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2010年2月

2010年2月28日 (日)

あわまんじゅうとパティシエ

会津若松市の隣の隣町、会津柳津町。円蔵寺・福満虚空蔵尊の門前町として有名な町だ。市内からおよそ20㎞、高速を使えば20分ほど(ETC割300円)。柳津の名物といえば何といってもあわまんじゅうだ。虚空蔵尊の前にはまんじゅう蒸かしの湯気をもうもうと上げる饅頭屋が軒を連ねる。災難にアワない、という縁起担ぎの、黄色いあわをまとったまんじゅうは素朴な味わいでうまい。

その柳津に、女性パティシエが洋菓子店を開いたとテレビの番組で見て行ってみた。虚空蔵尊の真下、「パティスリー 塔之坊」がそのお店。あづまさんという若い女性が一人でケーキを作っている。こじんまりとしたお店、小さなショーウィンドウには今日のケーキが5つ並んでいた。その場で食べてお茶も飲めるが4種類を買って来た。予約すれば大きなケーキも、いろいろ作ってくれるらしい。

ケーキは小ぶり、値段は田舎にしてはなかなかいい。食べてみて驚いた。上品な甘さ、手の込んだ作り、家人曰く、優しくきれいな味だ。少量のケーキををこれだけの材料で作るには、材料費がどうしても割高になってしまうだろう。美味さに、その価格も納得がいった。

柳津はあわまんじゅうもいい、栗が丸まる一つ入った栗まんじゅうもファンでした。加えてもうひとつ、柳津のマイ・名物が増えました。塔之坊のケーキ、なかなかのもんです。

2010年2月27日 (土)

底が問題です。

クルマが普通タイヤでは雪道に全く歯が立たないように、雪国の冬は足元が問題だ。必ず長靴着用、というわけではないがおしゃれな靴でも底は雪国仕様であることが必須だ。転倒事故のほとんどは履物の問題、凍った道を皮底の皮靴では、屈強な若者でも歩行は困難だ。その靴底も近ごろは優れモノが多いが、ツルツルの氷の上は、やはりどんなものでも滑る。

それでも会津の人があまり転ばないのは、歩き方そのものが雪国仕様になっているからだ。微妙に腰が引け、手は受け身を取りやすいようにだらりと下げる。転んでもそれほどの大怪我はしない。マンガのように足を天に蹴り上げて頭を強打するような無防備な転び方はしない。あれは雪のない国の人々の転び方だ。会津の人は子どもの頃から何度も転んで身を守るすべが身に付いている。(それでも冬場の転倒事故は多いけれど・・・)

滑らない靴底なら一年中履いていても良さそうなものだが、それはそれで「?」だ。靴音がいまいちだし、やはりごつく、スマートさに欠ける。リノリュウムの床を歩くとポキュ、ポキュと鉄腕アトムが歩いているような音がする。

そんな雪国仕様の靴も今週半ばから履いていない。気温も上がり、街が乾いてきた。普通の革靴を履いてみる・・・こんなところにも会津の春はある。

2010年2月26日 (金)

んめぇもの・ラーメン 「きむらや」

会津でラーメンといえば何と言っても喜多方ラーメンが全国区だ。博多のとんこつラーメン、札幌のみそラーメンと並び、喜多方はしょう油ラーメンでその名が轟いている。会津若松市から北におよそ20km、喜びの多い方という名前も良い。が、今回は喜多方ラーメンの話ではない。喜多方に隠れてはいるが会津若松市もラーメンのレベルはかなり高く、なかなかの店が揃っている。その中の一軒、お気に入りが「きむらや」だ。

竹田綜合病院交差点の西側、店構えも名前もごく普通だが、味は秀逸だ。煮干系(こんな言葉があるのかわからないが煮干の効いたスープ)のラーメンだ。ラーメンのスープは大別して二つあると思う。煮干の香がするものとしないもの、いくら美味いといっても煮干系が苦手という人は始めっからパスだ。

ラーメンはしょう油とみそだけ。それぞれにネギがあり、みそにはタンメンがある。何と言ってもしょう油ラーメン、ちぢれ麺に味のしっかりした深みのあるスープがピタリ、チャーシューが柔らかく溶けるようだ。みそはスープを活かし、しょう油の延長上の味わいでコクがある。

ネギラーメンのネギは細く切った白髪ネギのてんこ盛り、他ではなかなか見ない量だ。こちらは細切れのチャーシュー&メンマが麺に隠れている。いずれも甲乙付けがたし、しょう油→みそネギ→しょう油ネギ→みそ、みたいなローテーションで食べている気がする。若いヒゲの店主が一人で作る、フットワーク良くなかなかの手際で、味にバラつきがないのがいい。

昨夜の酒が少し残っている感じもする、こんな日はしょう油ですなな、やっぱり。

2010年2月25日 (木)

さよなら百貨店、さよなら繁華街

会津若松市の銀座は神明通りという。南北200メートルほどの通りにはアーケードが懸かり店が軒を連ねている。この通りが繁華街の賑わいを失くしてから何年が経つだろうか・・・?昭和40年代までは確実に会津地方一の繁華街だった。パチンコ屋や遊技場、映画館、喫茶店、食堂が軒を連ね、アーケードの下はいつも人で溢れ返っていた。露地に踏み込めば魅力的な店が在り、その外側を大きく夜のネオン街が取り囲んでいた。

地方都市が逃れられない中心市街地の空洞化現象、会津若松市も例外ではない。200メートルのアーケードは端から端までいつでも見通せるようになり、両側にはシャッターが続いている。神明通りにかろうじて残り、会津でただひとつとなった百貨店「会津中合」、そのデパートも今月一杯で店を閉めてしまう。

ガキの頃は屋上の遊具で遊んだ。好青年だった頃にはビアガーデンで夏の夜を満喫した。進物は中合の包装紙じゃなきゃ・・・といわれた日も遠くなった。まったくもって淋しい限りだが、同時に新たなチャレンジも進行しているそうだ。中合デパートにあるテナント10軒ほどをシャッター通りに生き返えさせるのだという。それも活性化の補助でお洒落な店に。廃れ行く街に「喝」が入るのか?楽しみなところだ。

でも、この計画が功を奏したとしても、繁華街が蘇るというのはもう無理だろうと思う。お行儀がいいだけではなく怪しく不思議な魅力を持った繁華街、どこか猥雑でセクシー、光と影が交錯し、ちょっと怖くもあり、それでいて惹き込まれてしまうような繁華街の魅力。

そうだ。そんなものは会津に限らず、日本中から消えつつあるのかもしれない。

2010年2月24日 (水)

会津は、ずれている。

会津若松市は松平家23万石の城下町だ。基礎は、四百有余年前の戦国大名・蒲生氏郷が築いた。今、車が走っている通りの大筋は四百年来あまり変わっていない。城下町の町割りというものは当然の事ながら、戦時への備えも考えられている。数多く配置された寺院も一方では防火帯であり出城にもなるように考えて配置されていたわけだ。

そんな戦への備えとして面白いのがところどころずれている四つ角だ。城下町は基本、碁盤の目のように分かりやすいが、ところどころ、通りの幅分角をずらしてある。まっすぐ来ると一見、突き当たりに見えるがクランク状に角がずれているという仕掛けだ。これは敵が一気に攻め込めないように、正面から迎え撃って殲滅していしまおうというわけだ。

そんなずれた角が所々に残るので、慣れないと走りにくい。まして四百年前の道幅は細いため、通りが交互に一方通行になっている。これも慣れてしまうと意外と便利ではあるのだが、旅人はよく迷ってしまう。

「あら、さっきの人また通ったわ、ぐるぐる回って迷ってるんだわ!」なんて事がよくある。教えてあげれば良さそうなものだが、会津の人はどうもシャイで、自分のほうから「どうしました?」なんてのは苦手なのだ。尋ねればきっと懇切丁寧に教えてくれるはずだ。

『うららかや 角のずれたる 城下町』

2010年2月23日 (火)

会津と演劇

昨日、脚本家の倉本聰氏と握手をした。大きく柔らかな手だった。富良野塾の閉塾公演「谷は眠っていた」が、21日の南会津町に続いて会津文化センターで行なわれ、倉本氏も訪れていたのだ。舞台は役者の肉体を存分に使った素晴らしい舞台だった。

あまり知られていないが会津は演劇が盛んである。アマチュア劇団も多い。その頂点に立つのが「童劇・プーポ」。大人が演じる児童劇を一筋に活動は半世紀を越え、数多くの文化賞を受賞している。他にも「劇団・ぴーひゃらら」や「シアターF」などアマチュア劇団が活発に公演を行なっている。また、演劇鑑賞会も会員減少には頭を痛めてはいるものの立派に活動を続け、ふた月に一度は中央の劇団の公演が行なわれ、千名以上の市民が鑑賞している。

こうした演劇の盛んな土壌は、能楽の歴史に遡るのかもしれない。会津宝生流を受け継ぐ会津能楽会は全国でも数少ない市井の能楽会である。能面、装束など文化財級の宝を継承し、今も盛んに活動を行なっている。昨年には、多くの市民の寄附が集まり、鶴ヶ城本丸東側に念願の能楽堂も完成している。

会津若松市の市民会館は「會津風雅堂」という名前だ。このホールも多目的ではあるが、演劇に傾斜した仕様となっている。地方にいながら良質の演劇に数多く接する事ができる、これは実に嬉しい事である。

2010年2月22日 (月)

塩引きにしょう油

山国と魚の話つづきます。会津では昔、鮭の切り身を「塩引き」と呼んでいた。傷まないようにがっつら塩に漬けた切り身は、焼くと真っ白い塩が噴出した。メチャクチャにしょっぱい。一つまみで一膳のごはんが食べられるほどだ。生の切り身とか甘塩鮭とか、塩引き以外のものに出会ったのはやはり昭和30年代に入ってからのことだと思う。鮭があんなにも脂がのって、実は柔らかく美味しいものだとはそれまで知らなかった。

あんなにしょっぱい食べ物が身体に言い訳はない。一口で血圧が上がりそうなほどのしょっぱさだ。したがって今でははとんと見かけない。

もう十年以上前になるが、父親が弱り、おかゆもあまり食べなくなった。それでも昔懐かしい塩引きがあると少しは食べた。扱っている店を一軒だけ見つけ、毎朝一切れ焼いては病院に届け食べさせた。それでも父は物足りないのか、しょう油をかけろとせがんだ。まるで塩にしょう油をかけるようなものだ。ま、今さら血圧に気を使っても仕方がなかろうと、口に運ぶと「ああ、うめなぁ」と言って、いたく幸せそうな顔を見せた。

隠れてちょっとつまんでみたが、口がしびれるほどしょっぱかった。それを「うめなぁ」と父が言う度に、別れの時がそう遠くはないことを思い、心の方も結構しびれた。

2010年2月21日 (日)

玉虫色のマグロ

あらためて言うまでもないが会津は山国だ。昔は海産物といっても生のものはほとんどなく、塩漬けや乾物がほとんどだった。新潟から阿賀野川をさかのぼり、塩川まで船で運ばれ、馬の背で会津に入ってきた。海に対する憬れは相当に強かっただろう。それは、今に伝わる会津の郷土料理の多くが海産物を材料にしていることからもうかがえる。

「こづゆ」は貝柱の出汁が欠かせない。「ニシンの山椒漬け」は鰊の乾物、「棒たら」は石のように硬いタラの乾物をホクホクに煮戻したものだ。

刺身が普通に食べられる様になったのは、昭和も30年代に入ってのことだ。父(大正2年生まれ)から生前にこんな話を聞いたことがある。

鮮度の怪しくなったマグロの切り口は、玉虫色に光って見える。が、父はずっとそれが新鮮な証しだと思っていたという。若い頃に誰かに吹き込まれたのだろうが、全く疑いも持たなかったところをみると、言った本人も本気でそう思っていたのかもしれない。初めて東京に行って鮨をごちそうになった時に、そのおいしさに驚いたが、きれいな赤身のマグロが玉虫色ではなかったので、旨いことは旨いが鮮度はいまいちだと思ったというから笑える。

そんな山国の会津も日本海と太平洋を結ぶ高速道路で結ばれた今、どちらの海へもクルマで2時間という地の利を得た。「会津でこんなにうまい魚が食べられるとは思わなかった!」という声は決して珍しくない。山国ゆえに一層鮮度にこだわり、仕入れに気を配る店は少なくないのだ。

会津の魚は総じて旨い。そして玉虫色のマグロはもう見られなくなった。

2010年2月20日 (土)

半ドンの頃

土曜日のお仕事は午前中で終わり、というのが「半ドン」だ。近頃は週休二日制が定着し、土曜は休みか、終日勤務と言うのが当たり前になり、この言葉が今も使われているかどうかはよく分からない。

社会に出て働き始めた頃、半ドンの土曜日がメチャクチャ嬉しかった。サタデイ・ナイト・フィーバーなんて言葉が流行った頃だ。「今日は半ドン!」と聞いただけで胸が高鳴ったものだ。お得感はこの上なかった。

会津若松市から車で1時間も走れば山も川も湖もある。午後からでも充分に遊べる。今の時期ならウィンタースポーツ、夏なら湖上、テニスやゴルフも楽しめる。温泉めぐりや山遊びもいい。アクティブな人間にとって半ドンは、仕事と遊びの充実感を同時に楽しめるときめきの一日だったように思う。おまけに翌日は日曜、夜はいくら飲んでも大丈夫となれば、いやがうえにも心は躍った。

・・・あの半ドンの頃はどこに行ってしまったのだろう。

2010年2月19日 (金)

げっぽとペロぱん

「げっぽ」はビリの事。「ペロぱん」はおけらになる、すってんてんになるという意味だ。子どもたちがよく使う会津弁のスラングみたいなものだ。かけっこをしてびりになればげっぽ、ペッタ(めんこ)やビー玉など持ち分を賭けて争う遊びで、すってんてんになればペロぱんだ。

ペッタもビー玉も近頃ではめっきり見なくなったが、30年代、40年代の子どもたちはよくやった。ビー玉は春先にやる。雪解けが進み、わずかに黒い地面が顔を出した場所を探しながら熱中したものだ。もっと暖かくなってからやれば良さそうなものだか、すっかり地面が乾く頃には熱が冷めてしまう。ぬかるんだやわらかな地面と土のにおい、ぽたぽたと垂れる雪解けのしずく、そんな会津の春の感触が色とりどりのビー玉と重なる。

思えばあの頃の子ども達は、ごく自然に、毎日のようにげっぽやペロぱんの辛さ、勝つことの快感を味わっていた。負けて泣き出す子ども、それを囃す悪ガキ達、いけないことも一杯あっただろうが、そんな中で子どもたちが大切な事を学んだのも事実だ。げっぽになったからと言ってペロぱんになるわけではない。げっぽの中から掴み取ることも少なくはなかった。

飛躍するが、スノーボードHPの国母選手、げっぽではないけれど残念ながらメダルには届かなかった。でも彼のすべりはとても見事だった。タラ・レバはないが、決勝一本目のフィニッシュが決まっていればメダル圏内に滑り込んだに違いない。そして何よりも自分の競技に誇りを持っていることがよく分かるし、決して逃げない姿勢が男らしい。勝てなかったからと言ってペロぱんじゃない、ポケットの中はきっといろんなもので一杯だろう。国母君、君はなかなかかっこいい!

2010年2月18日 (木)

んめぇもの・酒 「玄宰」

末廣酒造の銘酒「玄宰」(げんさい)。会津藩の名家老・田中玄宰(たなかはるなか)からその名を取っている。田中玄宰は天明の大飢饉でガタガタになった藩財政を建て直し、白虎隊も通った日本三大藩校のひとつ日新館を創設した事で名高い。破綻寸前の財政を無駄を省いた改革と、未来につながる教育への投資で復興したのだ。なんだか今の日本にも当てはまるような・・・。

酒の玄宰は一升一本一万円とお高いが、これぞ大吟醸と、うなってしまう味わいだ。薫り高く(高すぎず)さわやかな中に「酸・甘・辛・苦・渋」といわれる日本酒の五味が絶妙のバランスで潜み、喉越し良好。

醸す末廣酒造は、高田に博士蔵という平成の近代蔵を持つが、市内大和町に江戸時代から伝わる嘉永蔵を有し、大吟醸酒はこの蔵で丁寧に仕込まれる。嘉永蔵は観光名所としても知られる。また、嘉永蔵のホールではコンサートなどが行なわれ、文化の発信地としても親しまれている。ジャズの巨匠・渡辺貞夫は毎年この蔵でコンサートを行なっている。

当主の七代目新城猪之吉氏、彼もまた有名人。音楽好き、映画好きで、全国にも広い人脈を持つ。豪放磊落、駄洒落連発、今はもう数少なくなった古き佳き酒屋の大旦那という雰囲気を持った還暦の慶応ボーイだ。

今日も会津は寒い。熱燗もいいが「玄宰」はやはり冷やしていただくべきだ。今夜あたり・・・と言いたいところだが、ふところの関係上、お目に(舌に)かかるのは年に数回である。

2010年2月17日 (水)

さすけねぇ~

会津弁で「大丈夫だ~」という感じ。「佐助居ない」ではなく「差し支えが無い」というのが訛ったものと思われる。落ち込んだ時「さすけねぇ~」と声を掛けられるとなんとなく勇気が湧く。仲間を励ますときには「さすけね、さすけね」と声を掛ける。「ドンマイ!ドンマイ!」と同じだ。

「さすけね がま?」(大丈夫でしょうか?)「さすけね ベー」(大丈夫だろーよ)と、互いに励ましあって難局に挑む。時に失敗もあるが「さすけね、さすえね」と、気を取り直してもう一度! ふるさとの言葉は優しく背中を押してくれる。

幼い頃「さすけね~」と抱いてくれた母の声が今も消えない・・・と、終わればきれいにまとまるところだが、残念ながら私の母は東京生まれの東京育ちだった。遠い昔の事、コテコテの会津弁には、なかなか馴染めずにいたに違いない。

言葉使いを正されて涙ぐんでいた母の姿をうっすらと覚えている。

2010年2月16日 (火)

裏表ありすぎです。

冬空にすっくと立つ会津磐梯山、上から下まで真っ白け。朝日に輝く、青空に映える、茜に染まる。1819mの独立峰、きわめて姿の良い山だが、これほど裏表のある山は日本でも他にないのではないだろうか?

裏磐梯。裏に回ると山がそっくり吹き飛んで無いのだ。赤褐色に焼けた荒々しい山肌が表とは全く違った姿を見せている。

1888年の噴火は、山の頂上からボカーンという「私、火山です!」みたいな噴火ではなく、山の半分を吹き飛ばした大爆発だった。超大量の土砂が河川を堰き止め、無数の沼や湖を生んだ。死者は四百人を越えている。ただ、住む人が少なかったからこれですんだので、表に吹き飛んだら死者は数万人になったろうという大災害だったのだ。この裏表の落差はものすごい。このものすごさがその後、国立公園としての素晴らしい風景を楽しませてくれているのだ。

あまり関係はないが、会津の武士たちは裏表の無い生き方を良しとした(と、思う)。巧みに表と裏を使い分け、金や権威に媚びる器用な生き方を嫌ったはずだ。仰ぎ見る磐梯山に恥ぬよう、日々、精神の鍛錬に励んだであろうサムライたち・・・明治21年に磐梯山があんな事になるとは夢にも思わなかったろうなぁ。

2010年2月15日 (月)

会津はAIZUか?

「会津」という文字をローマ字変換で出そうと思うと「aidu」と打たないと出てこない。「aizu」では「合図」しか出ない。しかしながらポスターなどでの横文字表記は「AIZU」になっている。「aidu」では「あいどぅ?」・・・なんて読むんですか?ってなことになってしまうからだろう。

別におかしいとか、間違っているなどという事を言おうとしているのではない。「AIZU」で違和感はないし、いいのだが、ローマ字変換の人が検索エンジンで「会津」を探す時に出せないのではないか、などとちょっとつまらぬ心配をしてしまう。

会津の「津」とは水辺の意味だそうだ。大津とか焼津とかみんな港ですよね。会津は太古より水の大変豊かな土地で多くの湖沼群や、行く筋もの清流が大地を潤してきた。この地で古事記に出てくる四道将軍の父子が再会した事から「相津」・・・「会津」の名が生まれたと伝えられている。

言ってみれば会津は古来から「出会い」の土地であったのだ。そういう意味では「会津は出会いの合図!」なんていう駄洒落のようなコピーもまんざら外れてもいないわけだ。

このところ出会いの少ない人、バレンタインを淋しくやり過ごした人、会津に来れば、ひょっとしたら・・・・。

2010年2月14日 (日)

猪苗代連呼

悔しすぎます上村愛子の4位、でもいい滑りだったね、立派でした。彼女は昨年の世界選手権・猪苗代大会で見事金メダルだった。放送でも「昨年の猪苗代、猪苗代」と何度も猪苗代の名前が連呼されていた。オリンピックという世界の舞台で、猪苗代の名が出る、地元が呼ばれるとそれだけで嬉しくなるから不思議なものだ。

会津の小学校の校歌には必ずと言っていいほど磐梯山と猪苗代湖が謳われている。父と仰ぎ見る磐梯の峰、母なる猪苗代湖、絵葉書のような風景が幼いハートに焼き付けられている。それだけに猪苗代湖、磐梯山の名前がテレビで連呼されると、身内が褒められているような嬉しい気持ちになるのだろう。

この地元びいきの心理を巧みに利用したTV番組が「秘密のケンミンSHOW」だ。ローカルネタにゲストが大げさに驚いてみせ、それぞれの地元を自慢しまくる。低予算で高視聴率を叩きだす秘密こそが「地元が話題なると嬉しい」心理なのだ。

そこで、おまけのケンミンネタをひとつ。会津では「こわい」とういうのは「恐ろしい」という意味ではなく、「疲れた」という意味に使われる・・・・(会場一斉にエーッ!)

2010年2月13日 (土)

雪のないバンクーバー、積雪のいわき

会津のある福島県は広い。オーストラリアのような形をしており、太平洋側が浜通り地方、郡山市、福島市のあるのが中通り地方、郡山から西に山を越えると会津地方となる。会津地方の中心は会津若松市、ここから西へ、南会津、奥会津に広がる山間地域は千葉県よりも広い。が、そのほとんどが山だ。

福島県の3地方、歴史も文化も全く違う。全く違うその最大の要因は気候だろうと思う。特に冬、会津には雪が降るが、中通りは風が強いもののほんのわずか、浜通りは全く降らない。西高東低の冬型、会津が吹雪けば浜通りは快晴の別世界だ。この冬の違いが人々の気性に大きな影響を与えているのだと思う。

こんなに気候の違う地方を東西に横刺しするように磐越自動車道が走り、行き来は大いに便利になった。雪の会津でゴルフをすることはできない。快晴の浜通り・・・従って冬場はいわきまで行ってゴルフをすることになる。クルマで2時間弱、いくつものゴルフ場がある。早朝、雪の会津を出るときは信じられないのだが、絶好のコンディションでプレイが楽しめるのだ。

ところが、三日前、なんとそのいわきにも、栃木県の那須地方にも雪が積もったそうだ。聞けば昨日も今日もゴルフ場はクローズだという。明日の日曜、久しぶりにゴルフに出かけようと楽しみにしている我が身には辛い話だ。ひょっとしたら明日は出来ない。

バンクーバーに雪がなく、いわきに雪があるなんて・・・・その時は上村愛子を心から応援するしかないね。

2010年2月12日 (金)

んめぇもの・菓子 「松本家の水ようかん」

会津で水ようかんといえば松本家以外にない、と言ってもいいほど有名だ。店は東山温泉の温泉街の真ん中にある。おそらく百年近い歴史があるんじゃないのかなぁ。季節はずれなどと思わないで欲しい。夏限定ではなく一年中が旬だ。冬なんて暖かい部屋で冷やしていただくのは最高だ。

しつこい甘さがない。最上級の十勝の小豆を使い、ほんのりとした甘さ。舌触りが缶入りの水ようかんなどとは全く違う。実に水っぽくって口の中でホワッと溶けるような感じがする。お行儀良くというよりは、思わずバクバクとかぶりつきたくなる不思議な食感だ。

添加物を使っていないので日持ちがしない。クール便があるので遠くへも送れるのだろうが、地元で食べる新鮮さにはかなわない。出来立てをその日の内に食べるのがみずみずしくて一番美味しい。

昔から酒飲みも、辛党もこの水ようかんだけは喜ぶ、といわれている。会津若松市の奥座敷・東山温泉に遊び、したたかに飲んだ次の朝、冷えた水ようかんは最高だ。芸者衆との思い出は懐にしまいこみ、家人へのお土産に水ようかんひと箱ぶら下げてご帰還・・・これが正しい東山の楽しみ方といえるだろう。

2010年2月11日 (木)

会津にしかできない

12日、13日と会津絵ろうそくまつりが開かれる。鶴ヶ城本丸やお薬園、飯盛山などで会津の特産品である絵ろうそくを灯す。ただそれだけ、といえばそうだが雪景色の会津に絵ろうそくが描き出す世界はまことにロマンチックで美しい。この祭りは第11回という新しい祭りだ。静かな祭りではあるが、徐々に口コミで広まり、年々訪れる人が増えている。

会津絵ろうそくは、4百年以上の歴史を誇る会津の特産品だ。会津漆器は名高いが、同じ漆の木から採れる木蝋から作られる絵ろうそくはそれほどメジャーではないかもしれない。藩政時代、その品質の高さから将軍家への献上品にもされたという。その胴に四季折々の花を描いた美しい蝋燭、火力が強く簡単には消えない。この蝋燭を灯して行われた婚礼の儀、これこそまさに華燭の典である。

会津が誇る絵ろうそくを会津の風景の中で灯す。この独創性が素晴らしい。絵ろうそくを鶴ヶ城や飯盛山に灯すことは、どんなに頑張っても会津にしかできない。そのオリジナリティが大事だと思う。

全国各地で行われるイルミネーション、その規模や電球の数はやっぱりお金があるところにはかなわない。お金をかけさえすれば真似できるイベントは、結局追いつかれ、追い越されてしまう。どんなに小さくても、そこでしかできない、そこに行かなければ見れない風景、感動を創り出すことに力を注ぐ方がいい。

会津にしかできない会津絵ろうそくまつり、今年はたっぷりの雪の中で行われる。明日そして明後日、ひときわ美しい夜が会津に生まれる。

2010年2月10日 (水)

雪は解けるか?消えるか?

♪雪解け間近の北の国へ向かい~、とは言うが、雪に包まれた会津では雪解けと言うよりも、「雪が消えた」という言い方をする。「だいぶ雪、けぇだなぁ~(消えたなぁ)」という感じだ。この消えるという言葉には実感が籠もっている。

野山に積もった雪は、まさに春の気温で溶けて水となるが、家の周り、生活圏内ではそれよりもずっと早く雪は溶けてなくなってしまう。それは人々が懸命に雪をかたし、雪をいじくるからだ。家の周りの山積みの雪を、あっちにやったり、道路に出したり、流したり・・・少しでも黒い地面の顔を掘り出し、暇あるごとにスコップでガチャガチャやると雪は見る見る、まさに消えてゆく。

雪解けは自然の力だが、雪が消える、には若干なりとも人の手の加わった、ささやかな征服感のようなものがあるように思える。

「いやぁー、だいぶ雪けぇだ!」「けぇだなぁ~」ポンポンに乾いた道路を眺めて、ちょっと誇らしげに挨拶を交わす・・・そんな日はもう少し先のようだ。

2010年2月 9日 (火)

技術と予算

寒波一転、朝からシトシトと、雨だ。雪の上に降る雨は、股引き、長袖シャツを着たままお風呂に入るような気持ち悪さを感じる。

道路も雪が解け、ひどいところはボコボコのサファリラリー状態だ。冬道がきれいになるにはそれまでの除雪がモノを言う。まずは頻繁にやる事、そして技術だ。

ブルでやれば大差ないと思うだろうが、除雪も上手いと下手では大違いなのだ。この時期、奥会津に行くと、ものすごい雪だが道路はしっかりと道路、雪もなく実に見事な除雪だ。除雪技術が伝承の技としてしっかりと受け継がれている。

しかし、いくら上手くても頻繁に出動できなくてはだめだ。出動回数は予算とのにらめっこになる。今回の寒波後の会津若松市の除雪状況、大きな幹線道路は見事に雪がないものの、市内の道路、特に東西の道路はひどい。これは明らかに技術のみならず予算(出動回数)の問題ではなかろうか?

市税節約、ギリギリの除雪費、春になれば消えてなくなる何も残らないお金だ。どうやら景気は雪解けの道路にも影を落としている。

2010年2月 8日 (月)

軽く命がけ

週末からの寒波は結構なものだった。今日の日中あたりから気温が上がって、今週は暖かくなるらしい。

6日の土曜日は猛吹雪で磐越道も東北道も通行止めになった。そんな天気なのに朝のウチに郡山に出かけていた。観たい映画と、買い物があったためだ。14時前にはすべての用事を終えたが、郡山も結構な雪だ。「こりゃ、早めに帰るに限る」と急いで郡山を後にした。

交通情報を聞くと東北道、磐越道もストップ、仕方がない、49号線で会津を目指す。冬は磐梯熱海のトンネルを越えるとそこは雪国会津だった、というのが普通なのだが、郡山から猛烈な吹雪だ。磐梯熱海を過ぎると地吹雪になり、ほとんど視界が利かない。そんな中を、左側の除雪用のポールを目印に走っていく。ライトを点燈、それでも怖いのでハザードをつけながら走る。後ろの車がようやく見える程度、前からは吹雪の中からいきなりクルマが現れる。これで正面衝突したらイチコロかもしれない・・・さっきまで楽しく映画を観ていただけなのに、今じゃ命がけの世界だ。

雪国に住んでいると、こんな経験をした事のある人は少なくないはずだ。地吹雪の中、立ち往生したり、命からがら走ったり、溝に落ちたり、動けなくなったり。平気で軽く命がけの状態に追い込まれてしまう。「バカ!雪が降るなら出かけるな」といわれればそれまでだが、生きているとなかなかそうも行かないのだ。

郡山から3時間かかって会津に着いた。命からがら・・・だったが、まるで何事もなかったように買い物をし、湯豆腐を妻とつつき、ビールを飲んだ。「いやー、ひどかったなぁ」「死ぬかと思ったわ」と笑い合い、死ななかった事を称えあう。僕らは軽く命がけの日々を生きている。

2010年2月 7日 (日)

温暖化と運動不足

新雪25㎝、夜明けに除雪車が道路をかいていく。朝起きると、一応ストレッチをして家の周りの雪かたしに向かう。雪かき、雪ほり、いろんな言い方があるが、おらほう(私のところ)では「雪かたし」、屋根は「雪おろし」だ。

金曜からの雪で結構の量、スノーダンプ、スコップを使って約30分、大汗をかく。この冬一番の働きだ。根っから汗っかきなので、2、30分は汗がひかない。だから、勤めの日は早くやらないとだめだ。しかし、こんな大汗をかく雪かたしも、近年めっきり減ったように思う。ひと冬にせいぜい3,4回というところだろうか・・・。(昨年はゼロ)

冬はゴルフもせいぜい月に1回。ウォーキングもやれないことはないが雪と寒さを口実にやらない。自動的に運動不足に陥る。そんな中で雪かたしは格好の運動なのだ。それも温暖化でどんどん減っている。何か対策を考えないといけない、と思いつつ雪山のようなカーブを描くお腹をみつめる。

会津は雪が降り止み陽が差してきました。新しく真っ白な雪、いりませんけど、きれいです。

2010年2月 6日 (土)

遠き映画館

昨晩は映画好きの仲間が集まって遅い新年会をやった。サラサラ雪の冷え込みに誘われて二軒目に流れた。不思議な事に店の中は知り合いばかり、またも大いに盛り上がって飲みすぎてしまった。

会津の映画館はたった1軒(東宝系)になってしまった。一昨年までは4スクリーンがあったのだが3館一緒に閉鎖となった。残った映画館はまるで何かに抵抗しているかのように1月からずっと「沈まぬ太陽」を上映し続けている。

映画を見るには郡山(クルマ約70分)か新潟(クルマ約100分)か米沢(クルマ約110分)に行くしかない。いずれもシネコンがあるので大体の映画は見ることができる。郡山と新潟へは高速道路・磐越自動車道で。米沢へは一般道の峠越えになる。私はどうも峠越えが苦手で米沢には行ったことがない。先月、新潟で「アバター」を、今日、郡山では「インビクテタス」を見た。(クリント・イーストウッドって本当に天才ですね。素晴らしい)

映画館通いにETC1000円(郡山は650円)は大いに助かる。映画は夫婦割で1000円、ガソリン代、飯代は別にしても今のところは一人2000円の勘定だ。それが高速道路の無料化が実施されると1000円割引は無くなるというから頭が痛い。

昭和30年代には会津にも10館を越える映画館があった。今は全会津に1館という淋しさだ。自分が(いずれ)映画館のない街に住むことになるとは想像もしていなかった。これで高速代が上がれば、ますます映画館は遠くなってしまう・・・。

2010年2月 5日 (金)

んめぇもの・お店 「鶯宿亭」

鶯の宿と書いて「おうしゅくてい」。郊外の飯寺にも一店舗あるが、よく行くのは街の中、栄町の「鶯宿亭」だ。この店はなんと言っても女将さんの手作り料理がいい。季節に合わせて工夫を凝らした料理を食べさせてくれる。もともと趣味が高じてプロになったと言うだけに、和え物ものひとつにしても、胡桃、胡麻、じゅうねん、梅肉など「へぇー、こういう味付けもあるんだ」と感心させられることが多い。ニシンの山椒漬けやこづゆといった定番の郷土料理も楽しめるので観光客にもうってつけだ。

さつま揚げは自家製だ。他におでんやコロッケなどの手作りメニューが並ぶが決して種類が多い方ではない。もっとも、あまりメニューは見ないのだ。女将さんに「今日は美味しいもの何が出来ますか?」と聞いた方が間違いがないからだ。その日の食材、仕込みの塩梅でお薦めが変わる。お薦めをいただけばハズレはない。

亭主は、昼は食品会社の社長さん、仕事が終われば作務衣を着て給仕に入る。話好きな亭主との会話も楽しい。彼はとにかく女将さんの腕に絶対の自信を寄せていて、給仕しながらべた褒めするのだ。料理の腕にも女将さんにも惚れ切っているのがよく分かって微笑ましい。亭主は調理場には立たないが毎朝、自慢のそばを打つ。そのそばが女将さんの手にかかると、これまた絶品。ざるはもとより、あまり温かいそばは好まない方だが、仕上げにいただく地鶏そばの美味さは人に自慢したくなる。

大きな冷蔵ケースには会津の地酒がズラリ、他にワインや焼酎の種類も豊富だ。ビールに始まり、どこに行きつくかはその日の気分次第、仕上げのそばまで辿り着こうとするとどうしても長くなる。周辺には、スナック、クラブなどが沢山あるが、ここに来ると大体は一丁上がり、寄り道もせずにご帰還となる。

2010年2月 4日 (木)

底からの春

この冬一番の冷え込みの中で、立春を迎えた。朝、薄日の射す街はカチンコチンに凍りついている。ダイヤモンドダストとまではいかないが細かな雪が斜めに落ちてくる。風はない、氷点下10度近いかな。

まるで冬の底のような朝、でも、日脚は確実に伸びている。勤めの帰り、赤提灯の暖簾をくぐる頃にはまだうっすらと明るさが残っているようになった。気温は真冬のままだが、光の量が確実に増えている。こんな季節を「光の春」と呼んだお天気キャスターさんがいたっけ・・・。

会津弁では「かんじる」という。「感じる」ではなくて「寒じる」なんだろうが、駄洒落のみたいだ。「いゃー、今朝は寒じんなぁし!」「んだなし」とあいさつを交わす。

この寒じるが、寒じるほどいいのが会津清酒の仕込みだ。まさに今が最盛期、造り酒屋の前を通ると蒸し米の蒸気が夜明けの街にもうもうと吐き出されている。この寒さじゃ、きっと今年もいい酒が出来ることだろう。

2010年2月 3日 (水)

鬼の目玉ぶっつぶせ!

今朝、仏壇に本夕にまく豆を供えた。効力が高まるだろうとムシのいいことを考えている。昔はもちろん炒った大豆だったが、最近は殻付きの落花生だ。情緒にかけるが、始末が良い。

「福は内、福は内、鬼は外、鬼は外、鬼の目玉ぶっつぶせ!」と言ってまく。会津の中でも掛け声はいろいろだ。最後が違う。「恵比寿大黒豆上がれ!」というのを聞いた事がある。子どもたちが家を離れた中高年夫婦二人の豆まきは寂しい。時々、妻にぶつけたりしている。

豆をまく時に、窓や引き戸、どこか一ヶ所を開ける。鬼が逃げられるようにだ。でも、ふと考える。福は入れ替えに外から入ってくるのだろうか?いやそうではないだろう。そもそも家の中、人の心には福と鬼の両方が棲んでいる。

福は空から気まぐれに降ってくるものではない。誰の心の中にもすでにある。福を邪魔する鬼を追い払う事で福が笑うのだ。「ねたみ、そねみ、憎しみ、怒り」そんな鬼を追い出すのは豆まきの様にたやすい事ではない。しかし、季節を分けるこの日に自分の心に問いかけてみる事で、福も少しは近づいてくれるのではないだろうか。

2010年2月 2日 (火)

薄化粧がいい

今朝の会津は積雪2、3センチ、氷点下5度近く。こんな風に冷え込んだ朝は美しい。山の木々、一本一本を超微細画のように新雪が描き上げている。山は木でできているんだ、そんな事を改めて思う。雲が切れて山肌に陽が差し込むとその美しさはまた格別、思わず息を飲む。

凛と立つ鶴ヶ城もいい。うっすらと雪化粧した天守閣、それを取り囲んで松の大木が墨絵のの世界を造る。時の経つのも忘れてしまう。凍ったお堀の氷の上をカモたちが動くことで、静止画ではない事に気づく。

澄みきった真冬の冷気、厚化粧は要らない、こんな薄化粧の会津が好きだ。

2010年2月 1日 (月)

如月と順応力

如月を「着更着」と書くという説もある。一年で一番寒いこの時期(新暦では)重ね着の「着更着」は雰囲気が出ている。

会津の二月は寒い。各地の雪祭りが集中するように雪も多い。だが不思議な事に、この時期になると身体が寒さに順応し、そんなに寒いとは感じなくなってくる。人間の順応能力というのは実に大したものだ。震え上がってタクシーを捜してた酒場の帰り道も、凍えてキュッ、キュッと鳴る雪の音を聞いている内になんだか嬉しくなって来て、もう一軒行くか!と盛り上がってしまう。こんな風にどんなことにも順応できるから人ってやっていけるんだろうなぁ・・・と、感心する。

今朝は車外気温2度、厚曇り。気温が高く少し寝ぼけたような朝で会津は二月を迎えた。今晩からはまた雪になるらしい。このひと月をやり過ごせば、春がくる。

『120円寒波の街に落ちてくる キリマンジャロ缶入りの一服』

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