼(キャベツ系)が出て驚いた事がある。あの頃猪苗代町では、カツ丼といえばソースで、煮込み、と頼まない限りソースが基本だったようだ。若松市内はそんな事はなかったしソースカツ丼のない店も多かった。ただ、中ノ島だけは確かに知られていた。あの頃は猪苗代地区がソースカツ丼の本場だったのかもしれない。

今はもちろん、会津若松市内の各店が頑張っている。キャベツの鮮度、肉の厚さ、ころもの厚さ、切る巾、ソースの濃さなど、シンプルだが奥が深いというヤツだ。肉はもちろんだが、会津のソースカツ丼人気上昇の要因は米のうまさにあると思う。会津は米どころ、丼の基本であるご飯が、何と言っても美味い。

先日、カツ丼談義になったが、みなさん、それぞれにこだわりがあり、贔屓があるようだ。アソコがうまい、ココが絶品、ソッチが秀逸、と大いに盛り上がった。カツ丼の話が出来るのは健康な証拠だ。持病があり食事制限のかかっているような人は全く感心を示さない。普段はもの静かなO氏、腹を揺らしながらのカツ丼評はなかなかの迫力だった。

高カロリーで、ヘルシーとはちょっと言い難いが、食いしん坊の心のストレス解消という観点に立てば、健康的な食事と屁理屈を言えないこともない。

書いているだけで食べたくなってきたが、昨日の昼に食べたのでさすがに今日はやめておきます。

2010年5月14日 (金)

8マンの憂鬱

エイトマンは切ないヒーローだ。走れ!エイトマン力の限り~♪と主題歌を歌っていた歌手は後に犯罪を犯して捕まってしまった。それにもめげずエイトマンは悪と戦うが、彼はエネルギーが切れるとある方法で回復しなくてはならない、その方法が時代の流れに逆行している。

ベルトの辺りがパカッと開いて、なんとタバコを取り出して吸うのだ。ポパイにほうれん草なら健康的だが、ちびっこヒーローがタバコで回復は、今の時代ではアウトだろう。従ってエイトマンの復活はほとんど望めそうもない。禁煙区域の路上では戦えないし、公共の場所でも一切戦えない。「今日も元気だタバコがうまい!」と言っていた時代のヒーローなのだ。

禁煙、嫌煙の話は難しい。先日もある団体でタバコ論議になったが、吸う人と吸わない人の議論は全くかみ合わない。仲のいい集まりだが平行線、お互い大人なので気まずくなる一歩手前で笑って回避した。

私も、やめて30年になる。もともと根っからのタバコ好きではない。本当にうまそうに、煙を愛おしそうに吸う愛煙家をみると、吸っていいですよ、と思うのだが、のべつ幕なしのプカプカはやはり閉口する。タバコの迷惑は自分がやめて初めて分かる。あまり神経質に嫌煙を主張しようとは思わないが、たとえOKの場所でも気を使い合って、ぐらいでお願いしたいと思う。

東京の千代田区などが路上禁煙を実施した時に会津若松市へ、管理している鶴ヶ城、御廟、お薬園ぐらいは屋外禁煙を検討されたらどうですか?と申し上げたことがある。歴史を敬う気持ちも伝えられるし、観光地としてもクリーン、文化財の保護にもつながる。検討したいとの答えをいただいたが、ずーっと検討されたままだ。

エイトマンはタバコを吸うがために実質、悪とは戦えなくなってしまった。正義の味方の憂鬱は深い。タバコを吸うがために失うものはいくつあるのか・・・数えてみるのもいいかもしれない。

低温注意報の会津です。寒い。ストーブ、こたつ総動員。

2010年5月13日 (木)

まぁまぁの善人

今朝の会津はひんやりどころか、寒い。コタツをしまわずにおいて、本当に良かったと思った。こんな感じでは冗談抜きで今月一杯はコタツがしまえないんじゃなかろうか。天気予報は西高東低の冬型です、と言っている。

会津藩の童子訓「什の掟」が小学校の教科書に取り上げられる事になり、話題になっている。「ならぬことはならぬものです」という有名なあれだ。「年長者の言うことを聞く、お辞儀をする、嘘をつかない、卑怯な振る舞いはしない、弱いものをいじめない・・・」など。中には「外でものを食べない、女性と口をきかない」など時代にそぐわないものもあるが、人としての土台作りには誠に良い。

中でも最後の一喝、「ならぬものはならぬものです」という問答無用の教えこそが、こどもには大切なのだとベストセラー『国家の品格』の中で藤原正彦さんも言っている。理屈などいらない、ダメなものはダメだ!お天道様が見ているぞ!!と育てられる事で悪いことをすれば心が痛む、人の傷みが分かる人間になれる。恥を知る心が育つ。

「什の教え」は童子訓だ。今の政治家に聞かせてやりたい、といっても、ああなってしまってからではもう遅いだろう。第一、大人の世界はスッパリ切れるほど単純ではない。何がならぬことなのか線を引けないことも山ほどある。嘘と言っても、五月決着の顛末を見れば、一体何が嘘なのか分からなくなってしまうではないか。

品行方正、石部金吉である必要はない、おバカで、だらしなく、多少怠け者であったとしても、悪いことには心が咎め、人を傷つけたなら心が痛む人でなきゃあね。お天道様が気にならない人は、結局何をやってもダメなんだと思う。

「善人」とはホッとする言葉だ。偉そうな事は言えないが、まぁまぁの善人ではありたいと思っている。そして、できるだけ多くの善き人と付き合って楽しく暮らしていける、そんな日々がいい。

『決着も けじめも恥も 先送り』

2010年5月12日 (水)

見えるけど見えない

老眼というのは厄介なものだ。見えているのだが、細かいところがはっきりと見えない。数字など6か、8か、0かさっぱり分からない。眼のいい人ほど早く老眼になるというのも、なんとなく皮肉な感じがする。私は三十代後半から老眼鏡のお世話になっている。視力は今でも左右1・5程度はあるので目はいいのだが、その分、手元がさっぱりだ。

初めて気付いたのは、銀行で振込用紙を書く時、書く字に焦点が合わない。疲れ目かと思ったが、老眼だった。仕事柄デスクワークが多いので、あっさりあきらめ早めに老眼鏡のお世話になったのが良かったのかもしれない。長いが、あんまり進んではいない。

老眼になってみると世の中いかに字が小さくて見えないものが一杯あるか気付く。薄暗い居酒屋のメニュー、携帯やリモコンの文字、説明書や様々な書類、特に契約書の注意書きなどは確認する意欲を失わせるように作ってあるようにさえ感じる。総じて若者向け、というのは小さくて見えないのが、少し腹立つ。

ここ数年はメガネを常時首からぶら下げている。忘れたりすると資料も見えないし、仕事にならないからだ。近視の人は、逆にメガネを外せば見えるというのだからなんだか不思議だ。会議が始まり資料が配られると、メガネをかける人、外す人、ガサガサと騒がしい。

シニアグラス、リーディンググラスなど抵抗感がなくなるような洒落た名前の提案もあるが、あまり定着しないようだ。老いる眼、これほどストレートでわかりやすい言い方はない。第一この「老い」はメガネという助けを借りさえすれば問題がなくなるのだからまだ良しとするしかない。問題はなんらかの助けを借りても解決できない「老い」だ。徐々にそれが増えてくる・・・そこが恐いところなんです。

ようやく田んぼにも水が入ってきたようです。だからというわけでもないが今日の会津はかなり肌寒い一日、体調もなんだかおかしくなりそうです。お気をつけあれ!

2010年5月11日 (火)

思うにまかせない

地方紙のスポーツ面の片隅に「ナイスショット」というコーナーがある。県内のゴルフ場で行なわれたコンペ結果が載っている。(希望しないと載らないそうだ)小さなコーナーだが結構みんな見ている。特に会津のゴルフ場はチェックする。知った名前が出ていたりするからだ。

日曜のコンペの中にS君優勝が載っていた。80台半ばの好スコアだ。このS君と2週間ほど前にご一緒した。その時は失礼ながらボロボロだった。スコアも軽く20点は違う。いや、なに、S君をどうこう言おうって事ではありません。こういうことが全然珍しくないという事を話題にしたいのです。

本当に同一人物?と自分でも自分のことを疑いたくなるほどいい時と悪い時が違うのがゴルフだ。おかしいな、おかしいな、と思うと加速度的におかしくなる。球が止まって動かないから、なおさらなのだ。動かない球に向かって一方的に力んだり、打ち急いだりして、平常心を失っていく。あんなにいいショットをした人間が、1ミリも逃げない球に向って思いっきり地面を叩いたりするのだから信じられない。

自分のいいショットは分かっている。それをなぞろうとしているのにメチャメチャになるのだ。『どうやって振ったらいいのか分からなくなった!』という言葉はすごくよく聞くし、よく言う。本当に分からなくなる。それもこれも球が動かないからだ。テニスや野球のように向ってくる球なら相手のせいにも出来よう。カーブやシュートもしないでじっとしているに、空振りしてるんじゃ笑う他ない。

身体は思うにまかせない。いや、身体だけじゃなく実は心も思うにまかせない。まかせないからメンタルトレーニングなどという技術がある。考えてみれば自分のものなのに身も心も本当は、なかなか思うにまかせないものなのだ。ましてや他人様が自分の意に沿うように応えてくれるはずはない。そんな事を望むほうが間違っている。

人は誰も思うにまかせないものを抱えて生きている。だからこそたまの『グッドショット!』が嬉しいのだ。屁理屈と負け惜しみに満ちたフェアウェイを歩きながら、じっと耐えて頑張る、それがゴルフ、それが人生なのだ。

・・・ま、どうでもいいけど百ぐらい切れって話です!

2010年5月10日 (月)

んめぇもの・奴郎ヶ前の田楽

地名で「やろうがまえ」と読む。東山温泉の入り口近く、お秀茶屋という茶屋が一軒、ここの田楽は会津を代表する味と言って間違いない。こどもの頃、世界で一番好きなのが奴郎ヶ前の田楽で、二番目が三好野のハヤシライスと公言していた。二番目はとうに無くなったが、奴郎ヶ前の田楽は今も健在、なんと三百六十年の歴史があり、今のご主人が十六代目というから、半端な老舗ではない。

竹の串に餅、厚揚げ、里芋、ニシンなどを刺し、炭火で焼き、甘いみそを塗っただけのシンプルさだが、素材のうまさと香ばしさがなんともいえない。こどもの頃には小鳥なる串もあった。小さな頭蓋骨までついた小鳥の丸焼き、グロテスクでこどもにはとても無理だったので味は分からない。

昔は田楽セットなんておしゃれなものは無かったので、何本でも食べられるだけ食べた。バカ食いして餅が出そうになって動けなくなった事もある。

入り口に大きな囲炉裏がある。山盛りの炭がいつも真っ赤に熾き、その火を囲むように串が刺され、どんどん焼き上げられていく。火の近くに寄るだけで顔が火傷しそうな、超遠赤外線の焼き場、この熱がおいしい田楽を生み出すのだ。

昔は、華奢できれいなおばあさんがこの焼き場を仕切っていたっけ。その人がお秀さんで、お秀茶屋なのだと思っていたが、どうなんだろう?

店には山下清さんや手塚治虫さんも好んで訪れたという。古いものから新しいものまで数多くの著名人の色紙が飾られている。私も大事なゲストが来るたびにご案内する。総じて評判は上々で、その素朴な味わいが苦手という人には、外国人も含め、今だお目にかかったことが無い。

少し灰のついた串が熱い。口元に持ってくると焦げた味噌がぷぅーんと香ばしい。ばくっといくと、これがまた熱いんだ。まさに会津の味です!今でも餅なら軽く十本はいけそうな気がするけど、いい年してバカな事はやらないように、セット一人前で大人しくいただいています。

2010年5月 9日 (日)

始まらない五月

さわやかな五月、会津では田植えの季節だ。早いところではGWに始まり、その後、2、3週間で一斉に田植えが行われる。昨日、今日と素晴らしくいいお天気だ。しかし、今年は田植えをしている姿がまったく見られない。四月の低温や雪で苗の成長も、すべての農作業も遅れているようだ。

先日の報道によると、有名な会津高田梅は四月の雪で相当な被害を受けたらしい。今後、うまくいっても例年の半分ぐらいの収穫量しか見込めないと農家の方が嘆いていた。赤ちゃんの握りこぶしほどもある高田梅は名品、カリカリに漬けた梅は我が家の常備品(酒の肴)だ。梅だけでなく、成り物(果物)全般が今年は良くないらしい。

もうだいぶ前になるが日本中が冷害に遭い、米不足に陥った時があった。タイ米の輸入が行われ、不味い不味いと大騒ぎをしたことを思い出す。だがあのときでも会津平の作況指数はそれほどひどいものではなかった。山間地は壊滅状態だったが、会津平はしっかり米が実った。

やっぱり、お城のある地は違う!と、感心したものだ。先人たちの知恵は計り知れない。地形、地勢、どれほどの安定感かを見抜き、町を作り、城を築いた。住んでいて確かに災害の少ない土地だと実感する。水害、地震、異常気象、多少はあるが無事にこうして大きくなった。

田植えの始まらない五月、それでもどうか肝心な時期には気候が戻り、いつもの実りであるように心から願いたい。

『我が街は水に浮かびしベネチアの如し 田植え終わりし五月の会津』

2010年5月 8日 (土)

おわいなはんしょ、の一言

『貧しいから あなたにあげられるものといったら さわやかな五月の風と 精一杯愛する心だけです』

記憶はあいまいだが、その昔、森光子さんの主演で「パンツ屋の・・・・」(?)というホームドラマがあった。内容は全く覚えていないが、劇中にこんな詩が出てきたことを覚えている。母がとても気に入っていたので、なおのこと覚えているのだろう。貧しいけれど、五月の風に励まされて、精一杯に生きる家族の物語だった。母は感動してよく泣いた、そして私の頭をなでた。

明日は母の日だ。母は63歳から歳をとらない。この世を去ってもう23年にもなる。母は東京から会津に嫁に来た。磐越西線の磐梯熱海の駅では蒸気機関車のスイッチバック(急坂で登れないのでZ型に進む)が行われていた。汽車がまっすぐ登れずに、いったん逆向きに進みだした時には、一体どんな山の中に行くんだ、という心細さから涙が溢れた・・・という話を何度も聞かされた。

一番困ったのが会津弁だったらしい。テレビも発達していない時代だったから、訛りも強烈だったろう。まず聞き取れなかったろうし、普通に話せば「すったぐっちぇんな!」(すましてるな、しらばっくれてるな)などといじめられたらしい。それでも明るい人だったから会津弁に馴染もうと、へんてこりんな会津弁を使い、よく父に怒られていた。

昔、商家のおばあちゃんの話す会津弁は京言葉のように美しい響きがあった。「おわいなはんしょ(いらっしゃいませ)、どうしらったし?そうだなーし」と、はんなりに共通する響きがあった。しかし、こればかりはやはりその土地で生まれ育った者にしか出せるものではない。

当時、我が家は商売をしていた。母も店先に立ったが、その「おわいなはんしょ」がどうしても言えなかったようだ。優しい「いらっしゃいませ」の声が今もはっきりと耳に残っている。

商家にとっては大事な一言、その一言が言えない葛藤があったに違いないのだ。にもかかわらず「おかあちゃん、おわいなはんしょ、って言ったらいいべした!」と平気で母に無邪気なボディブローを浴びせていたんだなぁ、と今になって思う。・・・ごめんなさいの線香でもあげるか。

会津は爽やかな五月の風の中です。

2010年5月 7日 (金)

よっ、日本一!

昨日は暑かった。それもそのはず、会津若松市の最高気温33.3度、なんと日本一の最高気温だったそうだ。初夏を通り越し真夏の気温だ。帰宅したら熱気がこもっていた。エアコンを、と思ったが、昨日、コタツとエアコンを併用するようなおバカな事はしない、みたいな事を書いた手前、ぐっと我慢した。

TVニュースでは会津若松市の気温が日本で一番高かったと報じていた。ま、なんであれ会津若松市の名前が全国に告げられるのは悪いことではない。フェーン現象さんのお手柄であって何の努力をしたわけでもないが「よっ、日本一!」と、敬意を表し冷えたビールをいただいた。かなりうまかった。

連休の好天とこの高温で山は一気に、本当に一気に芽吹いた。二日前には感じなかった新緑が今朝は山々にちりばめられ、慶山から飯盛山、滝沢の山々が誠に美しく変身していた。うす曇りの朝の光がベストマッチだ。世界中の絵の具を溶いても足りないほどの多彩な彩りに溢れている。山腹のところどころには山桜、霞みか雲か朝日ににおう・・・だったっけ?

会津の薫りを綴り、駄文を重ねたこのブログも今日が第100回目です。写真も愛想もないけれど、せめて季節が一巡りするまではと思っている。会津を見つめ直し、自分でも気付かなかった素敵な会津に会いたいと願いつつ・・・。

2010年5月 6日 (木)

さらばコタツ

この天気というヤツもまったく加減を知らない感じです。昨日から夏になり、暑がりにとってはもう半袖の世界です。今日の予想はなんと29度、もう少し滑らかにというか、段々にというか、出来ないもんでしょうかね?

我家は(私はといったほうがいいか)コタツ派である。ストーブで部屋は暖かいがコタツはゴロゴロするのに必需品、コタツのない冬は考えられない。ついこの間まで朝晩冷え込んでいたので、当然コタツはまだ出したままだが、毎年コタツを何時仕舞うかが悩ましい。大体、家人と対立する。この時期のコタツって、電気を入れていないと意外とひんやりして、逆に気持ちが良かったりする。そんなわけで私は「まぁだ、いいだろう派」、家人は片付かないから「もう、いい派」だ。

私としてもコタツとクーラーを一緒に使うお馬鹿なことは避けたいと思っているし、出しっぱなしで夏を乗り切ろうなどという無謀な考えはない。

その辺を充分に鑑み、会津の気候から推すと、GWからここ2~3週間がせめぎあいの時期となる。それにしても夜なんかなくなると妙に淋しいものだ。また、早朝の肌寒い部屋にコタツが消えた姿も心に穴があいたような気分にさせられる。

この分で行くとおそらくは今度の休みか、その次か?ま、別れと言っても5ヶ月ほどだ。暖房と無縁の時期は本当に短い。また会う日まで元気でいてね。大好きです、コタツさん!

2010年5月 5日 (水)

川柳もいいもんだ

川柳、17文字で世相に切りこむ、人の世の機微を謳い上げる文芸だ。実は会津は結構盛んだ。私の友人の遠藤兄弟、二人とも開業医だが川柳の世界では有名人だ。彼らの父君(号・余詩朗)がまた全国区でその世界では大変な名人だったらしい。

先ごろ兄君の八舞氏が快挙を成し遂げた。読売新聞の時事川柳研究会主催の大会で見事天位を抜いた。これまた門外漢ではさっぱり分からないが川柳の世界ではおそらく最高峰の大会、その天位は日本一を勝ち得たといってもいいそうだ。弟君が興奮気味に知らせてくれた。その弟剛氏もさまざまな方面で活躍されている。

そう、その天位の句は『たっぷりと国民に仕分けされる夏』という。事業仕分けで一世を風靡した政権がまな板の鯉になる夏、たっぷりっと、に思わずニヤッとさせられる。たった17文字で権力に切り込むこれぞまさに川柳だ。

プチ自慢です。先日、ある雑誌の川柳コーナーに初投稿、天位とはいきませんでしたが見事掲載されました。川柳など習ったこともなく、見よう見まねの試しの一句。『初夢を見たことだけは覚えてる』正月の情けない思いを句にしてみた。これに味をしめ、もちょっと勉強してみようかなと思っている。

好きな江戸川柳に『ため息は命を削る鉋(かんな)かな』というのがある。GWももう終わりだ。また明日から忙しい日々が続く。ため息をつきたくなるそんな時、そのため息がいろいろなものを削り落してしまう鉋だということを肝に銘じたい。

一人落ち込むため息も辛いが、大好きな人に目の前でため息をつかれると、あれほど傷つくこともない。

2010年5月 4日 (火)

お花まつり

お花まつりといってもお釈迦様の誕生日ではない。GWのさなか毎年5月4日に東山御廟において会津松平家のお花まつりが行われる。歴代藩主の霊を慰める御法事の様なおまつりだ。

御廟とは東山慶山にある会津松平家の墓所だ。ひと山全部が松平家の墓所になっている。歴代藩主の廟所では国内最大規模だ。二代から十二代までのお殿様とその家族が眠っている。会津松平家は神道で、墓と言っても大規模だ。ガメラのような巨大な亀石の上に石柱があり、その四面にはびっしりとその藩主の功績が漢文で刻み込まれている。その50メートルほど上部に墓石がある。そのひとセットが十二、山腹に点在している。他に西のお庭、東のお庭などにその奥方、家族の墓石がびっしりと並んでいる(こちらは仏式)

全山が深い緑に覆われ、その中に点在する墓、墓、墓。霊感のうすい私でも何となくスピリチュアルなパワーを感じる会津の聖域である。

お花まつりは中腹にある拝殿で行われる。神主が祝詞を奏上し、関係者が玉ぐしを奉奠し霊を敬う。儀式は緑の木々の中で厳かに行われ、終了後は拝殿で松平家の当主を囲み直会が行われる。

現在の松平家は十三代当主松平保定(もりさだ)様、十四代保久(もりひさ)様、十五代親保(ちかもり)様だ。今日は十三代は体調を崩され欠席、十四代のみの出席となった。十四代は私と同い年、十五代は小六とまだ小さい。

昨晩は十四代を囲み酒宴を楽しんだ。現在、松平家は東京在住。我々のような市民有志が奉賛会を作りお花まつりなど松平家の行事をお手伝いさせていただいている。世が世ならばのお殿様だが、いたって気さくにいろいろなことを話し合う。やはり会津を語れば少々熱がこもる。一応、同い年なので「もりひさ君」でも「もりちゃん」でもいいのだろうが、やっぱり呼ぶ時は「殿様」だ。誰もが「殿様」と呼んで何の違和感もない。

お花まつりの神事は神主をはじめ全員の一礼から始まる。一般神事の降神や昇神の儀はない。神主様にたずねると「ここは神様がもうそこにいらっしゃるわけですから」、なるほど納得、いちいち降りてきてもらうこともないわけだ。だとすると、始まる前に何か不謹慎なこと言わなかったかなぁ・・・ちょっと心配になった。

2010年5月 3日 (月)

もう一人の監督

好天のGW、ETC1000円も最後の連休とあって、会津は大勢の観光客で賑わっている。良い天気の中、映画を観た。見逃していた山田洋二監督の「おとうと」がかかっていたからだ。会津でただ一館の映画館、会津東宝。数年ぶりに行ったが夫婦50割引をやっていないのはショックだった。50割はシネコンでも行っているので、これではますます人が減ってしまうのではないかと余計な心配をした。

山田洋二監督は会津に縁がある、その縁をつなぐのが撮影監督高羽哲夫さんだ。会津若松市のすぐ隣り、美田の広がる湯川村に生まれた高羽さんは松竹で山田洋二監督と組んだ。二人は生涯のチームとなった。高羽さんが亡くなるまで、寅さん最後の2作を残して山田作品すべてのカメラを高羽さんがまわしている。クレジットも撮影ではなく、撮影監督高羽哲夫となっているところから高羽さんの存在の大きさがうかがえる。

全国を旅する寅さんシリーズに会津は出てこない。唯一、冒頭の寅さんの夢のシーンに会津柳津が一度出てくるだけだ。会津のロケハンは何度か行われたらしいが、高羽さんが自分の故郷に向けてカメラを回すのをためらったといわれている。思い入れが強すぎて磐梯山は撮れないと語ったとか。

寅さんの後、山田監督は時代劇三部作を撮った。「かあべえ」も戦争の時代の映画、寅さんのように今を舞台とした映画は「おとうと」が初めてではないだろうか?

映画は泣かせた。鶴瓶の熱演が光った。脇を固める芸達者も多い。しかし、印象が極めて平板だ。時代劇の様式美の中では気付かなかったが、こうして現代劇を見ると撮影監督高羽哲夫が山田作品の中で果たしてきた役割がどれほど大きなものだったのか、改めて分かる。高羽さんが撮ったなら「おとうと」は全く別なものになっていたに違いない。

我々が仲間と続けている高羽さん顕彰のための小さな映画祭「会津ふるさと映画祭」。山田監督は二度ほど訪れ話を聞かせてくれた。『高羽さんを失った時、僕は片腕をもがれたような気がした・・・』という監督の言葉がいまさらながら沁みた。会津の先達、すごい人だったんですね高羽哲夫さん、改めて合掌です。

2010年5月 2日 (日)

北限のサル

「サル」というあだ名は珍しくないが、中でも一番有名なのは豊臣秀吉だろう。秀吉が生涯で訪れた北限の地が会津である。小田原の北条を滅ぼし天下統一を成し遂げた秀吉は、奥州仕置きのためその足で会津を目指した。このことでも、会津が北の備えとして最重要地だったことが分かる。

天正十八年(1590)八月、秀吉一行は白河方面から湊を通り、背あぶり山を越えて黒川(今の若松)を目指した。山の上で一休み、眼下に広がる肥沃な土地を家臣たちとともに眺めたという、その広々とした草原は秀吉にちなんで今も「関白平」と呼ばれる。

城下に入った秀吉は名刹・興徳寺で奥州仕置きを行った。興徳寺は神明通りからわずかに入ったところに今もちゃんとある。この寺に三日間いた秀吉は、会津の地を蒲生氏郷に託す。戦国大名の中でも超エリート、利休七哲のひとりに数えられ、織田信長の次女・冬姫を妻に持つ氏郷。本当は秀吉が氏郷の実力を恐れ、奥州に追いやったのだという説もある。いずれにしても九十二万石の大大名が誕生した。

秀吉の思惑はともあれ、会津にとっては氏郷さんを迎えた事は幸福なことだった。氏郷さんは現在の会津につながる様々な施策を精力的に行った。黒川を若松と改め町割りを行った。酒や漆器などの産業も根付かせ、今に伝わる会津の基礎を築いたといっていい。

およそ一週間で北限の地を離れたサルは大阪へと帰って行く。そこから氏郷さんの治世はわずかに五年しかない。大阪に出向いた氏郷さんは急病に伏せ、わずか四十歳でこの世を去る。あまりに若い死に秀吉に毒殺されたのではないか、という説もあるが真相は歴史の闇の中だ。

歴史の舞台興徳寺の桜、昨日は満開でした。境内の奥に蒲生氏郷のお墓がある。ひと目で偉い人のお墓だ、と分かる古びた五輪の塔。その脇には氏郷さんの辞世の句が刻まれている。

『限りあれば 吹かねど花は散るものを こころ短き春の山風』格調高い句だが、深読みすれば、「サルにやられた!」と、読めないこともない。

2010年5月 1日 (土)

床屋の必要性

昨日、床屋に行った。そういうと「床屋に行くんですか?」と聞く人もいる。なぜなら髪の量が三十後半頃から急速に減り、素人目には床屋が必要ないような量に達しているからだ。しかし、残されたものは伸びるのでやはり切らなくてはならない。

家人にチョチョイと切ってくれというのだが嫌だと取り合わない。おそらく、どうでもいいといいながらああだこうだと文句を言うのが目に見えているから、嫌なのだ。先見の明があるといわざるを得ないだろう。ま、そんなことでケンカのネタを作ることもないので季節に一度ぐらい床屋に行って整えてもらうのだ。そのたびに思うのだが昔の床屋は良かった。

「ひげでもあたるか!」坂東英二が親友の健さんを誘う、映画「あ・うん」の一場面だ。昔の男は床屋でひげをあたるのがひとつの娯楽、息抜きだったのだ。熱い蒸しタオル、清潔な白い店内、口元に逆さくちばしみたいな息除けをつけた理髪師が白衣でゆっくりと動く。静かな時間が流れ、健さんと坂東はひげをあたってもらいながら言葉をかわす。ひげを剃り終えた爽快感は、二人の間に何も隠し事がない厚い友情を描き出す。

昔、父親に連れられていやいや行った床屋も、同じような感じだった。自分がアタマを刈られるのはいやでたまらなかったが、ひげをあたったり、耳を掃除したり、肩を揉まれている父の気持ち良さそうな姿がうらやましかった。

今の床屋はどうだ。くっちゃべるし、ガチャガチャ動く、ひげをあたられながら寝てしまうなんて事はできやしない。もう少し床屋の情緒というものに気を配ったらどうなの?と思ってしまう。千円床屋が巾を聞かす時代だから仕方がないのかもしれないが、クラシックな昭和初期のような高級床屋を再現したら、案外流行るのではないかと思う。

少し切るとさっぱりする。これで少しは若くなったな、というと「おじいさんみたいになった」と言われた・・・。

会津は今朝もまあだ空気の底が冷えてます。本当にこの後、どんどん気温が上昇するのでしょうか?この分ではGW最後まで桜は充分に持ちそうです。

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